心理的距離は自由自在に動かせる

ほったらかしにならない心理的距離の離れ方とは

泣いている我が子。どのようにしたらいい?

宿題ができないと子どもが泣いています。

「親がいないと宿題ができない」と思うほど、親に依存していくかもしれません。

あなたもまた、それを「なんとかしたくなる」というふうにして、心理的距離間隔の境界がなくなるほどに、親子が”一体化”していくのです。

さらに、こんなとき、あなたの心の中はどうなっているでしょう。

親のあなたは、泣いている子どもが気にかかるはずです。

でも、それに関わっていくと、あなたは子どものことで自分の時間をとられ、イライラしたり、腹が立ったりしてくるはずです。

子どもは「泣けばなんとかなる」と思っているので、やらせようとしながら、結局、あなたがやることになります。

子どもの責任を肩代わりすることになるので、そんな苛立ちも加算されます。

こんな状況になる前に、あなたは「居心地の悪い心理的距離感覚」を覚えているはずです。

それを信じるとしたら、あなたは、自分を守るために「それに関わっていかないほうが安全」という公式になります。

それ以上近づいてしまうと、子供だけでなく、あなた自身も「苛立ったり、腹が立って」苦しくなるというふうに、「距離感覚」のセンサーは、見事に、「私のため」にも「相手のため」にもなる方法を教えてくれているのです。

「してあげる」「してあげない」を仕分けしてみる

では、お互いにプラスの関係になるには、どうしたらいいのでしょうか。

それにはまず、親が、こう声をかけることです。

「もし、わからないことがあったら、聞きに来てね」

その一言で、あなたはそこに居ないイメージです。

言った後、あなたの気持ちは子どもから離れて、あなたの意識は、自分が関心のあるほうに向いています。

あなたが本を読んでいれば、すでに気持ちは本に没入しています。

音楽を聴いていれば、音楽に耳を傾けています。

子どもとの心理的距離間隔が遠くなる、その”解放感”を知ってほしいのです。

その感覚が適切な心理的距離間隔なのです。

本来、「宿題をするかどうかは、子どもの自由」です。

子どもの自由であれば、「子どもが泣いているのも自由」です。

「放っておきましょう。無視しましょう」と言っているわけではありません。

「してあげること」「してあげないこと」の仕分けができていると、「親も子ども」も、”抱き合って傷つけ合う”関係にならないからです。

もっとも、こうした心地よい心理的距離感覚にしておきたくても、自分の「子どものことが気になる」感情は、それだけではすぐに解消できません。

だから、私が楽になるために、責任を過剰に抱え込まないために、「宿題をする」という責任を相手に返すために、「聞きたいことがあったら、言って来てほしい」と言葉をかけるのです。

親の対応一つによって子どもは多くを学ぶ

では、子どもは、親にそんな言葉かけをされたら、どんな気持ちになるでしょうか。

「そうか、わからなかったら、聞けばいいのか。じゃあ、できないところがあったら、聞こう」

になるでしょう。

親に信頼されている気分にもなるはずです。

「わからなくなったら、聞く」というとき、「宿題のどこの部分がわからないか」を把握しようとします。

つまりこれは「問題点を具体的に把握する」能力を磨く、ということです。

この能力は、あらゆる場面において不可欠の要素です。

さらにその子どもには、「わからないから親に聞こう」という意志があります。

そして「聞こう」と決断します。

「聞く」ためには、「ねえ、ここがわからないから、教えて」と言葉で表現する必要があります。

ここで「私のための言語」を学びます。

そこで親が「そうか。じゃあ、一緒にやろうか」と答えて、和やかに宿題が終われば、子どもは、「私が意志を持って言葉で表現したり、行動すればうまくいく」を学習するでしょう。

実際に、子どもが「教えて」と来たとします。

子どもに教える時間は、あなたもまた、子どもを優先せずに、「もう少しで一区切りつくから、あと40分ぐらい待ってくれないかなあ」などと、自分を基準にしましょう。

子どものためにと思って「子どもを基準」に考えるより、子どものためであっても「私を基準」」にして引き受ける。

これを「中間の引き受け方」と言っています。

親のあなたにも、自分を愛する自由があるからこそ、心地よい心理的距離感覚を感じながら、宿題を通して「子どもと一緒にいる時間を大事にしよう」という気持ちになるのです。

