大人になっても、愛着障害を引きずり続けた偉人は数多い。

文豪夏目漱石も、その愛着障害の典型的な一人である。

彼は生涯愛着障害を抱え、それを克服しようと文学者になった人物だと言える。

愛着障害だった夏目漱石、本名夏目金之助が生を受けたのは、幕末の1867年のこと。

父親は五十歳、後妻だった母親は41歳で、八人兄弟の末っ子であった。

母親は、この年で子どもを産むのはみっともないと後々まで語っていたというから、漱石は予期せざる、そして歓迎せざる子どもだったのだろう。

そうしたこともあって愛着障害だった漱石は、生まれて間もなく里子に出された。

貧しい古道具屋の夫婦のもとだったという。

しかし、籠に入れられ、店先にガラクタと一緒におかれているのを、たまたま通りかかった姉がみかけ、あまりに不憫だったので連れ帰ってしまった。

けれども、家にはおいてもらえず、今度は塩原昌之助という、以前夏目家の書生だった人物の養子となったのである。

子どものいなかった塩原夫婦は、幼い漱石を溺愛した。

実子として戸籍に入れ、わが子以上に可愛がった。

夫婦はケチなところがあったというが、子どもには出し惜しみをしなかった。

玩具であれ錦絵(今日の絵本に相当するだろう)であれ、ふんだんに買い与えた。

着るものも、越後屋(三越の前身)に連れて行って、あつらえたという。

特別裕福でもない一家としては、かなり贅沢をさせたと言っていいだろう。

この夫婦は、愛着障害だった幼い漱石に「お前のお父さんは誰だい?」「お前のお母さんは誰だい?」と強迫的なまでに尋ねたという。

愛着障害だった幼い漱石は内心辟易しながらも、両親の気に入るように二人を指すのだった。

ことに養母の方が執拗で、それでは安心できないらしく、「本当は誰の子なの?」「誰が一番好きだい?」と自分の気に入る答えが返ってくるまで、質問を繰り返すのだった。

後に愛着障害だった漱石は、晩年に書かれた小説『道草』において、養父母の愛情をこう分析している。

「けれどもその愛情のうちには変な報酬が予期されていた。

金の力で美しい女を囲っている人が、その女の好きなものを、云うがままに買ってくれるのと同じ様に、彼等は自分達の愛情そのものの発現を目的として行動する事が出来ずに、ただ健三(小説の主人公)の歓心を得るために親切をみせなければならなかった」

愛着障害だった漱石は子ども心に、二人の愛情にどこか自然な情愛とは異なる、押し付けがましさと違和感を覚え始めていたのかもしれない。

そして、多くの子どもがそうするように、愛着障害だった漱石も、親たちの期待に合わせて行動するしかなかったが、その反動は、問題行動となって現れ始めた。

愛着障害だった漱石は強情、わがままが次第にひどくなり、「自分の好きなものが手に入らないと、往来でも道端でも構わずに、すぐそこへ座り込んで動かなかった。

ある時は小僧の背中から彼の髪の毛を力に任せてむしり取った。

ある時は神社に放し飼いの鳩をどうしてもうちに持って帰るのだと主張して已まなかった」

強情やわがままや度の過ぎたいたずらといったものは、愛着障害の子にしばしばみられるものである。

愛着障害だった漱石は、さらに屈折した「症状」をみせた。

あるとき、夜中に縁側で放尿しながら眠り込んでしまった愛着障害の漱石は、自分の放った小便の上に転がり落ちて足を怪我した。

やがて怪我は治ったが、愛着障害の漱石少年は歩こうとしなかった。

養父母が心配しておろおろする様子が愉快だったからである。

こうしたコントロール戦略は、統制型の愛着パターンを思わせる。
統制型の愛着パターンについて

後年の愛着障害の漱石に特徴的な、シニカルで、偽善をことさら暴くのを好む傾向も、その萌芽は幼い頃からみられた。

今でいう演技性パーソナリティ障害の気があった養母には、二枚舌なところがあった。

お世辞を並べた相手がいなくなると、散々悪口を言ったりしたのである。

愛着障害の漱石は、そのことを相手に暴露して、養母に恥をかかせた。

それは、気性が真っ直ぐだからというよりも、養母に対する信頼感が欠けていたことを表しているだろう。

シニカルで偽善を嫌う性格というものは、親に対して失望を味わったり、尊敬心を育めないでいることに由来することが多いが、その根底にはしばしば愛着の問題が横たわっている。

