完璧主義とは

完璧主義を親から刷り込まれたことから始まる

母親は子どもに人生の土台を与えることができる。

ただそれは情緒的に成熟した母親である。

情緒的に成熟した母親は子どもを愛し、そして生きることの土台をつくってやる。

しかし情緒的に未成熟な母親は、子どもに生きる土台をつくってやらないどころか、子ども自身のその努力を妨害する。

生きる土台をつくってやるということは、子どもの成長を待ってあげるということである。

子どもの自然な成長を待ってあげれば、子どもは自然と生きる土台をつくる。

しかし情緒的に未成熟な母親は、子どもの自然な成長を待てないという。

いや子どもの自然な成長を待てない母親を情緒的未成熟といったほうがいいだろう。

そのような母親は、子どもの自然な姿にいらだつ。

子どもは子どもでしかない。

子どもは不完全である。

心理的に成長していない母親は、子どもの不完全さに耐えられないのである。

完璧な子どもは自然な子どもではない。

母親は「あるべき」姿を子どもに強要する。

そしていらだつ。

母親に自然な成長を待ってもらえた子どもと、待ってもらえなかった子どもの違いは決定的である。

完璧主義におちいってしまっている不安な子どもをいうのは、自分の自然な成長を待ってもらえなかった子どもなのである。

不安な完璧主義者は、待ってもらえず、自分の中の自然を抑えつづけた人である。

完璧をめざす意欲的な人は不完全さに耐える力強さをもっている。

完璧主義者というのは、不完全に耐える強さを欠いている人なのである。

心理的には普通の人より弱い人であり、依存的な人である。

現実に耐える力がなくて、アルコールに依存するか完璧に依存するかというとき、完璧に依存しているだけの話である。

子どものとき、自然な成長を母親に待ってもらえた人は、生きる土台ができているので、完璧に依存しなくても生きていかれる。

自分の中に自分の頼るものがある。

自然な成長を母親に待ってもらえなかった人は、自分の中に生きる土台をもたず、自分の中の自然は自分にとって不快なものでしかない。

自分の肉体も自分にとっての敵である。

なぜなら自分の肉体は完璧なものでないからである。

疲れていたり、病気になったりする。

いつも完璧に健康であることはできない。

しかし完璧主義者にとって疲れた体、病気などは耐えられないのである。

疲れてはならないし、病気になってはならない。

そこで疲れや病気を受け入れることができない。

無気力な人が疲れても仕事を休めないというのは、完璧主義だからである。

疲れたとき、ゆっくり休養をとれる人というのは、完璧主義者ではない。

人間の自然を、その人が受け入れている。

ところが、小さい頃自分の自然を親に受け入れてもらえなかった人は、働いて疲れるという自然を受け入れられない。

働かねばならない、もっと働かねばならない、もっともっと働かねばならないというのが、完璧主義者である。

自分の肉体はこのぐらいのことで疲れるべきでないのである。

疲れれば、自分の体をもっと鍛えなければならないという発想になるのが完璧主義者である。

鍛えてもっとすばらしいものにしようと努力しつづけるのが完璧主義者で、働けば人間は疲れるのだから休養をとろうというのが意欲的な人である。

小さい頃からなにをやるにも「せかされて」生きてきた人は、生きるゆとりができない。

小さい頃からなにをやるにもせかされて生きてきた人は、生まれて、そして消えていく、しかし生きなかった、という人であろう。

小さい頃、親にいつもせかされてきた人は、他人が自分の自然のなりゆきを待ってくれるということが信じられない。

待っている他人によりかかれない。

安心して待ってもらうということができない。

小さい頃、親にいつもせかされてきた人は、大人になっても他人と接すると、内面からせかされてしまう。

他人と接することで、小さい頃の親との体験が再体験される。

そこであせる必要のないときやところでも、いつもあせってしまうことになる。

現実に眼の前にいる人が、待っていてあげるといっているし、その気持ちと能力をもっているのに、内面からせかされる。

