心理的距離でよりよい人間関係になれる

気楽に息の長い付き合いができる練習

ケース1:話が長引くパソコン教室の先生と生徒

今日だけなぜか追加料金?

彼女はパソコン教室に通っていました。

そして先生と馬が合い、つい話し込んでしまいました。

彼女にしてみれば、いつもより数分超過しただけです。

それに、その20分超過の時間の大半は、お喋りに費やしている時間でした。

そのとき彼女は渋々払ったものの、いまも腑に落ちません。

まだ、そのことが心の中でくすぶっていて、「いっそ、やめてしまおうか。でも、ここが一番、通うのに便利だし、他のところよりも料金が安い。

せっかく慣れてきたところだから、また、別のところで最初からやるのは面倒だし、気が重い」

などと悩み始めるのでした。

どのような善意もいつの間にか当たり前に

ではこのとき、指導員の先生は、どんな気持ちでいたのでしょうか。

先生も、初回の時間は、延長時間が気にならないほど、彼女に親しみを覚えていました。

延長時間が、この一回だけで終れば、「適切な心理的距離間隔」が保たれていて、彼女のほうも、先生に感謝していたでしょう。

指導員の先生も、数回目までは楽しく感じていましたし、善意の気持ちもありました。

しかし、どんな”善意”も度重なると、「心理的距離間隔」が縮まって、次第に「当たり前」になってしまいがちです。

彼女の場合も例外ではありませんでした。

だんだん回を重ねていくうちに、相手との「心理的距離間隔」が縮まりすぎて、先生は延長するのがつらくなっていきました。

そして、気がついたときには、すでに断れない心理状態になっていたのです。

このケースでは、先生が料金を1.5倍請求して、終止符が打たれました。

そうしなかったとしても、あるとき先生が時間通りに終われば、「どうして今日は、時間通りに終わるのよ」と、彼女は、損した気分で腹立たしく思ったり、冷たく手の平を返されたような気分になって傷つくでしょう。

こんな「店と客」の関係は、よくある話です。

そんなトラブルを避けるには、お互いに、自分の「心理的距離感覚」を信じて、もっと早い段階で手を打つことです。

店の立場だったら、「今日は、時間通りに終わりますね」

客の立場だったら、「今日は、時間通り終わってください」

こんな言葉で断ることができます。

関連記事

頻繁に会う人とも一期一会

ところで「延長される客」の中には、「(わざわざ、私のために)延長してくださって、ありがとうございます」

と喜ぶ人もいれば、反対に、延長されるのを苦痛に感じて、「無駄話はいいから、ちゃんと時間通りに終わってほしいよ」と言いたくなる人もいるでしょう。

「延長するお店の人」は、本来なら”時間通りに終わる”のが責任です。

仮に相手が喜んでいるとしても、それを善意と感じていたとしても、「(お急ぎかもしれないのに)延長してしまって、すみませんでした」という気持ちがあってほしいものです。

”一期一会”という言葉があります。

「会う機会は一生に一度」というように、今日の出会いは今日で終わり。明日は初対面の気持ちで会う。

こんな「リセット」の気持ちを持っていたほうが、「心地よい心理的距離感覚」で息の長い付き合いができるのです。

参考記事>>人付き合いが怖いを克服する方法

関連記事

自分の「小さな責任」に気づく練習

ケース2:同僚が自分の仕事を助けてくれたら

問題さえ解決することができればそれで終わり?