愛着障害の人は、誰に対しても心から信頼も尊敬もできず、斜に構えた態度をとる一方で、相手の顔色に敏感であるといった矛盾した傾向を往々にして抱えている。

尊敬できない相手であっても、それにすがらずには生きていけないからである。

それでも、その後起きた不幸な事態に巻き込まれることがなければ、愛着障害の漱石が抱えることになる屈折は、もう少し柔らかなものになっていたかもしれない。

愛着障害の漱石が七歳のとき、養父母の夫婦仲が急に険悪となった。

毎晩のようにいがみあいのけんかが繰り返され、互いに手や足まで出るようになったのである。

原因は養父の女性問題だった。

その顛末として、愛着障害の漱石は、養家から牛込の実家に戻ることとなるのだが、決着をみるまでの一年半ほどの間、定まりのない暮らしを余儀なくされた。

最初は、養母と漱石の実家に住んだ後、そこを出て養母と二人で暮らしたが、その間、愛着障害の漱石は養母に、「もうお前しか頼るものはない」と散々言われたようだ。

しかし、養母との暮らしも、恐らくは経済的事情で行き詰り、浅草で愛人と暮らしていた養父のもとにやられると、そこで愛人の娘も含めた四人で暮らすことになった。

さすがに、そんな状況を見かねた実家が、愛着障害の漱石を引き取ることにしたのだが、養家との悶着のため、夏目の戸籍に戻るのは、ずっと後のことである。

親元に戻ったのだから結果オーライではないか、というわけはいかない。

愛着障害の漱石は新しい養育者との間に愛着の絆ができかけると、大人たちの都合でそれがひきちぎられる。

これでは、愛着の傷が癒える間もない。

こうして、養育者の間をたらい回しにされ、何度も見捨てられ感を味わったことは、愛着障害の漱石の生涯にその痕跡を残すこととなった。

実家に戻ったとき、愛着障害の漱石は実の両親のことを祖父母だと思っていた。

実際、「おじいさん」「おばあさん」と呼んでいた。

遅くできた子どもだったこともあって、両親とも、そう呼ぶのがふさわしいくらい老け込んでいたのだ。

両親の方も、それを改めさせようとはしなかった。

愛着障害の漱石は十歳近くになるまで別々に暮らしてきた子どもに対して、親の方にも、どこか扱い困っているようなよそよそしさがあった。

末っ子には、甘えん坊が多いと言われるが、愛着障害の漱石は、実の両親に甘えることもなかったのである。

それでも漱石は、随筆『硝子戸の中』で、こう振り返っている。

「私は普通の末っ子のように決して両親から可愛がられなかった。

これは私の性質が素直でなかった為だの、久しく両親に遠ざかっていた為だの、色々の原因から来ていた。

とくに父からは寧ろ苛酷に取り扱われたという記憶がまだ私の頭に残っている。

それなのに浅草から牛込へ移された当時の私は、何故か非常に嬉しかった」

愛着障害の漱石が、牛込の実家の両親のもとで暮らしたのは、記憶にもないわずかな間であった。

しかし愛着障害の漱石は、牛込の実家に対しても、また、彼が祖母だと思っていた生みの母親に対しても、親しみと安堵を感じたのである。

それは、血がつながっていたからではない。

愛着が形成されていたからである。

このことは、今日の愛着研究から容易に理解できる。

もっとも強い愛着の絆が生まれるのは、生後半年から一歳半の間であるが、愛着障害の漱石が最初に里子に出されたのは生まれてすぐのことで、ほどなく姉によって連れ帰られている。

その後、塩原昌之助と養子縁組をしたのが、一歳十カ月ごろのことである。

つまり愛着障害の漱石は、半年から一歳半という愛着形成の臨界期を、実家の両親のもとでおおむね過ごしたと推測されるのだ。

特に生母に対しては、愛着の絆が形成されていたと考えられる。

それに対して、愛着障害の漱石は、一歳半を過ぎて養子に出された塩原昌之助夫婦に対しては、実の親だと思って育てられてきたものの、臨界期を過ぎていたために、その絆は表面的なレベルにとどまってしまったのだろう。

それでも、養父母が安定した愛情を注ぐことができた場合には、通常の親子と変わらない愛着形成がおきるとされるが、愛着障害の漱石の養父母には、そうした面にどこか欠けているところがあったのだろう。

養父母自身も、不安定な愛着傾向を抱えていたため、安定した愛着を築くことができなかったのかもしれない。

恩着せがましく何かと強要してくる養母よりも養父に対して漱石は愛着を覚えていたのだ。

養母に対する醒めた態度とは対照的に、何年も離れて暮らしている実の母親に対して、漱石はもっと肯定的な感情を示した。

「両親から可愛がられなかった」にもかかわらず、愛情のこもった愛着を示している。

愛着障害だった漱石は牛込の家に戻ってきたとき、安堵と喜びを感じたのは、意識化された記憶ではないが、もっと古い記憶によって、その場所が安心と喜びの時間と結びついていたからであろう。

「無意識の記憶」としてフロイトが述べたことは、今では、脳科学的にも裏付けられている。

ことに偏桃体に刻まれた情動的な記憶は、無時間的なものであり、それがどこからやってきたものか、当人にもわからないという性質をもつ。

ただ、過去の記憶を想起させる感覚に出会ったとき、心地よい感情や理由のわからない不安や恐怖にとらわれるのである。

捨て犬が、かすかな匂いの記憶を頼りに何年もかかって飼い主の家を探し当てるように、愛着障害の幼い漱石は、長く離れていた我が家に、生理的とも言える安堵を覚えたのである。

生まれた家とも知らず、実の親とも知らず、とてもうれしそうにしている幼い漱石をみて、ひとりの女中が気持ちを抑えられなくなったのか、「誰にも言わないで」と念を押したうえで、こっそり本当のことを打ち明けてくれた。