それは、実際に今、目の前にいる人との交流を体験しているのではなく、小さい頃の親との体験を、内面で再体験しているにすぎないからである。

そうした意味で、完璧主義者の経験というのは、きわめて限られている。

いつになっても小さい頃の親との関係の中でしか生きていない。

表面的にいろいろな人といろいろな体験をしているようであっても、本質的には、小さい頃の不幸な親子体験以外にはなにもないといっていいだろう。

疲れても休養をとれず、なおも仕事をしたり、なおも肉体的トレーニングを続けようとする完璧主義者というのは、不幸な親子体験に縛られているのである。

完璧主義者は不完全に耐えられない、完璧でないと不安である。

そのことは先に書いたとおりである。

そしてさらに、完璧でないことに罪責感をもつ。

それは完璧であることを要求した我執の親に心理的に縛られている証拠である。

完璧主義者というのは、心理的にはまだ幼児なのである。

彼らは、社会的、肉体的能力だけが大人になってしまったが、大人になっても我執の親から心理的離乳がとげられていない。

人間は人間でしかない。

人間以上でも人間以下でもない。

人間には人間の自然がある。

それは他の動物の自然とも違うし、神でも完璧でもない。

あなたが望めば、人は待ってくれる

人間は、完璧でないことに罪責感をおぼえる必要などどこにもない。

しかし完璧主義者は、完璧でない自分を許せないのである。

それは我執の親が、完璧でない自分、つまり私の中の自然を許さなかったからである。

自然な成長を待てず、子どもをせかしたからである。

完璧主義におちいっている大人は、待ってもらえなかった悲劇を自覚することである。

それに気がつくだけで、どれだけあせる気持ちから解放されるかわからない。

そして大人の中には「待てる」までに情緒の成熟した人はたくさんいるということも、心の中に記憶しておいたほうがよい。

自分の親が自分を待てなかったからといって、すべての大人が自分を待てないわけではない。

完璧主義者は待てる人を探してつきあうことである。

自分が疲れたとき、疲れがとれるのを待てる人、自分が病気になったとき、病気がなおるのを待てる人、そういう人とつきあうのがよい。

そして、そうした環境の中であせるとき、いま待てないのは自分であって、他人ではないとわかっていることが大切である。

この世の中には他人の不完全さを待てるだけに情緒の成熟した人がいるとわかっても、どうしてもそれだけでは不安である。

小さい頃、待ってもらったことのない人にとって、安心して待ってもらうことはできない。

せかされていなくても、自分の内面でせかされてしまう。

そんなとき、いま自分は小さいときの不幸な親子関係を再体験しているのであって、この現実を体験しているのではないのだと、何度でも自分にいいきかせることである。

いま目の前の人が、「早くして」といっていないのに、小さい頃の親の「早くしなさい」という心の中に録音された言葉が再生されてきてしまう。

だが、再生音に気を取られるな。

この世の中には、待つことに満足している人もいれば、待つことにいらだっている人もいる。

ところが、現実から引退してしまった人は、現実を見ないで、自分の心の中の録音、録画の再生ばかりで生きている。

好かれているのに、好かれていることが感じ取れない人がいるように、待ってもらえているのに、安心して待ってもらうことのできない人がいる。

皆、現実から引退してしまった人なのである。

信じてもらえているのに、疑われていると感じてしまう人もいる。

自分のいうことを信じてもらえているのに、疑われていると感じて、いろいろな証拠を見せようとする人がいる。

疑い深い親に育てられた人である。

信じられているのに、疑われていると感じて、証拠を見せようとするような人も、現実から引退してしまっている人なのである。

いま目の前にいる人と接触しているのではなく、小さい頃の不幸な親子関係を再体験しているのである。

その人と実際に接してみれば、その人が自分のいうことを信じているのは感じ取れるはずなのだが、目の前にいるその人を見ていないのである。