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頼みを「断る」も「引き受ける」も自分次第

「お金を貸して」と言われたら

あなたはお金を貸してほしいと言われました。

そして、あなたはお金を貸しました。

あなたの友人が、あなたから借りたお金をギャンブルに注ぎ込もうが、ドブに捨てようが、それは「その人の自由」です。

むしろ、あなたは、自分の貸したお金が、そんな使われ方をする可能性もあることを知っていたほうがいいでしょう。

そうすれば、もし「お金を貸さなかった」としても、少し罪悪感が軽くなるでしょう。

もちろん、あなたが貸さないという選択をしても、「罪悪感なしに自由」です。

もしあなたが「お金を貸さなかった」ことで、その友人がどんな目に遭ったとしても、一切、関係がありません。

「あのとき貸していれば、こんなに悪化しなかったかもしれない」という状況になったとしても、それはあなたの責任ではありません。

本人が本気で変わろうとしない限り、同じパターンを繰り返していく可能性が高いので、あなたが手をさしのべても一時しのぎに過ぎません。

選択肢は貸すから断るまでいろいろ

いずれにしても、「貸したお金を、その人がどんなふうに使おうが自由」としたほうが、相手との心理的距離が離れます。

これを前提として、あなたが「中間の引き受け方」をするとしたら、どんな方法があるでしょうか。

戻って来ないことを承知で「要求された額」を貸す。

戻って来ないことを承知で「私が出せる範囲の額」を貸す。

担保を取るという方法もあるでしょう。

それでも、あなたの心は釈然しないでしょう。

借金トラブルで、友人だけでなく、恋人、身内、夫婦の関係にヒビが入るというのはザラにあることです。

もしあなたが「貸さない」と決めたときは、「お金を貸すと、返してくれないんじゃないだろうかって、あなたに不信感を抱くと思うんだ。

正直言うと、貸しても、私には、あなたがお金を返せる状態とは思えないんだ。

これからも付き合っていたいから、冷たいと思うだろうけど、貸すことはできない」

などと、素直に自分の気持ちを伝えて断ることもできます。

もし、あなたが「罪悪感なしに貸さないのも、私の自由」として断ることができたら、逆に、別の形で力になりたいと思うでしょう。

友人が自分の親と話をして解決したり、公的機関に相談したりと、建設的な解決方法に向けての協力はできます。

本当のところ、借金をして返せないという人の多くは、こういった心理的問題を抱えていることのほうが多いのです。

中間の引き受け方、断り方の達人になろう

もちろん相手を信じて、お金を貸すという方法もあります。

もしあなたが、友人を本当に救いたいと願うのなら、それは、あなたが「友人にお金の返済を求めること」ができるかどうかで決まります。

ローン会社のように毎月、事務的に返済を請求するのです。

あなたにとってはむしろ、こちらのほうがはるかに一苦労です。

継続性も忍耐も必要です。

実は、返済の「額」は問題ではありません。

額は、相手が月々返済できる程度のほうがいいでしょう。

だから、毎月の返済額では、あなたの貸した額にはほど遠いかもしれません。

返済額はごく少額で終るかもしれません。

それでも友人が決まった日に月々返済する。

この継続性が、その人を育てることになるのです。

継続的に返済することで、管理能力が育ちます。

返済することで、自負心を取り戻すことができるでしょう。

あなたも、返済を促すことで、自分が犠牲にならないための”強さ”を獲得することができます。

友人との友情を保つこともできるでしょう。

このように、トラブルになりがちな借金問題でも、相手との心理的距離間隔を測り、それを自覚した上で「中間の引き受け方」つまりは「中間の断り方」ができれば、お金を通して、私と相手を育てることも可能なのです。

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どのような生き方をしてもその人の自由

あなたの同僚が「怠け者」だった場合

あなたは同僚とチームを組んで仕事をすることになったとします。

同僚はのらりくらりとマイペースに仕事をしています。

それは「同僚の自由」です。

納得がいかないかもしれませんが、これは「あなた自身を守るため」でもあります。

なぜなら「あなたの目には、相手が怠け者」に映っていても、客観的に判断すると、「あなたの要求度のほうが高いかもしれない」からです。

もしそうだとしたら、あなたは、その同僚だけでなく、他の場面でも、トラブルを起こすことになるでしょう。だから、「怠け者であっても、それは、同僚の自由」としておいたほうが安全なのです。

この発想は、相手が、「遅刻する。ミスばかりする。会社を休む。学校を休む。朝起きない。ダラダラと食事をとる。自分のものを片付けない」といった場面でも「そんな生き方をするのは相手の自由」です。

