よい気遣いは安心を提供してくれる

よい気遣いとは何なのか、ということを少し考えてみましょう。

今までに自分が受けたよい気遣いを思い出してみてください。

困っているところに手を差し伸べてもらったとか、自分の作業の先を読んでスムーズに進むようにしてもらったとか、疲れているときにほっと一息つけるような配慮をしてもらったとか、頑張っているときに温かくねぎらってもらったとか、そのような例が挙がってくると思います。

あるいは、名前を覚えていてくれたとか、自分の好みを覚えていてさりげなく演出してくれたとか、そういったものかもしれません。

これらには、共通点があります。

それは、「安心」が提供されているということです。

困っているところに手を差し伸べてもらうと、もちろん安心します。

自分がやっていることの先を喜んでスムーズに進むようにしてもらえると、自分が進む道を見守って支えてもらっているという安心感を持てます。

またそれは、まだ自分が気づいていない「困っているところ」に相手が先に気づいて助けてくれたとも言えるものですから、やはり安心につながるのです。

努力や存在を認めてもらうことも「安心」につながる

疲れているときにほっと一息つけるような配慮をしてもらうと、それ自体が癒される体験になると同時に、「自分の疲れに気づいていてくれた」という安心感も得られます。

誰も見てくれない中で孤軍奮闘するのは辛いものですが、その様子を思いやりを持って見守ってくれている人がいる、というのは安心につながり、元気をもたらします。

自分の頑張りを温かくねぎらってもらえると、「努力が報われている」と感じ、ほっとしますね。

残業中に上司が差し入れをしてくれる、などというのは、差し入れそのもののありがたさに加えて、「努力をわかってくれている」という安心感があるのです。

名前や好みを覚えていてくれた、というのは、自分の存在が尊重されているという安心感をもたらします。

「どうでもよい存在」「不特定多数の中の一人」ではなく、一人の人格として尊重するだけの価値があると相手から認められることは、安心できる体験なのです。

一般に、「わざわざ〇〇してくれた」というのは嬉しいものですが、それは、自分という存在がちゃんと尊重されているからです。

一方、「あの人の気が利かないせいで恥をかいた!」などという場合には、「安心の提供」とは正反対のことが起こっていると言えるでしょう。

たとえば、共通の知人を介して誰かと知り合ったのに次からはその人をとばして直接連絡を取り合う、ということをしてしまうと、「メンツをつぶされた」「失礼だ」などと怒られる場合があります。

それは、自分の存在が軽視されたことによって安心が脅かされたからでしょう。

このあたりの感じ方にはかなりの個人差があり、全く気にしないどころか、むしろ勝手に連絡を取り合ってください、というタイプの人もいますが、そういう人にとってはこれが「安心が脅かされる」体験にならない、ということなのだと思います。

「元気になる気遣い」のキーワードは「大丈夫」

よい気遣いとは安心を提供するもの、と言えますが、そもそも人はどういうときに「安心」を感じるのでしょうか。

何と言っても、「このままで大丈夫」というメッセージを受け取ることが、一番の安心でしょう。

変わる必要もなく、自分を疑う必要もなく、自分を嫌う必要もなく、何かを怖れて備える必要もない。

それが人間を最も安心させることは間違いありません。

気遣いのポイントは、相手に「このままで大丈夫」というメッセージを伝えること、と言ってもよいと思います。

あなたには何も不適切なところはないから大丈夫。

今後のことについても心配する必要はないから大丈夫。

あなたという存在はうけいれられているから大丈夫。

見返りは求めないから大丈夫。

そういう感覚が伝わるものが、よい気遣いなのだと言えます。

まずは自分自身に安心を提供するところから

疲れる気遣いのエネルギーは不安で、不安のエネルギーで相手を本当に安心させるのはほとんど不可能です。

一時的・表面的に可能な場合もありますが、持続可能性という点では問題があります。

不安のエネルギーで相手を安心させようとしていくと、自分が燃え尽きてしまうでしょう。

逆に、自分にとって持続可能なように手を抜いたり「安心の押し売り」をしたりしてしまうと、結局相手に不信感を持たれたり疲れさせたりしてしまいます。

ですから、相手に安心を提供しようと思ったら、そのエネルギーそのものが安心である必要があるのです。

まずは自分が安心している必要がある、ということです。

つまり、元気になる気遣いにおいては、安心が提供される対象は相手だけではなく自分自身も、ということになります。

自分自身に安心を提供するというのは、自分自身がまず「大丈夫」だと思うということ。

何が大丈夫なのかと言えば、自分は本来が親切な存在であり、その自然な流れを妨げないようにすれば、また自分の領域に責任を持ち、相手の領域を尊重し、不安のメガネで相手を見る目を歪めたりしなければ、適切な気遣いができるはず、という「大丈夫」なのです。

