作家の川端康成は、二歳にならないうちに医師だった父親を喪い、それから一年もしないうちに母を喪った。

両親とも、結核によって命を奪われたのである。

母親が亡くなったとき、まだ二歳半だった川端は、両親の記憶をほとんど持たずに育った。

ただ、一歳半か二歳ごろまでは母親が元気だったということは、彼の記憶には残っていなかったにしろ、母親との間に愛着の絆が形成されていた可能性は高い。

しかし、それゆえに、母親を喪った悲しみは大きかったはずである。

だが、その悲しみすら、川端自身が自覚することはなかっただろう。

ただ理由の定かでない、非哀感や寂しさとして、愛着障害の彼を支配し続けることになったのかもしれない。

愛着障害の川端は虚弱で、小学校に上がるころまで、「まともに米の飯が食べられなかった」というほど食が細く、学校も休みがちであったため、よくいじめられた。

生まれつきの体質もあるだろうが、それ以上に、母を喪ったことによる愛着障害で、成長に影響がおきていたと考えられる。

肉親との縁の薄い人生は、その後も続く。

ひ弱な彼の面倒を見、ひたすら守ってくれていた祖母を七歳のときに喪うのである。

愛着障害の川端少年は、衰えの目立つ祖父までもが、いなくなってしまうのではないかという思いを抱きながら、子ども時代を過ごすことになる。

友達の家に遊びに行き、帰りが遅くなったりすると、目の見えなくなっていた祖父のことが心配でたまらなくなった。

そんな愛着障害の川端少年の楽しみは、庭に生えた木斛の木に登って、読書をすることだったという。

現実の世界が、いつどうなるかわからない寄る辺なさのなか、本の世界だけが、愛着障害の川端少年にとって、安全な避難場所となっていったに違いない。

そして、愛着障害の川端少年が十五歳のときには、その祖父まで看取ることになる。

そのとき書かれたとされる『十六歳の日記』には、祖父が衰弱していくさまが、冷徹とも言える写生文で、淡々と写し取られている。

満十五歳の少年にしては、一種異様とも言える、情に曇らされることのない筆遣いである。

そこにも、感情に流されず、事実だけを冷静に見つめるという回避型愛着の特徴が刻印されていると言えるだろう。

親がどんなに子どものことを愛し、そばにいて愛情を注ぎ続けたいと思っても、死によって、存在することを禁じられてしまえば、困っている子どもに、何をしてやることもできない。

ましてや幼いころに死に別れてしまえば、何か助けになることを、子どもの記憶に残してやることもできない。