これは裏を返せば、「私自身がこんな状態であっても、それは私の自由」ということです。

「相手の自由」は「私の自由」。つまりそれは、同じことを意味するのです。

してほしいことだけ端的に頼む

もしあなたが、そんな相手の生き方に腹を立て、心の中で責め始めれば、あなたは「心理的距離間隔を縮める」ために、相手と固い握手を交わしたことになるでしょう。

もう一度、「相手が、どんな生き方をしていようが、その人の自由。怠け者の人生を生きていても、それは、その人の自由だ」

こうつぶやくと、その瞬間、相手との心理的距離間隔が、遠くのくはずです。

相手との心理的距離が遠のいたとき、あなたの目に映るのは、「あなたの仕事の部分だけ」ではないでしょうか。

あなたにとっては、相手がどんな生き方をしようが、あなたの人生には関係がありません。

あなたにとって重要なのは、この仕事に関して「私の責任を果たす」ということです。

それ以外の責任は、あなたにはありません。

これを言葉にすると、こんな言い方になるでしょうか。

「あなたがどんな生き方をしようが、それはあなたの自由です。

私は、それに対して、あなたを否定したり非難する気持ちはありません。

ただ、私の仕事の”この部分”で支障が出るのは、私が困ります。

私は自分の責任を果たしたいので、最低、この〇〇の部分については、〇月〇日〇時までに、仕上げてください

自分の責任を果たすことを最優先に

もちろんこの「〇〇の部分」と「〇月〇日〇時」の決め方は、自分自身を基準にしましょう。

「相手が大変だから。相手が可哀想だから。相手が叱られるかもしれないので。相手を傷つけたくないので。相手の負担が大きくなるので」

といったふうに、あなたは、つい相手の立場を考慮したくなるかもしれません。

それでも、あなたは「自分の責任を果たす」ために、相手の立場よりも、「私の気持ち、私の立場」を優先しましょう。

自分を犠牲にしがちな人は特に、自分の気持ち、事情、立場を優先するレッスンが大事です。

あなたにとって、さらに重要なのは、「未来におこり得るトラブルや問題を見通す力」です。

相手が、「〇〇部分」を「〇月〇日〇時」までに仕上げなかったらどうなるか。

相手ができない可能性も考慮できれば、「〇月〇日〇時までに出来上がらなかったら、別の人に依頼します」

「〇〇が出来たら報告してください。この進み方によって、予定を変更します。この仕事は、降りてもらいます」

他の場面では、たとえば、家庭内なら、「もし食べ終わらなかったら、〇時に片付けます」「〇時までに帰らなかったら、〇時に片付けます」「〇時までに帰らなかったら、食事の用意はいりません」「第二土曜日は、家族よりも、私の時間として使います」

といった具合に、あなたが「私の責任」や「私の気持ち」を基準にした対処方法を”実演”として示していけば、相手は「あなたのその対処方法を体験して、学習する」のです。

だからあなたが「自分を大事にする」ことが、「相手を育てる」ことにもなるのです。

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無断で相手の領域には立ち入らない

まず、同意を得てからが安全

親なんだから、子どものお前は素直に従うべきだ。

夫婦は一心同体だから、私の気持ちは理解してくれている。

こんな気持ちがわずかでもあれば、あなたは恐らく、あらゆるところで「同意を得る」を飛ばしているでしょう。

あなたが「これを貸してほしい」と頼んだとします。

イメージで言うと、そのとき、すでにあなたはそれを手に”握っています”。

確かに言葉では、相手に同意を求めています。

けれども、頭の中では、相手が当然貸すものだと決め付けています。

相手が「断るかもしれない」という可能性を考えていません。

もしこのとき、相手が、「貸したくないんだ」と断ったら、あなたは、非常に傷つくでしょう。

その「傷つき方」のレベルは、「貸してくれて当然」と決め付けている分量が多いほど高くなります。

相手のほうも、「奪われるかもしれない」という恐れを抱くため、「触らないでよ!」と強めの口調であなたを押し返すかもしれません。

でもそれは、あなたが無闇に相手の敷地内に侵入したので、反撃されたのです。

それに気づかないあなたは、いっそう傷ついて、「何だい、こんなガラクタのどこがいいんだよ」などと憎まれ口を叩いてポイッと投げ返せば、明日から、相手と「居心地の悪い心理的距離間隔」で過ごすことになるでしょう。

きちんと相手の返事を待つ

もしあなたがここで、しっかりと「これは相手の所有物だ」という自覚があれば、「貸してください」と頼み、「はい、いいですよ」と相手が答えるのを待つことができるでしょう。