その「大丈夫」を感じるための姿勢を、この後に見ていきますが、「不安」を強めてもよい気遣いはできない、ということだけはまずここで押さえておいてください。

よい気遣いの方向性は、不安ではなく安心のほうにあるのです。

一緒にいるだけで安心できる人になろう

よい気遣いのエネルギーは安心、ということは、さりげなく温かい気遣いが上手な人をみているとわかることです。

そのような人は、笑顔で安定していることが多く、一緒にいるだけで安心しますね。

一緒にいるだけで安心するというのは、「このままで大丈夫」というメッセージを受け取っていることにもなります。

「大丈夫」な感じを自らが醸し出すことが、実は一番の気遣いです。

疲れる気遣いをしているときには、自分自身が不安にとらわれているのですから、一緒にいるだけで安心というわけにはいきません。

気遣いされる側にとっては、気遣いしてもらえることはありがたいけれども、ただリラックスして受け取っていてはいけない、背筋を正してお返ししなければならない、というような気持ちにすらなるものです。

自分自身のありのままを受け入れてもらえることが最高の「安心」

「このままで大丈夫」の最たるものは、自分自身のありのままが受け入れられる体験です。

素のままでいられる、取りつくわずにすむ相手と一緒にいると、安心します。

アウェイだと感じるときは気遣いが嬉しい

一般に、私たちが気遣いをとてもありがたく感じることが多いのは、自分にとって「ホーム」でない領域にいるとき。

よく知らないところ、よく知らない人たち、よく知らない状況にいるときには、自分がどう振る舞ったらよいかがわからず、不安がたくさんあるのです。

世代が違う人と一緒にいるときにどうしたらよいかがわからない、というのも「よく知らない状況」の一つです。

そんなときに安心を提供してもらうことの価値はとても高いものです。

どう振る舞ったらよいかがわからない状況で、そのままで大丈夫と言ってくれたり、さりげなく振る舞い方を教えてくれたりする人は、救世主のように見えることすらあります。

「ホーム」でないということは、つまり、自分自身について「不適切な感じ」「場違いな感じ」を抱く、ということなのですが、それは、「ありのままの自分で大丈夫」という感じ方と正反対だと言えるでしょう。

「ホーム」にいるときでも、普通の状態でない、ということもあります。

機嫌が悪いときにそっとしておいてもらうのもまた「ありのままで大丈夫」ということが伝わってくる気遣いです。

いちいち「大丈夫?」「何かあったの?」などと聞かれると、かえって煩わしく感じることもあるのです。

愚痴を言いたいときもありますが、そんなときはただ愚痴を聴いてもらえるのが「ありのままの受け入れ」。

「愚痴をこぼしても仕方ないでしょう」「相手だって悪気があってのことではないのだから」などと言われるのはもちろん「ありのまま」の否定ですし、単なる愚痴なのに真剣に解決法をアドバイスされたり「かわいそうな人」と深刻な評価を下されたりするのも「ありのまま」の受け入れではないのです。

安心の提供は相手の領域を尊重すること

これはまさに相手の領域の尊重です。

相手が何らかの「標識」を立てているとき、つまり、不機嫌なときにはむしろ声をかけてあげたほうがよいタイプだとわかっている場合にはあえて声をかける、などの応用はもちろん可能です。

あるいは、「愚痴を聴いてもらいたそうな様子」という「標識」を立てているのであれば、「よかったら話を聴こうか?」などと声えをかけてもよいのです。

ちなみに、最も愚痴を聴いてもらいたいと思う相手は、自分のありのままを受け入れてくれる相手です。

愚痴をこぼすことの最大の効用は、自分の気持ちを受け入れてもらうことであり、「そう感じていいんだよ」という肯定的なメッセージをもらうことです。

ですから、何か一言言うだけで「それはちょっと違うんじゃない?」「こういうふうに考えたらいいんじゃない?」「誰にでも辛いことはあるんだから」などと言ってくるような相手、つまり簡単に評価を下してくるような相手には、愚痴を聴いてもらいたいとは思わないのです。