ある会社でユーザーからクレームの連絡がありました。

彼はその担当ではなかったため、担当から折り返させると言い、担当に引き継ぎました。

そこで、ユーザーから手違いだった、大丈夫。との連絡が届きました。

担当者は彼に問題は解決しましたと連絡しました。

そうだとしたら、「少しでも早く、その責任から解放してあげたい」そんな気持ちからでした。

ところが担当者は、そのユーザーに、何の連絡もしていませんでした。

問題は解決したと彼から聞いた担当者は、「じゃあ、私から連絡することはないですね」と答えました。

本当はそれは、彼の問題ではなく、担当者の問題です。

彼は、担当者の無責任な返答に少しムッとしつつも、どう言葉を返していいかわかりませんでした。

けれども、どこか釈然としません。

彼がその釈然としない感覚を抱いたままでいると、それが「居心地の悪い心理的距離間隔」を築くきっかけとなるかもしれません。

やがて、担当者のほうも、彼が自分に対して否定的な気持ちを抱いていると気づくことになるでしょう。

けれども担当者は、なぜ、ここ数日で彼の態度が急変したのか、その理由はわかりません。

こんな小さな出来事を発端に、二人の間に、微妙な「心理的距離間隔」が生じて、気まずい関係に発展したりするのです。

誰かがしてくれたことは見過ごさない

このとき担当者は、「問題が解決した」という結果しか、目に映っていませんでした。

それは「責任」という視点で物事を見ていないからです。

担当者が、自分の責任をしっかりと自覚していれば、「問題が解決した」という点だけでなく、彼が「自分の代わりにやってくれたこと」のほうにも、焦点が当たったはずです。

そうすれば何よりもまず先に、彼に、「代わりに対処してくれて、ありがとう」と、お礼の言葉を述べていたでしょう。

この視点に立つことができれば、ユーザーはもちろんのこと、自分に協力してくれた彼に対しての責任の取り方も見えてくるはずです。

『〇〇(彼の名前)からお話を聞いております。問題は解決されたとのこと。ひとまずは安心いたしました。お手数をおかけしました。わざわざご連絡ありがとうございました。

問題が解決したとはいえ、当方もすぐにご連絡せずに、大変申し訳ありませんでした。

今後、不具合が生じるようなことがございましたら、ご連絡ください。

すぐに対応させていただきますので、宜しくお願い致します』

こんなふうに、ユーザーに伝えるのが、「彼に対しても、責任を果たしたことになる」のです。

こうした日常の些細なやりとりでも、自分の責任が見えている人と見えていない人では、その言動パターンは大きく違います。

自分の責任が見えていれば、「私がすべきこと」に気づきます。

そうすれば、「相手がしてくれたこと」についても気づくでしょう。

「小さなことだから、まあ、いいだろう」と思うかもしれませんが、安易に自分の「小さな責任」を流し続けていると、次第に「小さな責任」が見えなくなってしまいます。

そうすることで、周囲の人との関係が知らず知らずのうちに、ぎくしゃくしてしまうものなのです。

自分の責任を自覚することで、いっそう相手との「心地よい心理的距離感覚」も磨かれていくのです。

関連記事

悪質ないやがらせを止めさせる練習

ケース3:自分の書類や持ち物が頻繁に行方不明に

証拠はないけれど心当たりはあるはず

ある男性の職場で物が不自然に無くなるということが起きました。

最初は、自分の書類の中に紛れ込んだりしていました。

けれども、その後も、彼の持ち物が消えて、意外な場所から見つかるというようなことが何度か起こったために、さすがにこれは「誰かの仕業に違いない」と思わざるを得なくなりました。