彼は、その目の前にいる人を理解していない。

彼は目の前にいる人を理解しないで、心の中で録画の再生だけをして生きている。

心の中の録画の再生に対する反応をしながら、目の前にいる人に対して反応しているつもりになっている。

心の中の録画の再生に対して反応すれば、当然、自分のいっていることがほんとうだという証拠を出そうとする必要はない。

許されているのに言い訳をする人も同じである。

自分の不完全さを目の前の人は許している。

自分がいろいろうまくできないのを、相手は許している。

実際の相手が許しているのに、一生懸命言い訳をする人がいる。

そういう人は、目の前の現実の相手を理解していないし、理解しようという心の姿勢もない。

そういう人は、やはり心の中で録画されている不幸な親子関係を再生しているにすぎない。

その再生したものに反応しているのである。

不幸な親子関係の再生画面を見れば、失敗したときなにか責められている。

いや失敗しなくても責められている。

子どもの自然を受け入れることのできない親は、いつでも子どもを責めている。

子どもは自分の存在にいつも罪責感をもち、親に対していつも言い訳しなければならない。

あるいは、いつも実際の自分と違った自分を見せていなければならない。

なにかうまくいかないことでもあれば、いつも言い訳をしなければならない。

親の期待にこたえられなければ、激しい罪責感をもつことになる。

ところが、現実に眼の前にいる人と実際に接触していれば、なにか失敗したって、言い訳をしなくてもいい。

なぜなら、相手は自分を責めていないのだから。

相手が責めていないということを感じ取れないのは、目の前の人と接触しているのではなく、心の中の録画の再生に反応しているにすぎないためである。

悩みはその人が過去の出来事にどう対処してきたかが影響している。

悩みの核心は過去にある。

権威主義的な親に育てられたとする。

表面的には従順に従いながらも、隠された敵意がある。

しかも自分の行為を親孝行と合理化する。

その無意識に追放された怒りが、いま目の前の出来事を通してあらわれてくる。

しかしその人はいま目の前のことに悩んでいると思っている。

同じことを体験しても、苦しみは人によって違う。

いまの悩みの核心は過去の心理的に未解決な問題が変装してあらわれてきているにすぎない。

だから悩みはそう簡単に解決しない。

心理的に未解決ということはどういうことか。

そのときまで心の中の矛盾に蓋をして生きてきた、心の葛藤を解決しないで生きてきたということである。

突っ張っている人などは皆心理的に未解決な問題を抱えている。

好きな女性に振られて「あんな女」という。

心の底ではまだ好きである。

不安な人は心理的に未解決な問題をたくさん抱えたままで生きている。

心理的課題を解決するということは「現実に直面する」ということである。

その時期その時期の心理的課題を解決して生きてきた人と、心理的に未解決な問題を抱えたままで生きてきた人では、同じ体験をしてもまったく違った解釈と感じ方をする。

心理的に未解決な問題を抱えている人は、過去の「つけ」を払っていない。

悩んでいる人のほとんどは、いまの出来事で悩んでいるのではない。

「なんでこんなに苦しいのか」

悩みの真の原因を間違えているから、悩みや苦しみはいつまでたっても解決しない。

過去の未解決な問題が、いまの仕事の失敗が苦しみに変装した姿となってあらわれている。

そうとらえなければ死ぬまで無意味に悩み苦しむことになりかねない。

その過去の苦しみや悩みに、いつまでも心理的に成長しないということから生じる苦しみがプラスされる。

悩みや苦しみを正しく理解することで人は心理的に成長する。

いまの悩みの深刻さは心理的に未解決な問題の深刻さと比例する。

精神科医のベラン・ウルフの「悩みは昨日の出来事ではない」というのは、人間の心を理解した名言である。

ストレスで体に変調をきたす人がいる。

それと同じことを体験してもなんでもない人がいる。

変調をきたした人は、無意識に蓄積された怒りが、そのいまの出来事に反応したのである。