相手のありのままを尊重していれば、「話を聴いてもらいたい相手」「相談してみたい相手」になっていくはずです。

気遣い上手になりたい、と思っている人の一つの目標が、「話を聴いてもらいたい相手」「相談してみたい相手」になることですね。

聴き上手は、間違いなく気遣い上手だからです。

気遣いの悩み:食事の場で、率先して取り分けたり、みんなの飲み物を注文したりと気遣っていると疲れてしまう。

私も周りのことを気にしないで、他の人みたいにゆっくり楽しみたい。

でも「気が利かない」と思われるのも嫌。

食事の場でのこうした気疲れは少なくないですね。

もちろん、その食事の目的が「接待」と明確になっているのであれば、取り分けや注文は仕事と言えるでしょう。

「さあ、今日は仕事を頑張ろう」という気持ちで、前向きに臨めばよいと思います。

一方、より懇親的な色彩の強い場では、自分ももちろん楽しむ権利があります。

そんなときにも疲れる気遣いをしてしまうと、楽しむどころか疲れ果ててしまうことに。

実は「取り分け」「注文」には、相手の領域という観点からも問題があります。

料理を取り分けるということは、相手が食べるものをコントロールしている、ということにもなりますし、飲み物を注文するということは、相手が飲むタイミングをコントロールしている、ということになります。

そして、「食べたいものだけ取りたい」「飲みたいときにだけ追加注文したい」と不満に思う人も実際にいるのです。

こうやって考えてみると、自分の楽しみを犠牲にして疲れ果ててやっていることが、他人の自由を奪い不満すら抱かせる、というのはとても損な話です。

疲れる気遣いに特徴的な、わりの合わなさだと言えます。

ここでも基本は「自分の標準的な気遣い」と「相手に合わせた工夫」。

たとえば自分の標準的な気遣いとしては、「料理は最初の一回だけ取り分ける」「飲み物は最初の注文だけ取りまとめる」と決め、その後は各自のペースに任せる、というやり方が現実的かもしれません。

その上で、相手が「料理はどうしても取り分けてほしい」「飲み物の注文は遠慮してしまって苦手」という「標識」を立てているのであれば、その分だけ気遣いをする、というふうに考えれば、気が利かないと思われる不安に襲われて疲れ果てる、ということがなくてすむでしょう。

決めつけるとよい気遣いができない

「ありのままの受け入れ」の対極にあるのが、「決めつけ」です。

いろいろな方を見てきて、気遣いがうまくできていないと感じさせる人に多いのは、「少ない情報でさっさと相手を決めつける」というパターンです。

実際の相手をより注意深く見れば気づくような「ずれ」に気づかずに、自分がさっさと決めつけた「自分が考える相手」に向けて気遣いをしてしまっているのです。

「自分なりの位置づけ」は主観的なもの

私たち人間が、「自分なりのとらえ方」で相手を見る、ということをまずするのは仕方のないことです。

人間は生き物ですから、安全を確認しながら生きる必要があり、未知のものを見たときにそれを位置づける習慣があります。

「よくわからないもの」のままにしておくと安全ではないので、不安を感じます。

ですから、とりあえず、「自分なりのとらえ方」でそれを位置づける、ということをするのです。

そうやって位置づけること自体は、生き物としての私たちが無事に暮らしていくために備わった仕組みみたいなものであり、悪いことではないのですが、それはあくまでも主観的なものです。

「自分が」知っていることに基づいて、「自分の」感じ方に基づいて、位置づける作業だからです。

ところが、「あくまでも主観的なもの」という自覚なく相手に押し付けてしまうと決めつけということになってしまい、暴力的にすらなります。

気遣いにおいては、やはり、実際の相手とのずれが問題になってきます。

よい気遣いをするためには、自分なりのとらえ方で見た相手と、実際の相手とのずれを常に補正する努力が必要です。

そうしないと相手に安心を提供するどころか、不安や不愉快を提供することにもなりかねないのですが、「決めつけ」に基づいた気遣いは、相手を傷つけてしまうことすらあるのです。

気遣いの悩み:よかれと思ってアドバイスしたら、ムッとされてしまった。

実はアドバイスは要注意。

この例のように「ムッとされてしまった」のが明らかであればまだ「不適切なことをしてしまった」と気づけるのですが、そうでない場合もあります。

口先だけは「そうだね」「ありがとう」などと同意しておきながら、心の中では深く傷ついていたり、アドバイスした相手への恨みを抱え込んだり、ということすらあります。

なぜアドバイスが人を傷つけたり怒らせたりするのかと言うと、すべてのアドバイスに、「現状はよくないから、こういうふうに変えたら?」という意味合いがあり、そこには、「現状はよくない」という、「ありのままの否定」があるからです。