相手が断わったとしても、「相手が断わるのも自由」という発想ができるので、「傷つき方のレベル」は低いでしょう。

「相手が断わるのも自由」という気持ちがあれば、その時々で、相手の気持ちも理解できるでしょう。

たとえば、あなたは断られた後で、相手がそれを大切そうにしていることに気づきました。

そこで、「そうかあ、残念だな。・・・へぇー、とても大事そうにしてるね」と声をかけると、「うん、そうなの。これは思い出の品だから、人に貸したくないんだ。ごめんね」といった肯定的な会話に発展するかもしれません。

こんなふうに、「同意を得る」のは、自分を守るためでもあるのです。

なんとなく嫌いには理由がある

あなたは何が起こっているのか気づかなくても、あなたの心理的距離感覚のセンサーは、相手との情報を正確にキャッチしています。

特別に何かひどい出来事が、相手とあったわけではありません。

にもかかわらず、「あの人、なんとなく、嫌い。なんとなく苦手。なんとなく虫が好かない」

あなたがそんな気持ちを抱くとしたら、相手かあなたのどちらかが、適切な心理的距離間隔を踏み越えているのかもしれません。

あるいは、そういった気持ちを抱いて、そこに居るのかもしれません。

そんな気持ちを抱いているだけでも、心理的距離感覚のセンサーは発動するのです。

反対に、相手がほんの少しでも自分に侵入してくると、敏感に反応して、神経を尖らせる人もいます。

相手と常に戦っている戦闘モードの人ほど、そうでしょう。

ところがそうであるためにかえって過剰防衛し、相手に争いを仕掛ける結果となることもしばしばです。

いずれにしても、心地よい心理的距離感覚が育っていないと、「私と相手」の境界線がわかりません。

だからこそ、自分の安全を確保するために、「同意を得る」のです。

「同意を得て」から動けば、あなたの安全性は高くなります。と同時に、その経験の積み重ねが、あなたの「心地よい心理的距離感覚」を磨くことにもつながっていくのです。

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相手を追い詰めない引き際も大切

正しいことを主張したけれど

あなたは職場の課長にこのデータを顧客に送ってくれと頼まれました。

しかし、一点数値が一致しない箇所が見つかりました。

課長は、「いいんだよ」の一点張りです。

あなたは同僚にも意見を聞いてみようと思いました。

するとその一人が、「課長も部長も、それでいいって言ってるんだろう。だったら、いいじゃないか。第一、それは君の業務じゃないだろう」

それでも納得できないあなたは、部長に直接言いたくなっています。

あなたがそうやってこだわるのは、決して意地を張りたかったからではありません。

この件に限らず、熱意に欠ける職場の雰囲気を変えたいという前向きな気持ちがあったからでした。

ただ相手を困らせてしまうだけのことも

まずあなたと課長とのやりとりを心理的距離感覚で感じると、あなたはどんどん課長を”押している”感覚を感じているはずです。

それは、課長があなたを押し戻しているからです。

このとき課長が抵抗するといっそうあなたが押したくなるのは、あなたが「勝ち負けを争う」モードになっているからです。

そんな自分の心理的距離感覚を無視して「もっともっと」と心理的距離間隔を縮めていけば、あなたは「正しいことを主張している」にもかかわらず、あなたが傷ついていくのです。

あなたには、見えてない関係もあります。

それは、課長が「部長に主張できない」という点です。

もしそれが、事実だとしたら、あなたが課長に要求することで、課長は、あなたと部長との板挟みになっていきます。

中間管理職の悩みそのものですね。

あなたがそれを主張すればするほど、あなたは課長を追い詰めることになるのです。

さらにまた、あなたは、業務外のことを、周囲に聞いています。

課長がそんなあなたを見れば、「情熱を持っている奴だ」と肯定的に評価するでしょうか。

いいえ。むしろ、「自分の間違いを暴きたくて触れ回っている」ように映るでしょう。

ではあなたが課長を飛び越えて、直接、部長に言うとどうでしょうか。

それで訂正されれば、あなたの「正しさは証明される」でしょう。

が、課長はあなたに「面子を潰された」と思って、あなたが居心地の悪い距離感覚を覚えながら仕事に従事することになるでしょう。

越権行為にならないためには

あなたの業務(責任)の範囲を越えて行動すると、「あなたが正しい」にもかかわらず、あなたは苦境に立たされるのです。

もちろん、あなたは「意見や感想を言う」ことはできます。

けれども、”決定権”は、上司にあります。

だから、あなたが、それを「変えるように主張」するのは、越権行為です。

むしろあなたは、「私は上司に、向き合って意見を言うことができた」と、そんな自分の行為を評価してください。

あなたが自分を軸にすれば、「自分表現する」のも、能動的に行動する自分を育てるためです。

そうすることで、自己評価が高くなっていきます。

「自分の価値を高めるための自分表現」です。

あなたに限って言えば、仮にその会社はダメになっても、そんなあなたは未来において「どこにいても能力を発揮できる私」になっているでしょう。

「会社」という視点で言えば、あなたが「熱意に欠ける職場」と言っているように、あなたが体験するほんの小さな一場面の中にも、組織全体の体質やそれに関わる大きなテーマが顕われています。