これまでのことを思い返してみると、一人の女性が浮上してきました。

そういえば、彼女に対して、なんとなく奇妙な心理的距離感覚を覚えます。

もちろんこれだけで、彼女の仕業だとは断定できません。

ただ、証拠はないけれども、彼女が彼を敵視しているのは、彼も感じていました。

日頃から、お互いに「居心地の悪い心理的距離感覚」をかんじていたのは確かです。

一方的に疑うことはせず「事実のみ」を確認

こんな体験をした人たちから、「証拠もないのに、疑っていいんですか」と尋ねられることがあります。

もちろん、勝手な憶測で言いふらせば、その責任を問われたりして、「自分のため」にも禁物です。

けれども、「相手を憶測で疑う」ことと、「事実を明らかにする」こととは違います。

それはあなたが、根拠なく疑い続けることで「心理的負担が重くなる」ことを避けるためにも必要です。

たとえば、疑わしき相手に向かって、「僕がトイレに立つ前は、確かにあれは、ここにあったんだ。

トイレに立ったのは、3分間だった。

残業で残っていたのは、あなたと、同僚だった。

同僚は、電話に出ていて、戻ってきたときも、電話をしていた。

その3分間の間に書類は消えていた。

あのとき、僕は、あなたに『ここに置いた書類を知らないかとあなたに聞いた。

あなたは『さあ?』と答えた。

翌日、その書類は、書棚の中にあった」

などと「事実を把握して明らかにする」ことは、決して相手を一方的に疑っていることにはなりません。

もし相手が潔白であれば尚更、そんな「事実の把握」は重要でしょう。

関連記事

場合によっては相手に責任を突きつける選択も

ときには、決定的な証拠がなくても、さまざまな視点から検証したり、傍証で、あなたが、その人だと確信することもあるでしょう。

そういうときは、「こういった事実関係から、私はあなただと確信しています。

だからあなたを警戒します。

もし今度このようなことがあったら、公にして、徹底的に追究していくつもりです。

いまのところ証拠はありませんが、問題解決に向けて、あなたに協力してもらうことも出てくると思います

といったふうに、相手と向き合ったり、「相手に協力を求めることも必要でしょう。

それが抑止効果になることもあるのです。

こうして、相手に事実を確認したり、相手に協力を求めることは、相手に、相手がしたことの「責任を突きつける」、ということでもあります。

起こった一つ一つの事実を具体的に明らかにして、その責任の所在が相手にあることが明らかなら、それを放置するのは得策ではありません。

相手に対しては、相手の責任を自覚してその責任を果たしてもらうために、働きかけたほうがいいでしょう。

したことの重みに気づいてもらうのです。

こういう場面で、自分の本心を偽ったり、遠慮したりすると、かえって物事は複雑になります。

早いうちに、解決に向けて行動していきましょう。

よりお互いに協力し合える練習

ケース4:仕事のわからない箇所を先輩に教えてほしい

なのになぜ声をかけづらいのか

あるときあなたは、職場で、人に聞かなければわからないところが出てきました。

あなたは先輩に教えてもらおうと思いながらも、相手が忙しそうにしていると、ついつい、聞きそびれてしまいます。

教えてもらわないと、自分の仕事が進まず、かえって仕事に支障を来すと頭ではわかっているのですが、声をかけることができません。

こんなとき、あなたが自分の「心理的距離感覚」を感じると、相手に「入って来ないで!」と言われているような”遮断された感覚”を覚えているでしょう。

「心理的距離感覚」を基準にすると、それは、実際に、相手のほうも「入って来ないで!」というシグナルを発信しているからです。

それを受信するから、あなたは「声がかけづらい」と感じるのです。

だから、あなたがそんな気持ちになるのは、無理もないのです。

ただ、同じように忙しそうにしていても、「入って来ないで!」感覚を強く感じる人と、そうでない人とがいます。

強く感じる人ほど、あなたが相手に「頼むのが”怖い”」と思うように、「引き受けたら、すべて引き受けなければならない」という恐れを、その人が抱いていたり、

「いったん、引き受けたら、完璧にできなければならない。失敗してはいけない」