なにかあるとすぐに不愉快になったり、傷ついたり、イライラしたり、落ち込んだりする人がいる。

なにかささいなことで失敗した。

しかしその失敗を受け入れられない。

それが心理的に未解決な問題を抱えたことになる。

そして、その内面に抱えた心理的課題が、それ以後のその人の体験に影響を与える。

悩んでいる人はいまに反応しているのではない。

その人の過去の心理的に未解決な問題がいまの出来事に反応しているのである。

つまり神経質的傾向の強い人、ことに敏感性性格の人は現在に生きていない。

完璧主義者は完璧に逃げないこと

ゆっくり、適当、不完全な自分を許す

「予期不安」という言葉がある。

ある人の期待にこたえられないのではないかと、あらかじめ緊張する人がいる。

期待不安とは、あることで失敗すると、次に同じような場面でまた失敗するのではないかと不安になることである。

人前であがってしゃべれないということが一度あると、次に人前に出るとき、実際に出る前から、あがってしゃべれなくなるのではないかと緊張することである。

小さい頃、親の期待にこたえられなくて、責められる。

そのような体験を積み重ねる。

いつも期待にこたえられなかったらどうしようと不安である。

そんな小さい頃の体験をもち、やがて成長して大人になる。

大人になって、目の前にいる相手は、自分に期待していない、あるいは期待したとしても、かなえられないことで責めたりはしない。

それなのに、目の前にいる相手に責められるのではないかと不安になる。

実際目の前にいる人は、自分を責めていない。

たとえ期待をかなえられなくても責めない。

そうであるなら安心してもいい。

それなのに安心できない。

安心できないという人は、やはり目の前にいる人と接触しないで、心の中の録画の再生をしているのである。

そして、その再生に対して反応している。

心の中の録画の再生に対する反応が、緊張である。

なんと多くの人が、現実との接触を絶って、心の中の不幸な親子関係の録画の再生に対して反応することだけで、生きていることだろう。

現実と表面的には接しながら、まったく現実には反応しないで生きている人で、この世の中はあふれている。

現実と接触できるということが心の健康のメルクマールなのである。

八十年間生きて、まったく現実との接触を欠いているという人もいる。

もちろんそういう人は、実際の自分との接触も欠いているのである。

八十年間この世の中に生きていて、心の中で関係した人は親だけ、という人はたくさんいる。

いや驚くほど多い。

もちろんそういう人も会社にいき、地域社会の人と話し、レストランで食事をしている。

しかしいままで書いてきたように、その度に心の中の録画の再生にだけ反応しているのである。

信じてくれている、好きになってくれている、せかさないでくれている、責めないで待ってくれている、待つことに不満にならないでいてくれる、イライラしないで待ってくれている、完璧主義者はそれが感じられないであせっている。

なぜなら完璧主義者は、現実との接触を欠いて生きているから。

完璧主義者というのは、「完璧」に逃げているのである。

アルコール依存症者がお酒に逃げるように、完璧主義者は現実に耐えられなくて「完璧」に逃げているのである。

完璧主義者というのは、不完全な自分をいつも言い訳している。

完璧主義者は、許されない現実の自分の存在をどう合理化しようかということにばかり気をつかってしまっているのである。

したがって、自分の接している現実を理解するゆとりがない。

完璧主義者は、自分が生身の人間であることを忘れている。

完璧主義者は周囲の現実に接していないが、自分の内面の生々しい感情にも接していない。

完璧さの追求はむなしさを満たさない

完璧主義者は立派な人間のつもりになっているかもしれない。

しかし、心理的には心の荒廃がある。

そしてそう気がつくことが、完璧主義から回復する出発点でもある。

疲れても働かずにいられない、疲れても体を鍛えずにいられない、もっともっともっと完璧にと緊張に駆り立てられるのは、内面の荒廃があるからだと知ると、ぞっとするのではなかろうか。