ある人が愚痴をこぼしたときに、「愚痴を言っていても始まらないから、こういうふうに相手に伝えてみたら?」とアドバイスする人は「愚痴にとどまっていて、相手に伝えるべきことを伝えていない」というありのままを認めていません。

「ネガティブな面ばかり見ていないで、こういうふうに前向きに考えてみたら?」とアドバイスする人は、「ネガティブな面にばかり目がいっている現状はよくないから、前向きに考えたほうがよい」と決めつけています。

つまり、「現状はよくない」、相手のありのままはよくない、という決めつけがあるのです。

アドバイスというのは、状況を変えるための提案なのですが、「〇〇したら?」「××と考えたら?」と、相手を変えようとする形をとります。

疲れる気遣い」をする人は、どうしてもアドバイスをしがちなのですが、それも当然のことです。

「相手の領域」に入り込み、「相手をよい状態にしてあげる」という結果を得たいと思う気持ちは、容易に相手を変えようとする提案につながるからです。

しかし、すでに見てきたように、すべての人に、その人にしかわからない事情があり、そのありのままは必然とも言えるものなのです。

アドバイスされたようなことができないから苦しんでいる場合も多いのです。

それを「よくない」と決めつけると、相手の努力を否定し、傷つけてしまうこともあります。

気遣いの基本は、相手をよい状態にしてあげることではなく、「相手に安心を提供する」ことだと考えれば、相手の領域を尊重したまま、つまり相手を変えようとすることなく、自分の領域でできる気遣いに専念できるはずです。

それが相手に安心を提供する、そして自分も元気になる気遣い、と言えます。

相手のありのままを肯定した情報提供

アドバイスがいけないのなら、「ホーム」でないところでどう振る舞ったらよいかがわからない人に、「こういうふうにすればいいよ」とさりげなく教えてあげることもいけないのか、というと、それはもちろん違います。

アドバイスの問題は、「情報を提供していること」にあるのではなく、「本人のありのままをどこかしら否定していること」にあるからです。

「ホーム」でないところにいる人は、「どういうふうに振る舞えばよいか教えてほしい」という状態にあるのであり、そこに情報を提供してあげることは、本人のありのままを否定することにはなりません。

むしろ、「そうだよね、わからないよね。わかると安心だよね」と相手の感じ方を肯定し、寄り添っていることだと言えます。

たとえば、初めての場に来て、振る舞い方がわからないという人に、「あそこで手続きをして、あとは何となくあのあたりに座っていれば大丈夫ですよ。

よくわからない話でも、ニコニコして聴いていれば大丈夫」

「ここは、むしろ自然体でいたほうが違和感のないところだから、周りに気をつかわないでできるだけくつろいで」

「〇〇さんと××さんにだけは挨拶をしないと機嫌を損ねるから、私が紹介して挨拶の時間をつくるけれども、あとの人たちはみんな気楽だから大丈夫」

「あなたはこの環境との相性がとてもよいみたい。すでにとけ込んでいる感じだから、その調子で大丈夫」などと情報提供することの価値は、どう振る舞ったらよいか分からない人にとっては、本当に「まさにこういう情報がほしかった」というものでしょう。