その中には、たくさんの問題が横たわっていて、一朝一夕に変わるものではありません。

だからあなたが、真剣に「会社のため」を思うなら、むしろ、長期的な視野に立って、適切な心理的距離間隔を保ちながら「自分のために、いまできることを、自分の責任の範囲で行動する」を段階的にやって、自ら見本を示していくことです。

お互いの間にすきま風が吹いてしまったら・・・

「してほしい」が止まらなくなってしまうと

妻が夫に言いました。

「調子が悪いの」

夫は、「はやく薬を飲んで寝るんだな」

そして、布団を敷いてあげました。

けれど、妻は、「夫は布団を敷いたきり何もしてくれない。」と言いました。

感謝の分量よりも、恐らく新たな不満の分量のほうが多いでしょう。

相手に「してほしい」と要求しつつ、「してくれない」点を探していけば、どんなに相手が自分の要求を満たしてくれても”満足しません”

万が一、相手が自分の要求を満たしてくれたとしても、こう思うでしょう。

「(こんな)私のために、仕事まで休んでくれて、申し訳ない・・・。私が病気したばっかりに、みんなに、とても迷惑をかけてしまった」と今度は、罪悪感の虜になっていくでしょう。

相手は際限のなさを怖くなる

こんな関係になるのも、実は、妻と夫の「適切な心理的距離間隔」の経験が乏しいからです。

こんな状況のとき、夫のほうは、「ゼロか100」の二分化思考に陥っています。

しかもその奥には「しなければならない」思考が蔓延しています。

「やさしい言葉をかけた」としたら、あとはもう、どんなに苦しくても、際限なく、相手のニーズに応じなければならない。

そんな怖さが襲ってきます。

心理的距離間隔で言えば、まったく接点がないか、二つの円が一つに重なるような息苦しい関係しか築けないでしょう。

だから、相手を刀でバサバサと切り捨てるように”ゼロ”で切り捨てたくなるのです。

あなたの相手が、そんな「ゼロか100」の人だったら、尚更、相手が、すぐにやさしい人になるのは困難でしょう。

では、どうしたら、あなたは自分が望む「やさしさ」を得られるのでしょうか。

それにはあなたが、自分にやさしくすることです。

望んで待つよりも言葉で伝える

実は「ゼロか100」の発想をしてしまう人は、やさしさを発揮したくても、「具体的な中間の引き受け方、中間の断り方」を知りません。

他方あなたも、「私が、自分の望みを相手に伝えたとしても、相手はそれに応えてくれない」と信じています。

言って断られれば、傷つきます。

だからあなたは、相手に「してくれることを望みながら、待つ」のです。

そのときあなたが望む「やさしさ」は、非常に漠然としています。

その「漠然としたやさしさ」には際限がありません。

だから、「夫の際限ない献身」と「妻の際限ないやさしさ」の根っこは同じだったのです。

この「際限なさ」を具体的にしていくために、「喉が渇くので、悪いけれども果物を買ってきてくれない」と、あなたが相手に頼んだとします。

「やさしい言葉をかけて」は無理でも、こんな”具体的な頼み方”であれば、相手も引き受けやすいでしょう。

これを「中間の頼み方」と言います。

あなただけでなく、相手も、ゼロか100の心理的距離間隔しか知らないので、お互いに傷つかない「中間のやり方」を知らないのです。

さらにまた、相手が果物を買ってきてくれたら、「ありがとう。助かったわ」などと、相手に対する感謝の言葉を述べれば、相手は、あなたに協力した行為を認められて満足するでしょう。

もともと「自分のことは自分でする」という観点に立つならば、相手が”私”にしてくれたことは”当たり前”ではなく、「私が悪い」でもなく、「ありがとう」なのです。

相手は「言わなくても、わかってくれる」では無理です。

「言わないと、自分の気持ちは伝わらない」、そのための言葉なのです。

こんな具体性の中で、「やさしさ」も発揮できるのです。