プルースト、セリーヌとともに、二十世紀のフランス文学を代表する作家として評価の高いジャン・ジュネは、きらびやかな文体を駆使して、『花のノートルダム』や『泥棒日記』などの傑作を立て続けに生み出した。

そこで、サブテーマとなっているのは、盗癖とホモセクシャルであり、そこには彼自身の人生が反映されている。

ジャン・ジュネは、愛着障害を語るうえで、欠かすことのできない存在と言ってもいいだろう。

彼は愛着障害が陥りやすい危険を、極端な形で症状化してみせると同時に、それを克服する道程を、われわれに示してくれた。

ジャン・ジュネは、1910年にパリで生まれた。

未婚の母親は、七カ月後、わが子を救済院の遺棄窓口に連れて行き、遺棄した。

生まれてから半年余り、母親は我が子を自分の手で育てようとしたものの、それが限界だったのだろう。

七カ月でも母親と一緒にいられたことは、幸運だったと言うべきだろうか。

翌日には、パリから250キロも離れた児童委託事務所に移され、ただちに里親が決められた。

そして、アリ二ィ・アン=モルヴァンという小さな村で家具職人をしているレニエ家に預けられることとなったのである。

フランスでは、当時から里親制度が整えられ、恵まれない子どもは、地方の村に住む里親の手で育てられた。

アリ二ィという村は、とりわけ里子を育てるのに熱心なところだった。

国からの扶助料が得られたのと、労働力の足しにされたのである。

貧しい農家に預けられた場合には、一日中農作業に駆り出されるということも珍しくなかった。

その点では、愛着障害だったジャンは非常に幸運だったと言える。

レニエ氏は無口な人物だったが、心優しい性格の持ち主で、また家具職人としても評判がよく、部屋がいくつもある大きな家に住んでいた。

レニエ夫人も、優しい母性的な人で、ジャンをむしろ甘やかして、実子同様に育てたのである。

レニエ家に連れてこられたとき、七カ月のジャンは、体がとても小さかった。

母親は、生活に困窮し、わが子に満足な栄養や世話を与えていなかったのだろう。

一週間ほど毎晩夜泣きをしたというが、すぐにその家の暮らしに馴染んでいった。

六か月から一歳半が、愛着形成の臨界期であることを考えると、愛着障害だったジャンは、母親に対して愛着形成が始まりかけたときに、その手元から離されたことになるが、まだレニエ夫妻との間に、実の親子と変わらない愛着の絆を結ぶことは十分可能だったと言えるだろう。

ただ、そうはならなかったのには、いくつか理由があった。

もっとも大きな理由は、幼いころから里子として扱われ、すでに成人していたレニエ夫妻の実の子と一緒に暮らしていたという事である。

娘のベルトは愛着障害だったジャンに優しかったが、息子のジョルジュはジャンをうっとうしがり、愛着障害だったジャンもこの青年をライバル視して嫌っていた。

また、幼い愛着障害だったジャンの面倒をみたのが、養母だけでなく、娘のベルトや、もう一人里子として預かっていたリュシーという十歳の女の子だったという事情もある。

レニエ家にやってきてから最初の一年間、愛着障害だったジャンが寝かせられたのは、リュシーの部屋であり、彼女が愛着障害だったジャンの面倒をみることも多かった。

とはいえ、愛着障害だったジャンが当時の里子としては、望むべき最高の待遇を受けていたことは疑いない。

同じ村には、他にも多くの里子がいて、当時の彼のことを回想しているが、だれもが口をそろえて、彼の境遇が非常に恵まれていたことを証言している。

愛着障害だったジャンは、当時としては高価な、美しい挿絵の入った大きな本を、何冊ももっていたという。

それは、他の里子たちには望むべくもない贅沢だった。

「彼は本当に素晴らしい子供時代を送りました。(中略)

彼は自分がやりたいと思うことをしていましたし、誰もそれに文句を言ったりしませんでした。

家の中では、彼は小さな王様だったのです」(エドマンド・ホワイト『ジュネ伝』)

すぐ隣が学校で、学校の先生もジャンを可愛がった。

他の子のように、雑用仕事をさせられることも、ほとんどなかった。

恵まれた環境で、彼は読書にも励むことができた。

同級生の話では、学校の図書室の本をすべて読んだという。

作文もクラスで一番だった。

彼は、その周辺地区で第一位の成績で初等教育修了証を手にした。

それ以降、教育らしい教育を受けていないにもかかわらず、格調の高いみごとな文章を書く能力の基礎を身につけたのにも、こうした環境が助けとなったのである。

だが、そのころすでに、盗癖という彼のアイデンティティの一つとでもいうべき特性をあらわにし始めていた。

愛着障害だったジャンの盗癖は、最初、愛情不足を紛らわす些細な行動として始まったが、それは次第に、彼のなかの反抗心と結びついて、カウンターアイデンティティとなっていく。