アドバイスとの違いはどういうふうにすれば分かるかと言うと、自分の安心感。

「こういうふうにすれば大丈夫」と安心した気持ちで提供できるものは、相手に寄り添った情報です。

この場合、相手を変えたいという気持ちは全く感じていないはずです。

もしも相手がその通りに振る舞わなくても、不満に思わず、「まだとまどっているのかな」「うまく消化できなかったかな」と思う程度でしょう。

一方、疲れる気遣いによるアドバイスの場合には、相手の現状に不安を感じたりイライラしたりしており、相手を変えたくなっているはずです。

すると、自分の言うことを聞かない相手に苛立ちを感じるでしょう。

自分が言った通りのことを相手がしないときに不満を感じるとしたら、それは相手の領域に入っている証拠。

相手のありのままを受け入れる必要性を知らせてくれるときです。

気遣いの形だけにとらわれてしまうと・・・

いろいろな気遣いの本を読んで「なるほど、こうすることがよい気遣いなんだな」などと思い込むことも、一種の「決めつけ」をつくってしまいます。

よい気遣いについての知識も実際の相手とのずれを生む

たとえば、「メールよりも電話、電話よりも対面」というのはよく言われる気遣いです。

これは「礼儀」という意味では正しいのでしょう。

正式に何かをお願いするときにメールですませるのは失礼だと考えられていますし、「本来は直接おうかがいすべきところ」などと手紙やメールに書くのもそれが理由です。

「メールよりも電話、電話よりも対面」というのは、「礼儀正しさ」の基準としては、その通りなのでしょう。

しかし、気遣いということになると、また基準が違ってきます。

気遣いの基本は、安心の提供です。

人によっては、「安心」を、「自分という存在がどれほど尊重されているか」に最も求めますから、「メールよりも電話、電話よりも対面」が気遣いとして機能します。

「わざわざやってもらっている」度合いがそれだけ強くなるからです。

しかし、自分の時間管理に強い思い入れを持っていて、直接対面や電話などは「自分の時間をとられる」という意識を持っている人もいます。

そういう人にとっては、自分のタイミングで読めるメールこそが、最も「安心」を提供する、ということになります。

また、普段は直接対面を好む人でも、とても忙しいときには「メールを送っておいてください」ということになる場合もあるでしょう。

時間が足りない、という状況にあるときには、やはり時間を奪われないことが「安心」にるながるものです。

このような人に対して、ただ形としての「メールよりも電話、電話よりも対面」を追求してしまうと、気遣いどころか「気が利かない」と思われかねないのです。

自分が「よい気遣い」として知っている形についても、実際の相手とのずれを常にチェックしていく必要があります。

礼儀を基準にして、相手に選択肢を与える

何であれ相手の時間を奪ったりペースを乱したりする要素のあるものについては、相手に選択肢を与えるのが本当の気遣いでしょう。

しかし、選択肢の与え方にも気遣いが必要です。

「忙しいからメールにしてください」と言うことはできても、「私という存在を尊重してほしいので直接挨拶に来てください」とは言いにくいからです。

自分という存在を尊重してほしいと要求するなんて、器の小さい人間のようにおもわれてしまうのではないか、と気になることでしょう。

ですから、やはり「礼儀」を基準にして選択肢を与えるのが相手に「安心」を与える気遣いなのだと言えます。

そもそも「礼儀」というのは、相手という存在を尊重するための表現の形だからです。

「礼儀」であれば、「メールよりも電話、電話よりも対面」です。

ですから、まずは対面のお願いからです。

その際に、「〇〇という用件で、ぜひご挨拶にうかがいたいと思います。お時間をとらせて申し訳ございませんが、ご都合のつく日時をお知らせいただけますでしょうか」というふうに、「〇〇という用件で」を明確にすれば、相手は対面が必要なことなのかどうかを判断することができます。

そして「時間がとれないので、その用件であればメールにしていただけますか」などと選択することが可能になるのです。

この場合、相手が手段を選択できるように「用件を明確にする」ということが気遣いの形になっています。

「メールよりも電話、電話よりも対面」にとらわれているときとは全く違う視点になっています。

何であれ相手の時間を奪ったりペースを乱したりする要素のあるものについては、常に頭にとめておきたい気遣いです。

どのような話し方をするかも「礼儀」を基準に

言葉遣いや話し方も、「礼儀」を基準にして相手に選択肢を与えるべき性質のものと言えます。

きちんとした敬語を使ってほしいと思う人もいれば、それでは堅苦しいのでもっとくだけた言葉を使ってほしいと思う人もいます。

この場合も、まずは「礼儀」としての敬語で話し、相手から「もっと柔らかい言葉にしましょうよ」と言われれば変える、という順番がよいでしょう。

これは相手にとって、くだけた言葉の人に「敬語を使ってください」とは言いにくい、という理由もありますが、それ以上に、敬語を求める人は、くだけた言葉を使う人のことを「信用ならない」と感じたりするからです。

「礼儀正しさ」は、人間として信頼できる感じにもつながるものです。

きちんとした敬語を当たり前のように使うことで「きちんとした人なのだな」と感じられれば、それだけ人間としての信頼感も上がります。

「敬語が使える」という能力を知ってもらった上で、相手との関係性に応じて言葉を崩す、というのはもちろん構わないのですが、最初からくだけた言葉を使ってしまうと、「敬語が使える」という能力さえ知られる機会がない、ということにもなってしまいます。

