幸福とは、貢献感である

アドラー心理学の講師を務めていたオスカー・クリステンセン―彼はアドラーの孫弟子にあたる人物です―が次のように語りました。「今日私の話を聞いた人は、今この瞬間から幸福になることができます。

しかしそうでない人は、いつまでも幸福になることができません」と。

人間にとっての幸福とは何か。

それまで哲人はこれは哲学が一貫して問い続けてきたテーマののひとつになります。
それまで、心理学など哲学の一分野に過ぎないとの理由から、心理学全般にほとんど関心を寄せていませんでした。

そして哲学の徒として、「幸福とは何か」について、自分なりの考えを巡らせていました。

クリステンセンの言葉を聞いた時、哲人が若干の反発を感じたことは、認めないわけにはいきません。

しかし、反発と同時に気付かされたのです。たしかに哲人は幸福の正体について、深く考えてきた。答えを探し求めてきた。

けれども、「自分がどうやって幸福になるか?」については、必ずしも深く考えてこなかった。哲人は哲学の徒でありながら、幸福でなかったのかもしれない、と。

人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。

この現実に対してアドラーはきわめてシンプルな回答を用意しました。

すなわち、「私は共同体にとって有益である」「私は誰かの役に立っている」という思いだけが、みずからに価値があることを実感させてくれるのだと。

そしてここが大切なのですが、この場合の他者貢献とは、眼に見える貢献でなくとも構わないのです。

あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではありません。

それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではない。

本当に貢献できたかどうかなど、原理的にはわかりえない。

つまりたしゃこうけんしていくときのわれわれは、たとえ目に見える貢献でなくとも、「私は誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいいのです。

すなわち「幸福とは、貢献感である。」それが幸福の定義です。

しかし以前おっしゃた「行為のレベルでは誰の役に立てていなかったとしても、存在のレベルでかんがえれば人は誰でも役に立っている」という言葉がありました。だとすれば、すべての人間は幸福だというロジックになるのでは?

全ての人間は、幸福になることができます。しかし、これは「すべての人間は幸福である」でないことは、理解しておかねばなりません。

行為のレベルであれ、あるいは存在のレベルであれ、自分は誰かの役に立っていると「感じる」こと、つまり貢献感が必要なのです。

では、どうすれば貢献感を得られるか?

たとえば以前に、承認欲求の話をしました。
承認欲求を求めてはいけない」という話でした。

いまや人が承認を求める理由は明らかでしょう。

人は自分を好きになりたい。

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自分には価値があるのだと思いたい。そのためには「私は誰かの役に立っている」という貢献感が欲しい。そして貢献感を得るための手近な手段として、他者からの承認を求めているのです。

貢献感を得るための手段が「他者から承認されること」になってしまうと、結局は他者の望み通りの人生を歩まざるをえません。

承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。われわれは自由を選びながらなおかつ幸福を目指す存在なのです。

制度としての自由は、国や時代、文化によって違うでしょう。しかし、対人関係における自由は普遍的なものです。

もし、ほんとうに貢献感が持てているのなら、他者からの承認はいらなくなります。
わざわざ他者から認めてもらうまでもなく、「私は誰かの役に立っている」と実感できているのですから。

つまり承認欲求にとらわれている人は、いまだ共同体感覚を持てておらず、自己受容や他者信頼、他者貢献ができていないのです。

共同体感覚さえあれば承認欲求は消えます。他者からの承認は、いりません。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには貢献感を持つことである。