などと恐れています。

実は、あなたも相手も、根っこに似たような恐れを抱えているのです。

関連記事

このような一言で相手の心がどんどん開く

では、こんな「入って来ないで!」という心理的距離感覚から解放されるには、どうしたらいいでしょうか。

それには、まず、自分の安全を確保することです。

たとえば、相手に改めて、「仕事をしているとき、教えていただきたいことが時々、でてくるんですね。

でも、みなさん、忙しそうにされているので、仕事の邪魔になるんじゃないかと思って、聞くことができないんです。

それで、私の仕事が遅くなってしまって、皆さんにご迷惑をかけてしまったこともあったので、わからないときは、声をかけて聞いてもいいですか。

私、飲み込みが悪くて、何度も同じことを聞くことがあるかもしれませんが、そのときは、許してくださいね」

などと了解を得ていれば、仕事の最中でも、安心して声をかけやすくなるでしょう。

相手のほうも、「もちろん、いいよ。でも、私も手が回らなくて、すぐには答えられないときもあると思うんだ。

そのときは、ちょっと待ってもらったり、あと20分ぐらい待っててと言ったりするけど、きにしないでね」

「中間の頼み方、中間の断り方」というのは、こういうことです。

基本的には「私が頼むのは自由」です。

「相手が断わるのも自由」です。

同様に、「相手が頼むのは自由」です。

「私が断わるのも自由」です。

お互いに、こんな自由度が高いほど、「中間の頼み方」「中間の断り方」ができるようになっていきます。

それを言葉で伝え合えることが”真の自立”と言えるでしょう。

換言すれば、「私が話しかけづらいのは、当たり前なんだ。

その感覚を無視して話しかけると、私が傷ついてしまう可能性が高い。

だから、傷つかないように、事前に、それを断っておこう」

というふうに、自分が感じる「心理的距離感覚」を信じて、傷つかない対処方法を講じたほうが仕事も円滑に運ぶのです。

関連記事

どのようなトラブルも解決できる練習

ケース5:子どもの携帯電話の料金がますます増える

相手を責めたとしても良い結果につながることはない

たとえば「子どもの電話の回数、時間が多いので、電話料金が嵩んで困っている」というケースがあります。

こんなとき、日頃から「心理的距離間隔」が近い家庭だと、「もう、この前も言ったでしょう。

いくら請求がきたと思ってるの。ほら、ちゃんと見てごらんなさいよ。

こんなに高いのよ。

どうして、そんなに電話ばかりしなくちゃいけないの!学校で会ってるんだから、必要ないじゃないの。

今月も高かったら、もう携帯は解約するからね。わかった!?」

そうやって感情的になって叱れば、確かに、その月は、料金が少なめになるかもしれません。

けれども、翌月や翌々月には元の黙阿弥となって、また叱る、といった”いたちごっこ”になっていくでしょう。

力ずくじゃなく話し合おう

これを解決するにはまず、「子供が、電話の回数が多くても、電話の時間が長くても、それは子どもの自由」という捉え方をします。

そんなことを言うと、「え、どうして、それが子どもの自由なんですか。

じゃあ、子どもは、どんなに料金がかかっても、勝手放題に電話してもいいってことですか」

「心理的距離間隔」が近い親子ほど、そう言いたくなるでしょう。

けれども、「電話をかけること」と「電話料金」とは別の話です。

つまり、電話の回数と時間は、「子供の自由」です。

親にとっては、「電話料金が高い。これをどう解決するか」。

というふうに、分けて考えることができれば、「力尽くでも脅してでも」ではなく、「電話料金について、話し合って解決しよう」という気持ちになるでしょう。

愛を育む言葉のキャッチボール

日頃から「適切な心理的距離間隔」がとれている親子であれば、料理をしながらといった”ながら”ではなく、ちゃんとその時間を取ろうと思うでしょう。

だから、その会話も、まず、「少し、携帯電話のことで話をする時間、あるかなあ」

という「同意」から始まるでしょう。

子どもに話をするときも、電話料金のことだけでなく、「あなたが友達と電話をしているとき、とても楽しそうだから、友達関係がうまくいってるんだなあと思って、私のほうも嬉しくなるのね」