これは自分にとっても損ですし、相手に対しても、本当は不信感を持たなくてよい人間に対して不信の目を持ち続ける、という負担を強いることになってしまいます。

つまり、安心を提供できていない、気遣いできていない態度ということになります。

気遣いの悩み:初対面の人とすぐに打ち解けられるような気遣いをしたい。

敬語を避ける人の多くが、「堅苦しくない感じ」を求めてのことだと思います。

初対面の相手にくだけた言葉を使うのは、「堅苦しくなくやりましょうよ」という気遣いであることも多いでしょう。

これはたとえば相手が子どもである場合には、もちろん有効です。

なぜかと言うと、敬語は子どもにとって「ホーム」でない言葉だからです。

自分にとって「ホーム」の言葉を使ってもらったほうが、違和感が少ないため、安心して会話に入ることができるでしょう。

年齢的には大人であっても、その人が日頃全く敬語を使わない生活をしているのであれば、やはり敬語は「ホーム」でない、と言えます。

しかし、多くの大人が、少なくとも社会常識としては敬語を重んじる生活をしていますから、初対面で用いる言葉は、敬語のほうが「ホーム」だと言える場合が多いでしょう。

そこにくだけた言葉を使うことのマイナスは、前述した通りです。

それでも、初対面の人と打ち解けた雰囲気をつくりたい、というときには、どうしたらよいでしょうか。

その基本は、「ありのままの受け入れ」です。

初対面なのに初めて会った感じがしなかった、という経験がありませんか。

温かく、落ち着いていて、古くから知っている感じがする人。

そんな人に出会うと、緊張感も和らぎ、自然体で振る舞いやすくなります。

初対面の雰囲気が気まずく感じるのは、やはり緊張がその場を支配するから。

緊張をつくるのは不安ですが、不安は「安全が確保されていない」ことを知らせる感情です。

自分のありのままを受け入れてもらえる雰囲気があると、安全を感じるので、緊張が解けるのです。

逆に、「打ち解けたい」という姿勢が前面に出てしまうと、相手は違和感を覚え、ますます緊張することもあります。

まだ打ち解けていない相手に対して、「打ち解けたい」というプレッシャーをかけると、「ありのまま」が脅かされるからです。

初対面の相手と打ち解けるためには、自分の話をするとよい、という気遣い法もあります。

しかしこれも下手をすると、かえって相手に「初対面なのに、距離が近すぎる」と脅威を感じさせることにもなります。

ですから、「何をすれば打ち解けられるのか」というテクニカルなことよりも、まずは自分自身が「不安」ではなく「安心」のエネルギーを持つということに専心したほうがよいでしょう。

お互い、人間なのだから大丈夫。

初対面で緊張するのは、人間なのだから当たり前。

相手は緊張していても大丈夫。

そして、自分が安心していれば、そのエネルギーが相手にも伝わって、やがて相手も安心するはず。

そういう「大丈夫」感を自分が持つことなのです。

自分の話をする際にも、アピールすることよりも、安心感を持たせるような話し方をするとよいでしょう。

失敗談などが比較的効果的なのは、「この人も失敗するんだ」という安心感をもたらすこともあるでしょうが、「失敗談でも落ち着いて楽しそうに話している」という雰囲気による安心感のほうが大きいと思います。

「相手という存在の尊重」の基本は、「共有した体験の尊重」

気遣いを説くものの中には、たとえば「相手の誕生日を記憶しておいてお祝いのメッセージを送りましょう」などという「形」を示すものもあります。

しかし、誕生日の場合、微妙なところもあると思います。

その人にとって誕生日がどういう意味づけになっているかにもよるからです。

誕生日をお祝いすることが自然な習慣になっていて、「誕生日を知っていること=相手に関心を持っていること」という構造を受け入れている人であれば、誕生日を覚えておいてお祝いしてあげると「安心」をもたらすでしょう。

