「全か無か」になりやすい

こうした極端な反応には、愛着障害にみられやすいもう一つの重要な特性が関係している。

それは、全か無かの二分法的な認知に陥りやすいということである。

好きと嫌いがはっきりしすぎて、嫌いな人にも良い点があるということを認められないのだ。

こうした全か無かの傾向は、対人関係を長く維持することを困難にする。

愛着障害だった漱石は、高等師範学校の仕事を辞めて、松山の中学校の教師として赴任する。

当時のことを書いた『坊っちゃん』で、主人公の「おれ」は教師たちにあだ名をつけ、ずるがしこく立ち回る教頭の「赤シャツ」を目の敵にした。

だが、現実的に考えてみれば「赤シャツ」はすべて否定されるほどの悪人でないことは言うまでもない。

むしろ、社会的な未熟さを抱えているのは、「おれ」の方である。

しかし、「おれ」からみれば、陰でこそこそ立ち回る赤シャツは、許せない存在なわけである。

最後に生卵をぶつけて退治をするという物語を書くことで、愛着障害だった漱石は憂さを晴らしたのであるが、そこには、愛着障害だった漱石自身が全か無かの認知で人を見定める傾向をもっていたことが関係している。

その証拠に、愛着障害だった漱石は松山以降も同じようなことを繰り返している。

松山を一年で引き上げた愛着障害だった漱石は、熊本の第五高等学校に移ったが、そこも嫌で仕方がなくなり、今度はロンドンに留学する。

しかし、わずか二、三カ月で大学の講義に出なくなり、残りはほとんど下宿にこもって悶々と暮らした。

愛着障害だった漱石は下宿の女将が自分に意地悪をしていると本気で信じ、外にも出られなくなった。

愛着障害だった漱石は被害妄想に陥っていたのである。

愛着障害だった漱石は帰国して文科大学(後の東大文学部)の講師や第一高等学校の教師となるが、そこでの人間関係も嫌で仕方がなかった。

愛着障害だった漱石が被害妄想を脱したのは、『吾輩は猫である』で文名が高まり、大学を辞めても作家としてやっていける身分になってからである。

しかし、愛着障害だった漱石は大学を飛び出し、新聞社お抱えの作家となったものの、文名に陰りがみえ、新聞社内での立場も次第に孤立するなかで、生活のために連載小説を書き続けねばならなくなると、再び悪化を繰り返すようになる。

愛着障害の漱石は精神病を発症する瀬戸際まで追い詰められたが、その行きづらさを飯の種に変えることで、辛うじて正気を保ち、破滅を免れていたとも言えるだろう。