愛着障害のジャンが盗みをよくやったのは、十歳から十二歳ごろと推定されている。

盗みの対象は、養母やその娘ベルト、そして学校だった。

この時期は、第一次世界大戦が終わって、兵士たちが復員してきたじきでもあった。

養母の息子のジョルジュやベルトの夫も帰還してきた。

それまで、一家の愛情を独占していた愛着障害だったジャンからすれば、邪魔者たちが戻ってきて、自分への愛情や関心を奪ってしまったことになる。

愛着障害のジャンは、疑いもなく、奪われた愛情の代償として、あるいは自分に注意を向けようとして、盗みに手を染めだしたのだ。

思春期になり、自我の目覚めが起き始めたことも、それに拍車をかけただろう。

次第に反抗的なところをみせるようになった愛着障害のジャンは、友人にこう力説したと言う。

「ここモルヴァンには、養護施設の子供を召使いみたいに考えて仕事をやらせる奴らがたくさんいる。チャンスがあれば、そいつらから盗んでやらなきゃいけないんだ」

あるいは、こうも語ったと言う。
「僕はいずれにせよ、人から働かされたりするのは絶対に御免だね」

しかし、現実に「召使いみたいに」こきつかわれていたのは、愛着障害のジャンではなく、他の子どもたちだった。

愛着障害の彼がすることになっていた唯一の手伝いは「一頭だけ飼っている牛を村から百メートルほど離れた牧場に連れて行き、夕方にそれをつれて戻る」ことだった。

実際、大した仕事をさせられていたわけではない。

愛着障害だったジャンは、盗んだ小銭や学校の文具を、周りの子どもたちに分け与えていたという。

彼自身、こう書いている。「十歳の時、個人的には好きだし貧しいことが分かっている人々から盗みを働いても、私は良心の叱責など何も感じなかった。

盗んでいるところを見つかった。

『泥棒』という言葉は、私を深く傷つけたと思う。

深くというのはつまり、そうした存在になると恥ずかしい思いをするのだ、あるいは人々にかまわず堂々とそうなりたいと考えるのは恥ずべきことなのだと人々がわたしに思わせようとする存在に、自分から進んでなってやろうと思うほど、ということだ」

彼の中の強情さ、傷つけられることに対して仕返しをせずにはいられない執念深さ、それが、否定されたものを自ら志向しようとする、価値の倒錯をもたらす。

こうした逆説的な反応こそ、深く傷ついた愛着障害に特有のものでもある。

愛着障害のジャンの盗みに対して、養父母は寛大だった。

他の人が、彼が盗みを働いていると知らせてあげようとしても、養母は、話を聞こうとしなかったという。

養母も知らないわけではなかったが、彼女には、ジャンの寂しい心のうちがわかっていたのかもしれない。

しかし、そんな優しい養母も、ジャンが11歳のとき亡くなってしまう。

愛着障害だったジャンにとっての幸せな日々は、彼女の死とともに終わりを迎えるのである。

養父母に代わって、娘のベルト夫妻が里親となるが、酒飲みの夫は、愛着障害だったジャンに農作業や雑用をさせようとする。

それに対して、愛着障害だったジャンは頑なに抵抗した。

それでも、さらに二年間、愛着障害のはジャンはこの一家のもとで暮らしたが、その間、彼の反抗的な態度は次第にエスカレートしていく。

そして、記憶の中の事実さえも、塗り替えられていく。

愛着障害のジャンは、養母について、あらゆる作品のなかで一言も触れていない。

しかし、里親の一家については、友人に対して、また世間に向かって、否定的な言い方をするようになる。

「子どものころ、家の者は犬を打つのと同じ鞭で自分を折檻し、また食事の時には彼をなじろうとして、お代わりはいらないかと訊ねておきながら、自分が欲しいと答えるとご飯をくれる代わりに、食い意地が張っているといって嘲笑した」と語る。

だが実際には、すでに述べたように、彼は里子としては、格別に大切にされていたし、彼自身も『泥棒日記』の最初の草稿では、里親のことを「とても立派な人達」と呼んだ。

人を貶しても、褒めることは滅多になかった愛着障害のジャンにしては、異例なことである。

しかし、この部分は結局策削除された。

ネガティブな評価の一般化という傾向は、愛着障害の人にはしばしばみられる。

どんなに愛情を注いで手間暇をかけて関わってもらっても、良かった面についてはあっさり忘れてしまい、例外的な出来事にすぎない傷ついた体験が、すべてを覆っていたかのようにみなし、語るようになるのである。

愛着障害のジャンは、里親のもとを去った後、何度も落ち着くチャンスがあったにもかかわらず、盗みや放浪を繰り返しては、感化院や刑務所を行き来するようになる。

そして、そこで、さらに悪徳に染まっていくという転落の人生を歩むことになるのだ。

愛着障害のジュネは、盗んだ本を売って生活するようになる。

というより、彼はある時期から本しか盗まなくなったのだ。

しかも、「傑作しか盗まなかった」と豪語している。

刑務所で書いた詩や小説がジャン・コクトーに絶賛され、彗星のごとく現れた天才として巷の話題をさらい、一躍有名人となってからも、そうした悪徳とすっぱり縁が切れたわけではなかった。

愛着障害だったジャン・ジュネの本当の奇跡は、作家として成功したことよりも、彼が泥棒として人生を終えなかったことだ。

刑務所と最後に縁が切れたのは、33歳のときである。

13回の窃盗で有罪判決を受けた男は、それ以降二度と、同じ罪で起訴されることはなかった。

彼は泥棒以外の新しいアイデンティティを手にいれたのだ。

ジャン・ジュネは小説家から、ヴェトナム反戦やパレスチナ問題、黒人問題など、常にマイノリティの立場に立つ政治活動に身を投じて行った。

それはおそらく、「搾取する連中から盗んでやらないといけないんだ」と語っていた少年が、社会と折り合いをつけた姿だったのだろう。