しかし、人によっては誕生日をしられていることを「気持ち悪い」と感じる人もいます。

誕生日を知られているということは、ほかにどこまで知られているのだろうか、と不安になるのです。

また、誕生日を祝う習慣のない人は突然誕生日のお祝いを言われると違和感を覚えたりするものです。

「わざとらしい」「下心があるに違いない」などと勘ぐる人もいます。

人によっては、「相手の誕生日を記憶しておいてお返ししなければならない」という負担を感じることもあるでしょう。

いずれも「安心の提供」という気遣いの目標とは反してしまいますね。

そもそも、誕生日をお祝いする、というのは相手という存在を尊重していることを示す気遣いの一つの形にすぎません。

誕生日を祝われることで「自分という存在が尊重されている」と感じない人にとっては、本来意図した気遣いとして機能しないということなのです。

「誕生日を祝われれば誰でも嬉しいはず」という「決めつけ」があると、こうした「実際の相手」とのずれが見えなくなるのだと言えます。

そうは言っても、相手がどういうタイプの人なのかがわからない、と思うでしょう。

その場合は、「共有した体験の尊重」という考え方を頭に置いておくと役立つと思います。

相手と共に過ごした時間をよく記憶している、ということは、間違いなく相手という存在を尊重していることです。

誕生日を教え合った、あるいは誕生日への思い入れやお祝いの習慣が話題になったのであれば、誕生日をお祝いすることが「共有した体験の尊重」ということになるでしょう。

そうでなければ、リスクを冒すよりも、もっとわかりやすいところでいくらでも気遣いができるはずです。

気遣いの悩み:名前を覚えるのが苦手。名前を忘れてしまったときは、気まずくてコミュニケーションを避けてしまう。

「相手の名前を覚える」というのも気遣いの常套手段です。

「不特定多数の中の一人」ではなく、一人の人格として尊重することは、確かに名前を覚えるところからですね。

しかし、どうしても人の名前を覚えるのが苦手、という人はいるでしょう。

そんなときに「名前を覚える」という気遣いの「形」にとらわれてしまうと、「どうしよう、名前を覚えていない!」という不安に駆られてしまいます。

すると、「不安のメガネ」によって相手を見る目が歪んでしまったり、不安をエネルギーにした疲れる気遣いに突入したりしてしまいます。

そんなときには、「形」を手放す必要があります。

「形」を手放すためには、そもそもの目的に立ち返ることが必要です。

そもそも「名前を覚える」という気遣いは何のためのものなのか、ということを考えてみれば、相手という存在を尊重するということです。

「あなたはとても大切な人なので、よく覚えていますよ」ということを知らせたいわけですから、名前が思い出せなければ、先ほど述べたように、相手と共有した時間の記憶を口にするのも一つの方法なのです。

たとえば、「この前お会いしたときは〇〇とおっしゃっていましたよね。今日はいかがですか」と尋ねてみたり、「この前もおしゃれな方だなと思いましたが、今日もまた違った雰囲気で素敵ですね」と言ってみたりすると、「ああ、前に会った自分のことを、一人の人格としてちゃんと尊重してくれているのだな」と感じることができます。

その上で、名前を知っていることが必要なのであれば、「私の頭はどうかしているらしくて、人の名前を覚えるということが決定的に苦手なのです。

本当に失礼で恥ずかしいのですが、お名前をもう一度教えていただけますか?」と尋ねれば、「名前を覚えてもらっていないのは自分が尊重されていないわけではなく、相手の問題なのだな」と思うことができますので、「安心」が脅かされることもないはずです。

気遣いの望ましい「形」が実現できない人は、そもそもの目的に立ち返って、より自分に合った「形」に変える、というのも、結果として相手に対してよい気遣いをすることにつながります。

気遣いが安心を脅かす要素を減らす

気遣いのポイントは安心の提供ということはわかっても、どうしてもことの性質上「安心の提供」が難しいものはあります。

その一つが、相手が聞きたくないことを伝えるときでしょう。

聞きたくないことを聞かされると、人は基本的に衝撃を受けます。

それはもちろん、安心とは対極のところにあるものです。

気遣いの悩み:相手を気遣うと、言えないことが出てきて隠し事がいつの間にかどんどん増えてしまう。

よい気遣いは、もちろん、相手に衝撃を与えないこと。

ただし、どうしても衝撃的なことを伝えなければならないタイミングというものがあります。

よく、「ショックを受けると思ったから言わなかった」「心配をかけると思ったから言わなかった」という気遣いをしている人を見かけます。

よほど深刻な健康状態にあって、何であれストレスフルな話はしてはいけない、という「標識」でも立っていない限り、人間には、自分に多少とも関係のある話について知って対処する権利があります。

「もっと早く報告してくれていたらうまく対処できたのに」「もっと早く教えてくれていれば余計な心配をせずにすんだのに(心配をかけまいとして何かを隠すと、どこかに不自然な歪みが出てきて、かえって相手を心配させることも多いものです)」などと相手に思わせるのは、よい気遣いではありません。