そして本気で「完璧」を絶とうとする気になるのではなかろうか。

過食症者が食べ物をむさぼるように食べるのと、完璧主義者が「完璧」をむさぼるのとは同じである。

ともに心が空虚なのである。

心の虚しさから、どちらに逃げるかだけの違いである。

必要なのは、自分の心の虚しさのよってきたるところをつきとめる勇気である

疲れて熱っぽくなっても、体を鍛えようと運動せざるを得ないのは、おなかがはっても食べずにいられない過食症者と同じである。

完璧主義者の完璧とは決して美しいものではなく、汚れたものである。

おなかがはっても食べずにいられないのは、心が飢えているからである。

食べることで心の空虚さを満たそうとしているのである。

同じように、疲れて病気気味でも運動して体を鍛えずにいられないのは、心が飢えているからである。

食べることや無理な運動は、心の空虚さを満たす手段である。

しかしそのような努力をいくらかさねても、心の空虚さが満たされることはない。

いよいよ虚しくなるだけである。

完璧主義は等身大の自分を知ることで解消される

心のバランスを取り戻す方法

心の空虚さを満たすためには、生き方を変えるしかない。

目的志向的な生き方をあらためることである。

成果を期待して、なにかを達成することばかりをめざす生き方を変えないかぎり、心の空虚さが満たされることはない。

目的志向に、あまりにも生き方がかたむきすぎたのである。

目的を達成しようとすることが悪いのではなく、バランスを失ってしまったことが悪いのである。

極端な目的志向は、成功に向かって他のものをすべて犠牲にすることである。

成功に向かって努力することと、友達と楽しく食事をすることのバランスがとれていれば、過食症にも完璧主義にもならないであろう。

成功するためには友だちと楽しく食事をする時間を犠牲にしても仕方ない、という生き方が間違っていたのである。

成功のためのコスト計算ができていなかったということである。

百万円もうけても、そのために一千万円を使ってしまえば、九百万円の赤字である。

たしかに成功はよい。

しかし、成功という目的達成のために、なにをどれだけ失うかということの計算ができていなかったのである。

もちろん当人にとってみれば、それだけ成功に価値があったということである。

なぜそんなに価値があったのか。

それはその人が孤独だったからである。

心の深いところで他人とつながっていないからである。

小さい頃の親の期待と交流だけが人生になってしまっているからである。

あとはその再生とそれに対する反応だけになってしまっているからである。

そしてなによりも、自然な感情を許されていないということである。

不完全な自然な人間という面が許されなくて、完璧主義になってしまったのである。

その結果、心が空虚になった。

だとすれば、まず自分が排斥した自然な自分を許すことで、心を満たさなければならない。

では自然な自分を許すにはどうしたらよいか。

自然な人間としての自分を許せないのは、親が許さなかったからである。

親が許さなかったから自然な人間としての自分に罪責感をもっているのである。

したがって、自然な人間としての自分を回復するためには、自然な人間としての自分を許さなかった親から心理的に離乳するしかない。

だからといって、ずぐに親から心理的離乳ができるわけではない。

いまのあなたにとって、親はあなたの心理的土台である。

その親から心理的離乳をするのは、暗いほら穴に落ちるような不安がある。

いまのあなたは心理的に親にしがみついている。

心理的離乳などと口ではいえても、実際にはできない。

自分で自分を許せず、完璧主義者として生き続けるのはつらいけれど、暗い底なしのほら穴に突き落とされる不安よりはまだいい。

したがって心理的離乳はとてもできない。

子どもの自然な成長を待てない我執の親であっても、子どもにとってはつかまっている以上、怖くて放せない。

ではどうするか。

いままで記してきたことが解答である。

完璧主義者をはじめ、心の病んだ人たちは現実と接触していない。

目の前の人を見ていない。

隣にいる人の心を理解していない。

