「全体より部分にとらわれやすい」

全か無かの認知とも関係しているが、愛着障害の人は、全体的な関係や視点ではなく、部分に分裂した関係や視点に陥りやすい。

それは、快不快の瞬間の関係に生きているという事もできる。

相手からどんなに恩恵を施されても、一度不快なことをされれば、それ以外のことは帳消しになって、相手のことを全否定してしまう。

こうした対象との関係を、メラニー・クラインは「部分対象関係」と呼んだ。

これは乳児にはふつうにみられるが、成長とともに相手を全体的な存在としてみることができる「全体対象関係」が発達してくるとした。

愛着障害が、乳児期の段階にもっとも起きやすいトラブルだということを考えれば、愛着障害の人の場合、「部分対象関係」からう「全体対象関係」への発達が損なわれていることは、至極納得できる。

ちなみにクラインの「対象関係」を、ボウルビィは「愛着」として捉えなおしたのである。

その意味で、部分対象関係から全体対象関係への移行は、愛着の成熟を表しているとも言えるが、その過程において、もっとも重要なのは、相手に「心」や「人格」という言葉で表現されるような統合的な存在を感じられるようになるということである。

たとえば、母親が悪いことをした我が子に対して、叱りながら涙を浮かべている光景を考えてみよう。

部分対象関係の段階にある子どもの場合、自分のした行為と「叱られる」という結果を結び付けて考えることくらいはできる。

こうして、子どもは「ある行為をすると叱られる」という条件付けがされるのだが、なぜ自分が叱られるのか、ましてや、なぜ母親が涙を浮かべているのかを理解することまではできない。

しかし、全体対象関係に目覚めた子どもは、自分の行為に対して、母親は怒っているだけでなく、悲しく思っているということを理解する。

それによって子どもは、「ある行為をすると叱られる」という条件付けがされるだけでなく、「自分が悪いことをして母親を悲しませてしまった」ことを理解し、自分も悲しい気持ちを味わうことができる。

そこから後悔や自責の念といったものが生まれ、真の反省や行動の制御へとつながっていく。

部分対象関係と全体対象関係を隔てるものは何かといえば、それは「相手の気持ちがわかるかわからないか」ということであり、言い換えれば「共感性が芽生えているかどうか」ということである。

つまり、部分に捉われやすいという状態は、共感性に欠けている状態でもあるということになる。

愛着障害の人は、相手の気持ちに対する共感性が未発達な傾向を示す。

相手の立場に立って、相手のことを思いやるということが苦手になりやすいのである。

それは、幼い頃に、共感をもって接してもらうことが不足していたことと関係しているだろう。

部分関係対象が優位で、共感性が乏しい傾向は、恋愛関係において、特有の歪みを生じやすい。

通常健全とされる愛情とは、相手に対するいたわりや尊敬といった内面的な要素と、相手の肉体的な魅力といった外面的な要素とが、渾然と一体化したものであり、相手の心も肉体も含めた存在全体を愛するというものであろう。

しかし、愛着障害の人の場合、そうした全体性はしばしば崩壊し、愛情の対象となるのは、相手のごく一部であるということも起こり得る。

たとえば相手が女性なら、肉体の中でも、脚だけ、乳房だけ、という場合もある。

相手の心には、ほとんど関心がなく、容姿や家柄、学歴だけに、特別な関心を示すこともある。