それを聞いた愛着障害だった漱石は、「誰にも言わないよ」とだけ答えたが、「心の中では大変うれしかった」という。

しかし、親を慕う愛着障害だった漱石の思いは、裏切られることになる。

ことに父親の拒絶によって。

「何しにこんな出来損ないが舞い込んで来たのかという顔付をした父は、殆ど子としての待遇を彼に与えなかった」(『道草』)

養父母の前では優しかった実父の豹変に、愛着障害だった漱石は戸惑い、傷つき、居場所がないように感じたのである。

母親は、父親に比べれば優しいところもあったが、愛着障害だった漱石が実家に戻った五年後に亡くなってしまう。

それから、愛着障害の漱石少年はますます強情になり、いたずらやけんかがひどくなって、叱られたり、否定されたりすることが多くなったが、それも、愛着障害のの子どもの典型的な経過だと言える。

愛着障害の漱石が、それから四半世紀後の39歳のときに発表した『坊ちゃん』には、誰にも認められない寂しさを、突っ張ることで紛らわせていた子ども時代の自身の心境がよく反映されている。

無鉄砲でけんかっ早く、ひどいいたずらに明け暮れる主人公「坊ちゃん」。

校舎の二階の窓から飛び降りたり、ナイフで指をざっくり切り込んだり、人参畑で相撲を取って荒らしたり、井戸を石や棒で一杯にして使い物にならなくしたりと、多動で衝動的なところは、現代ならば、すぐに「注意欠陥/多動性障害」とか、下手をすると「反抗挑戦性障害」「行為障害」といった大層な診断名がつけられるかもしれない。

「おやじはちっとも俺を可愛がってくれなかった。

母は兄ばかりひいきにしていた。

この兄はやに色が白くって、芝居の真似をして女形になるのが好きだった。

おれを見る度にこいつはどうせロクなものにはならないと、おやじがいった。

乱暴で乱暴で行く先が案じられると母がいった。

なるほどロクなものにはならない。

御覧の通りの始末である。(中略)

おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様はダメだダメだと口癖のように言っていた。

何がダメなんだか今に分からない。

妙なおやじがあったもんだ」(『坊ちゃん』)

こうした一節にも、からりとしたユーモアの陰に、親から否定され続けてきた愛着障害の漱石の屈折した思いがにじんでいる。

しかも愛着障害の漱石には、実の親だけでなく、養父母との関係もあった。

後年、養父は、二十余年ぶりに漱石の前に姿を現すと、金の無心をするようになる。

愛着障害だった漱石の方に、養父への情愛らしきものはみられない。

「彼は二十余年も会わなかった人と膝を突き合わせながら、大した懐かしみも感じ得ずに、寧ろ冷淡に近い受け答えばかりしていた」と、その場面を『道草』の一節で描いた。

しかし、愛着障害の漱石はその一方で、周囲の反対にもかかわらず、養父との付き合いをむげに断ることもできずにいた。

愛着障害だった漱石は物心つく前から七歳まで、父親と呼んで育った相手に対して、周囲からは理解できない、心理的なつながりがあったというべきだろう。

それは、不完全なものではあったが、やはり愛着と呼べるものだったに違いない。

養父は、戸籍を戻すにあたって、養育料という名目ですでに手切れ金を受け取っていた。

愛着障害の漱石はそのことを周囲から指摘されても、自分との関わりを求めてくる養父を、きっぱり拒むことはできなかったのである。

愛着障害だった漱石はこの養父に対する愛着ゆえに、実の父親との絆が育ちにくかったという面もあったかもしれない。

子どもは、自分の親に対して忠節であろうとする。

たとえ、親がその子を見捨てたとしても。

不器用な子どもほど、忠節の相手を乗り換えることを拒む。

行ったり来たりを繰り返した結果、愛着障害だった漱石は、どちらの親に対しても、中途半端な絆しか結ぶことができなかった。

それが、後々の愛着障害の漱石を脅かし続けることになる実存的な不安の根底にあったに違いないし、皮肉っぽい両価的な態度もそこに由来するだろう。

愛着障害だった漱石は、幼児期後期には、統制型の愛着パターンをみせたりしているが、その後、養育者が転々と変わるという体験の中で、回避型の愛着スタイルを強めていったと考えられる。

統制型と回避型の両方が入り混じった、特有のパーソナリティを発展させたのである。

人に容易に気を許さず、子どもの扱いも極度に苦手で、嫌ってさえいたといった面には、ただ人との交わりを気楽に楽しめない回避型の性向のみならず、思い通りにコントロールできない相手に対して、どう接していいかわからないという統制型の不器用さの名残が表れているように思える。

しかし、愛着障害は、漱石に生きづらさを抱えさせただけではない。

明らかに彼の創造力の源は、愛着障害とともに彼が抱えてきた悲しみや憧れ、自己矛盾にあった。

不幸な生い立ちによる愛着障害を抱えていなければ、夏目金之助は生まれていても、夏目漱石は存在しなかっただろう。