理解する姿勢がない。

ただ心の中の録画の再生と、それへの反応だけで生きている。

隣の人は、我執の親と違って、イライラしないで自然なあなたを待てる人かもしれない。

そうでないかもしれない。

しかしこの世の中には、待つことで不安にも不満にもならず、いらだたない人がたくさんいる。

この世の中には、自然なあなたを受け入れることができる人がいる。

ただあなたが心の中の録音の再生ばかり聞いているから、隣りの人を理解できないのである。

あなたは生まれてから千人の人と会っているかもしれない。

しかしあなたはその中のひとりだって、その人の心を理解していない。

ひとりだってその人の現実に接触していない。

千人の人を通して、そのたびに不幸な親子関係を繰り返し、繰り返し再体験しただけである。

だからこそ、大人になっても完璧主義者なのである。

相手はあなたをせかしていないのに、ひとりで勝手にあなたは焦った。

現実の相手と接触していない。

せかさない相手がいるのに、その相手との接触を体験していない。

自分の接している相手を見ること、じっと見ること。

自分の接している相手の心を理解しようとすること。

その相手が自分に実際になにを求めているか、何を求めていないかを知ろうとすることである。

猫に小判というが、人間同士も同じことをしているのではないか。

相手が求めていないものを与えようとして、焦燥している人がいる。

相手が実際の自分に満足しているのに、満足していないと勝手に思い込んで、焦っている人がいる。

したがって心理的離乳をするためには、会う人を見ることである。

心の空虚さを満たすためには、成功することでも、無理して食べることでもなく、自分の周囲の人を見ることである。

自分の周囲の人が実際にどんな人であるか理解しようとする努力が、心の空虚さを満たしてくれる。

負けも楽しめる人

失敗や損失を残念がっていても、それが成功に変わるわけではない。

頭でわかっていても、それをすぐに忘れられる人もいるし、忘れられない人もいる。

不快な印象に長くつきまとわれてしまうような人は、自分はそのような性格であるからこそできる、というようなものをなにか探し出すことであろう。

不快な印象に長くつきまとわれて、自分の人生をだいなしにするな。

これは大切なことである。

だがそれにもかかわらず、どうしてもそうなって、いつまでも残念がってばかりいる人は、そのような自分の性格をまず認めることである。

そしてその性格で、あるいはその性格だからこそできるというようなものを探してくることであろう。

このような人は、スポーツマンとか政治家とかいう職業には向いていないであろう。

しかしできれば自分とは違った性格の人、自分とは違った職業の人とつきあうと自分がよくわかる。

同じ体験をしているのに、相手が自分と驚くほど違った反応をし、違った感じ方をするからである。

同じ不快な体験をしても、相手は驚くほどケロッとしているのに、自分の方は長いことつきまとわれる。

そこで自分というものが見えてくる。

このようにして自分が見えるということは、長い人生では貴重な体験である。

たとえそれがどんなに不快なものでも、その不快な体験が鏡となって自分を映しだしてくれるからである。

学者とか芸術家とか、ひとりで仕事をしがちな人の中に自分が見えていない人が多いのは、わかるような気がする。

彼らは同じ体験を人とともにする機会が他の職業の人に比べて少ないので、自分と他人との反応や感じ方の違いを、まのあたりにすることがない。

自分が完璧主義者だと思った人は、人生をむずかしく考えない人と付き合ってみることである。

きっと開眼するところがあるに違いない。

自分の殻から抜け出すためには、それがもっともよいと信じている。

まとめ

完璧主義者とは不完全に耐えることができない人のことである。

そして、心理的にはまだ子どもである。

また、周囲の現実と接していないだけでなく自己の内面とも接していない。

完璧主義を解消するには、待ってもらえなかった悲劇を自覚することである。

そして人生をむずかしく考えない人と付き合ってみることである。