「安住の地を求めてさまよう」

愛着障害の人達のなかには、家出や放浪を繰り返す人がいる。

たび重なる引っ越し、旅といったものと縁が深いケースも少なくない。

もっと長じてから、家出をしたり、遁世をしたりというケースもある。

実際、家出・遁世をする人には、愛着障害を抱えた人が多い。

その代表は、ゴータマ・シッダルタ、すなわち釈迦である。

釈迦の母親は、彼を生んだ直後に亡くなった。

ちょうど愛着障害だったルソーの母親と同じように。

愛着障害だった釈迦は、愛着障害だったルソーが感じていたのと同じように、自分の出自が、その出発点から、母親の命と引き換えに与えられたものであり、そのことに罪の意識を感じていたに違いない。

愛着障害だった釈迦は、自我に目覚め、自らの出自について考える青年のころから、物思いに耽るようになる。

その憂いを晴らすことができればと、王である父親は愛着障害だった釈迦に妻を娶らせ、子どももできるが、愛着障害だった釈迦の心の沈鬱を取り去ることはできなかった。

愛着障害だった釈迦はついに出家して、王位の位も妻子も捨てて、放浪の旅にでてしまうのである。

その根底には、母親というものに抱かれ、その乳を吸うこともなく、母親との愛着の絆を結ぶこともなく、常に生きることに違和感を覚えながら育ったことがあったに違いない。

それは、愛着障害に他ならない。

愛着障害だったルソーが甘やかされて育ったにもかかわらず、やがて自分の居場所を捨てて、遍歴の旅に出てしまったのと、その根底に起きていることは同じなのである。

幼い子どものころは、なにがしかの違和感や居心地の悪さを覚えていても、周囲の大人の庇護にすがって生きるしかなく、それなりに育つのだが、青年となって自分の考えが明確になり、行動力も培われてくると、もはやその場所に留まってはいられなくなる。

そこには自分の居るべき場所ではないと感じ始め、漠然とした救いを求めて、自分を縛る現実から脱出しようとする。

自分を受け止め、癒してくれる存在を求めようとする。

それは、大きな意味で、母なる存在と言えるかもしれない。

愛着障害だったルソーのように母親的な女性が、助けとなってくれることもある。

愛着障害だった釈迦の遍歴においても、母親的な女性との出会いをみることができるが、それは、性愛的な煩悩が超越した慈愛へと高められ、それに一体化することで、悟りに至る。

それは、愛着障害だった釈迦が母親の愛として求めたものの、究極の形だったのではないだろうか。