というように、子どもの立場が理解できたり、子どもを愛する自分の気持ちに気づくでしょうし、それを言葉にして伝えることもできます。

そんな親子であれば、子どものほうも、自ら「協力したい」という気持ちになるでしょう。

それは、「親に認めてもらっている」という自負心や、「親に愛されている」という満足感に満たされるからです。

と同時に親は、はっきりとした態度で「電話料金の額」も提示できるでしょう。

もちろん、その額で折り合いがつかないこともあるでしょう。

それでも、「ここまでだったら、譲歩できる」と互いに歩み寄ったり、「じゃあ、超過した分の差額は、あなたのお小遣いから引いてもいいかなあ」

などと、言葉のキャッチボールをしながら、話し合えるでしょう。

こんなふうに話し合うためのプロセスを大事にすることができればできるほど、仮にそれがトラブルであっても、その話し合う時間そのものが「貴重な愛の時間」となるのです。

また、そうすることでいっそう「心地よい心理的距離感覚」の親子になっていくのです。

関連記事

自分の24時間が満たされる練習

ケース6:親、友達、恋人、職場の人・・・。誰とでもリラックス

心地よさの感度をどんどん上げる

「私のことを心から愛してくれる人がほしい」

「心から自分のことを認めてほしい」

というふうに「ほしい、ほしい」の飢餓状態に陥っていないでしょうか。

たとえばあなたは、独りで過ごす一日を、どれだけ満足して過ごすことができるでしょうか。

その時間は?

その満足感や充実感の質や量は?

あなたが独りでいるときに感じる満足感や充実感の時間、その質と量は、そのまま、あなたが相手と一緒にいるときのそれと等しいと言えるでしょう。

なぜならその満足感や充実感は、相手によってもたらされるものではなくて、「あなた自身が満足感や充実感を覚える」その、あなた自身の”感度”の高さ、精度の良さによるからです。

「してくれない」では永久に満足できない

たとえばいま、あなたは、自分を100%満たしてくれる相手が「ほしい、ほしい」と、心の中で毎日毎日、念仏のようにつぶやいているとします。

このとき、自分の気持ちを感じると、あなたの心は「満たされない気持ち」でいっぱいになっているはずです。

もし、そんなとき、(あり得ないことですが)仮に、相手があなたを100%愛してくれたとしても、あなたが愛を感じるその感度が低ければ、相手の愛は、あなたに届かないでしょう。

相手と24時間、一緒にいても、「~してくれない。~してくれない」と、相手がしてくれることよりも、相手が自分にしてくれないことばかりを探していたら、どんなに24時間一緒にいても、あなたは満足を得られないでしょう。

仮に相手が、あなたを99%愛してくれたとしても、あなたは残りの1%のほうに目をやって「愛してくれない。愛してくれない」と、あいかわらずあなたは、「愛してくれない」ほうに焦点を当てて、”愛のない”ほうを実感するでしょう。

相手との心理的距離間隔を無視して、「相手と私」とのその輪の重なりを、あたかも一つの輪のごとく100%重ねようとして、それを相手に求めれば求めるほど、あなたは永遠に”不満足”の世界の住人となるでしょう。

ありがとうをすべての出会った人に

他方、あなたが自分を中心にして、自分の感じる満足感や充実感の”感度”を上げることができれば、あなたは、相手といま共にいる、その「一緒の時間」の充実感を100%に近づけることはできるでしょう。

親。兄弟姉妹。祖父母といった身内。

恋人、夫婦。

職場の同僚、上司、部下、取引先の人々。

親友。友人。お茶飲み友達。

サークルやグループ活動の仲間。

行きつけの店の常連客。

職場で軽く会釈するだけの相手。

近所のお店のおじさん、おばさん。

町ですれ違う人たち。

それぞれの人たちが、あなたの心の中を占める割合は異なるでしょう。

それは言わば、オリンピックマークの、輪と輪の重なる部分です。

その重なる部分の面積は、相手によって異なります。

中には、まったく重ならない人もいれば、遠く離れた人もいるでしょう。

これが、それぞれの人に対しての「心地よい心理的距離感覚」です。

その重なる面積はそれぞれに異なっていても、そんな人たちと共有する、それぞれの時間。

その共有する時間の満足度を100%に近づけることはできます。

その人と、一分いたら、その一分の間の充実度を、100%に近づけることはできます。

その人と、30分いたら、その30分の間の充実度を、100%に近づけることはできます。

あなたの五感、感情の感度や精度が優れていればいるほど、その一緒にいる時間の充実度や満足度は大きくなるでしょう。

それができれば「私と相手」の輪が、ほんの少しでも重なったとき、その部分のすべてが「ありがとう」なのではないでしょうか。