太宰治については、あまりにも多くが語られてきた。

薬物依存症であったことや心中未遂を繰り返したことの背景に、どういう精神病理があったのかということで諸説が唱えられたが、昨今は、境界性パーソナリティ障害ということで、大方の意見の一致をみている。

だが、さらにその根底に何があったのかと考えたときに、愛着障害という答えに行き当たるのである。

太宰治もまた、愛着障害を抱えた人ゆえの苦しみを嘗め、それを創作にぶつけたが、ついに克服しきれなかったと言えるだろう。

愛着障害から境界性パーソナリティ障害へと移行していく場合、その人が何を体験するのか。

愛着障害だった太宰のケースは、その精神内界のドラマを、鮮やかに明らかにしてくれる稀有の一例でもある。

太宰の愛着障害の由来も、漱石の愛着障害と似ている。

太宰自身の言葉で、その間の事情を語ってもらおう。

次は『新樹の言葉』という小説からの引用であるが、ほぼ愛着障害だった太宰自身の体験に基づいたものと考えられる。

「私は生れ落ちるとすぐ、乳母にあずけられた。

理由は、よくわからない。

母の体が、弱かったからであろうか。

乳母の名は、つるといった。

津軽半島の漁村の出である。

未だ若い様であった。

夫と子どもに相次いで死に別れ、一人でいるのを、私の家で見つけて、やとったのである。

この乳母は、終始、私を頑強に支持した。

世界で一番偉いひとにならなければ、いけないと、そう言って教えた。

つるは、私の教育に専念していた。

私が、5歳、6歳になって、ほかの女中に甘えたりすると、まじめに心配して、あの女中は善い、あの女中は悪い、なぜ善いかというと、なぜ悪いかというと、と、いちいち私に大人の道徳を、きちんと座って教えてくれたのを、私は、未だに忘れずに居る。

いろいろの本を読んで聞かせて、片時も私を手放さなかった。(中略)

私は、つるを母だと思っていた。

本当の母を、ああ、この人が母なのか、と初めて知ったのは、それからずっと、あとのことである」

愛着障害だった太宰のこの文章には、乳母に対する純粋な愛慕の念が、抑えがたくあふれだしているように思える。

記憶から薄れかけていても、いったん思いがよみがえってくると、心の奥底にはっきりと存在していることを知る。

それが愛着というものだ。

ひたむきな愛情をかけて育てられた子どもが、大人になって親を回想するとき、その言葉にあふれているのは、愛着障害だった太宰が乳母について語るときのような、深い感謝と肯定感である。

それは、親が誰よりも自分を肯定し、支持してくれたという、ありがたい思いである。

それは、愛着障害だった太宰が、実の父母を語るときのよそよそしさや否定的なわだかまりに比べて、何という違いだろう。

愛着障害の太宰にとっての不幸は、乳母に対して抱いた愛着を、両親に対して抱くことができなかったということである。

そして、それは、それほどまでに懐き、愛着していた乳母と、ある日突然別れねばならなかったという生涯消えぬ傷跡にも由来している。

「一夜、つるがいなくなった。

夢見心地で覚えている。

唇が、ひやと冷たく、目を覚ますと、つるが、枕元に、しゃんと座っていた。

ランプは、ほの暗く、けれどもつるは、光るように美しく白く着飾って、まるでよそのひとのように冷たく座っていた。

『起きないか。』小声で、そう言った。

私は起きたいと努力してみたが、眠くて、どうにも、だめなのである。

つるは、そっと立って部屋を出て行った。

あくる日、起きてみて、つるが家にいなくなっているのを知って、つるいない、つるいない、とずいぶん苦しく泣き転げた。

子ども心ながらも、ずたずた断腸の思いであったのである。

あのとき、つるの言葉のままに起きてやったら、どんなことがあったか、それを思うと、いまでも私は、悲しく、悔しい。

つるは、遠い、他国に嫁いだ。

そのことは、ずっと、あとで聞いた」

実の母親同然に慕っていた女性がある日突然、自分を見捨てたのである。

事情はどうであれ、子どもにとっては、見捨てられたということに変わりない。

愛着対象を突然奪われた子どもは、世界の土台を失うにも等しい打撃を受ける。

愛着障害だった太宰はその後、乳母に一度だけ会ったという。

「私が小学校二、三年のころ、お盆の時に、つるが、私の家へ、一度来た。

すっかり他人になっていた。

色の白い、小さい男の子を連れて来ていた。

台所の炉傍に、その男の子とふたり並んで座って、お客さんのように澄ましていた。

私にむかっても、うやうやしくお辞儀をして、実によそよそしかった。

祖母が自慢げに、私の学校の成績を、つるに教えて、私は、思わずにやにやしたら、つるは、私に正面むいて、『田舎では一番でも、よそには、もっとできる子がたくさんいます。』と教えた。

私は、はっとなった」

愛着対象への思慕の情をその記憶と一緒に消し去るという脱愛着のプロセスは、確実に進んでいた。

乳母のよそよそしさは、太宰のよそよそしさでもあっただろう。

だが乳母の一言によって、愛着障害だった太宰は、自分が消し去ろうとしてきたものの存在にきがつき、はっとなったのである。

乳母が自分に期待しているものの大きさを感じて、愛着障害だった太宰は背筋を伸ばす思いだったのだろう。

その短いやり取りは、乳母の彼に対する愛情と期待が決して死に絶えたわけではないことを示している。

しかし、脱愛着のプロセスは進行し続けた。

次第に、乳母のことは、愛着障害だった太宰の記憶からも遠ざかっていった。

「私が高等学校にはいったとし、夏休みに帰郷して、つるが死んだことを家の人達から聞かされたけど、別段、泣きもしなかった。(中略)

十年はなれていたので、つるが死んでも生きても、私の実感として残っているのは、懸命の育ての親だった若いつるだけで、それを懐かしむ心はあっても、その他のつるは、全く他人で、つるが死んだと聞かされても、私は、あ、そうかと思っただけで、さして激動はうけないのである」

愛着していたころの自分を消し去ることで、子どもは、のたうつような悲しみと苦しさから、自分を守るしかないのである。

だが、それで問題が片付いたわけでは決してない。

愛着対象への思いを切断するという荒療治は、何か大切なものも一緒に切断してしまう副作用を伴う。

愛着障害だった太宰がなぜ実の親に対して、素直な愛情を感じることができなかったのか。

親もまた愛着障害だった太宰に対して、否定的な反応ばかりを返したのか。

愛着障害だった太宰が抱えることになる生きることに対する違和感の根っこは、生裂きにされた愛着にあるように思える。

愛着障害だった太宰が『新樹の言葉』を書いたのは、彼が甲府にいたところで、心中未遂や薬物依存の泥沼から這い出して、人生の再出発を図っていた時期であった。

しかし、遺書として書かれた最初の作品『思い出』には、乳母という言葉は一言も出てこない。

それらしき女性は、彼に本を読むことを教えてくれ、一緒にさまざまな本を読んだ「女中」として語られている。

その女中に愛着していたことや、その女中がある日突然いなくなったという話は一致しているが、言葉をさほど費やすこともなく、さらっと触れているだけだ。

この時期、愛着障害だった彼はまだ、乳母との別離の傷跡に正面から向き合っていなかったのだろう。