いったん、愛着の絆がしっかりと形成されると、それは容易に消されることはない。

愛着におけるもう一つの重要な特性は、この半永久的な持続性である。

しっかりと結ばれた愛着の絆は、どんなに遠く離れていようと、どんなに時間を隔てていようと、変わらずに維持される。

愛着の絆にみられる切ないまでの純粋さは、しばしば感動的である。

子どもの頃アニメで見た『母をたずねて三千里』のマルコ少年の姿が、心に焼き付いている人も多いのではないか。

イタリアのジェノヴァから、母親に会うためにはるばるアルゼンチンまで一人で旅をするマルコ少年に感動するのは、われわれも同じような気持ちをもっているからだろう。

愛着の絆で結ばれた存在を求め、そのそばにいようとする行動を、愛着理論の生みの親でイギリスの精神科医ジョン・ボウルビィは、「愛着行動」と呼んだ。

「ママ」と呼びながらべそをかくのも愛着行動ならば、マルコ少年の大旅行も愛着行動だと言える。

大人になるにつれ、母親に対する愛着は、日々の生活のなかに埋没し、愛着行動も抑えられているが、心の奥底の部分では、子どもの頃とそれほど変わらないまま維持されているのだ。

斉藤茂吉の『赤光』という歌集には、「死にたまふ母」と題された五九首の短歌が収められている。

そこには、母危篤の知らせを聞いて、母に一目会いたいと、山形の故郷に駆け付けるところから、母を付きっきりで看病した末に、その最期を看取り、焼き場で母のお骨を拾い、母のいなくなった故郷の自然を前に、悲しみをかみしめているところまでが、切々と歌われている。

「みちのくの 母のいのちを 一目見ん 一目みんとぞ ただにいそげる」

「死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田のかはづ 天に聞こゆる」

「わが母よ 死にたまひゆく わが母よ 我を生まし 乳足らひし母よ」

貧しい家に生まれた茂吉は、十四歳の時、山形から一人東京に出て、病院を経営する斎藤家の世話になって大学に進み、医学を学んだ後、斎藤家の養子となった。

養父母の手前、田舎の母親のもとに帰ることも、普段は遠慮していたであろう。

長年心に抑えてきた思いが、母危篤という知らせと共に、堰を切ったようにあふれ出たのである。

『赤光』が茂吉の処女歌集として刊行されると、ことに「死にたまふ母」は、多くの反響と感動を呼び、それまで無名だった茂吉は、一躍歌人として注目される存在となる。

「死にたまふ母」のなかで、とりわけ心を揺さぶられるのは、一昼夜かけて焼いた母のお骨を拾う場面を詠った一首である。

「灰のなかに 母をひろへり 朝日子の のぼるがなかに 母をひろへり」

母への限りない愛着と喪失の痛みが、おごそかな朝の光のなかに際立つのである。

母親のお骨といえば、作家の遠藤周作が、亡き母親のお骨を音楽会に抱えてでかけたり、軽井沢の別荘に連れていって一晩一緒に過ごしたというエピソードを、妻の遠藤順子が書いている。

周作の母親は、当時では珍しい女性ヴァイオリニストで、ヴァイオリンを教えて、二人の息子を育てたという。

秀才の兄に比べて「落第坊主」だった周作を、「この子は見どころがある」といつもかばってくれたのは母親だった。

その母親との揺るぎない愛着が、幾多の苦難から周作を守ったに違いない。

茂吉や周作の態度と、たとえば、信長が亡き父親にみせた態度を比べてみれば、その違いは歴然としているだろう。

信長は父親の葬儀の席に土足で上がり込むと、「死におって」と、焼香の灰を位牌に向かって投げつけたと伝えられている。

そこにも、愛着がないわけではないが、信長と父親のそれは、愛憎が入り混じった、非常に両価的で不安定なものだったと言えるだろう。