ショックを受けるのも、心配するのも、人生の一つの要素で、そういうことを一つ一つ体験しながら人は成長していくのです。

そして多くの人が、それをちゃんと乗り越えて生きていく力を持っています。

「ショックを受けると思うから言わない」「心配をかけると思うから言わない」という姿勢が、「相手の領域」についての決めつけだという意識は持っておく必要があります。

その上で、「安心の提供」が無理なときにもできる気遣いがあります。

それは「安心を脅かす要素」を減らすこと。

たとえば、「心配をかけるかもしれないけれども、重要な話だからしておきますね」と前置きすれば、相手はそれなりに心の準備をすることができます。

どういう心構えで聞けばよいかがある程度わかるからです。

心の準備もないときに突然聞かされることが、衝撃をよりひどいものにします。

ですから、話の内容としては「安心の提供」が不可能なものであっても、「前置きをすることで心の準備をさせる」ことによって、「安心を脅かす要素」を減らすことが、立派な気遣いになるのです。

さりげない気遣いは受け取るためではない気遣い

せっかく気遣いをしても、それが「わざとらしい」「見返りを求めているのではないか」などと思われてしまうと、安心の提供どころではなくなってしまいますね。

さりげない気遣いというのは、気遣いであることも気づかれないようなもの。

自分が何かを進めていこうとするときに、その流れにすっと添ってもらうようなものです。

そういう意味では、相手の領域をきちんと尊重した上で、相手を知る努力をし、できるだけ相手に合った気遣いをする、ということが大切です。

ギブアンドテイクでは、さりげない気遣いができない

それと同時に、「さりげなさ」には、「下心を感じさせない」「やってあげている感がない」という特徴もあります。

いくら気遣いとして行われる行為が適切なものであっても、「やってあげている」感じが強かったり、何らかの見返りを求めるような姿勢が見られたりすると、それは単なるギブアンドテイクになってしまいます。

「やってあげている感」にしろ、見返りを求める姿勢にしろ、行為としては相手に何かを与えていても、見ている先は「自分が何を受け取れるか」です。

やってあげている感が強いときは、「よく気遣っている」という評価や感謝を求めているものです。

このように、「受け取るために与える」という姿勢は、疲れる気遣いの特徴でもあります。

そもそも疲れる気遣いは自分がどう見られるかを気にするものですから、自分に対するプラスの評価を求めてしまうものなのです。

「受け取るために与える」と、受け取れなかったときの徒労感が大きくなります。

これは時に相手への怒りにもつながっていきます。

いつも「自分が何を受け取れるか」ばかり考えてしまうと、心が不安定にもなっていきます。

なぜかと言うと、自分の価値は「相手による評価」次第、ということになってしまうからです。

「相手による評価」など、相手の機嫌や、周りとの比較において、どうとでも変わってきます。

そんな不安定なものに自分の価値を委ねてしまうと、精神的に不安定になって当たり前です。

元気になる気遣いは、それ自体が見返りになる

元気になる気遣いの場合は、おもしろいことが起こります。

気遣いをすることそのものが「見返り」になるのです。

私たちの自然な姿は親切なものです。

元気になる気遣いをするということは、自分の本来の姿を妨げているものから解放される作業であり、実は自分自身の癒やしになるのです。

元気になる気遣いをすること自体が気持ちのよいことであり、自分自身がぽかぽかした温かいものを受け取ることができます。

もちろんそのことによって相手から喜ばれれば、なおよいでしょう。

そして実際にそうなることが多いと思います。

ただし、相手がどれだけ喜んでくれるか、またその喜びを表現してくれるかどうかは、相手の事情次第。

常に起こることではない、ということはあらかじめ知っておきましょう。

さりげない気遣いのためには、元気になる気遣いをするに限ります。

さりげないということは、もしかしたら相手に気づかれないかもしれないということ。

それでは困る、というのでは、さりげない気遣いなどできませんよね。

本当に気遣い上手な人は、相手に「気づかわれている」という印象すら与えないこともあります。

でもとにかく一緒にいると心地よい、あの人と一緒にいるのが好き、と思われるのです。

逆に「気遣いの人」などと言われている人の場合は、やや痛い苦労が見えてしまっているのかもしれません。

さりげなさとは対極にあるのです。

まとめ

  • よい気遣いのエネルギーは安心
  • 安心を相手だけでなく自分にも提供することが元気になる気遣い
  • 相手という存在を尊重することが、気遣いをするということ

一緒にいるだけで安心できる人になろう

相手を変えるためのアドバイスではなく、相手が安心できるような情報を伝えよう