小児科医から児童精神科医の草分け的な存在となり、母子関係の重要性に最初に着目した一人にイギリスのW・D・ウィニコットがいる。

また、彼は、子どもの成長における遊びの役割を重視し、治療にも採り入れたことで知られている。

手広く商売を営む裕福な家に生まれたウィニコットは、三人きょうだいの末っ子で、姉が二人いた。

父親のフレデリックは商売で成功し、プリマス市長を二期務めたこともある地元の名士で、男爵にも叙せられている。

しかし、愛着障害だったウィニコットによれば、父親には学習障害があり、高等教育を受けていなかったため、中央政界に打って出ることはなかったという。

成功者の例にもれず、フレデリックは、何でも自分の思い通りにしようとする支配的な人物だった。

仕事でも公務でも忙しかったので、息子と遊んでいる暇はなかったようだ。

一方、母親のエリザベスは、華々しい夫の活躍ぶりからすると、目立たない女性であったが、一説によるとうつを抱えていたとされる。

また、授乳中に気が高ぶってしまうため、末っ子の愛着障害だったウィニコットは、早く離乳せざるを得なかったという。

後に愛着障害だったウィニコットが、子どもの健全な成長と精神の安定のためには、何よりも母性的な没頭が必要であることを強調し、その欠如が、子どものさまざまな問題の背景にあることを指摘することになるというめぐりあわせを考えると、愛着障害だったウィニコット自身が幼年期に、母親の母性的没頭がそこなわれるような状況におかれたという原体験をもっていたことに、深い因果を感じるのである。

しかも愛着障害だったウィニコットは、母親のうつが子どもの精神的安定や発達に影響することを最初に指摘した人物でもある。

子ども時代の愛着障害だったウィニコットが、沈んでいる母親に安心を与えることが「自分の仕事」であるとみなしていたという事実は、彼がその後、うつの母親に育てられた子どもについて述べた事と、ぴったり重なるのである。

ちなみにウィニコットの姉は、二人とも一度も嫁がないまま両親のもとに留まり、両親の世話をして生涯を終えた。

愛着障害だったウィニコット一人が結婚し、離婚と再婚も経験している。

姉が二人とも結婚しなかったという事実は、母親のうつがもたらした分離不安の高まりによって、自立が妨げられたのではないのかという疑いを抱かせる。

愛着障害だったウィニコット流にいえば、姉たちは「偽りの自己」としてしか生きられなかったのかもしれないが、ウィニコットは個人的なことについて何も触れていない。

いずれにしろ愛着障害だったウィニコットにとって、十四歳のときに寄宿学校におくられたことは、幸いだったのかもしれない。