「独創的な創造性との関係」

愛着障害についてのケースをたどっていくと、すぐに気付かされるのは、作家や文学者に、愛着障害を抱えた人が、異様なほどに多いということである。

夏目漱石、谷崎潤一郎、川端康成、太宰治、三島由紀夫という日本文学を代表する面々が、一様に愛着の問題を抱えていたというのは、驚くべきことである。

ある意味、日本の近代文学は、見捨てられた子ども達の悲しみを原動力にして生み出されたとも言えるほどである。

文学以外にも、芸術の分野で名を成した人には、愛着障害を抱えていたというケースが非常に多い。

ある意味、そこからくる「欠落」を心の中に抱えていなければ、直接に生産に寄与するわけでもない創作という行為に取りつかれ、人生の多くを費やしたりはしないだろう。

書いても書いても癒し尽くされない心の空洞があってこそ、作品を生み出し続けることができるのだ。

芸術の分野以外でも、政治や宗教、ビジネスや社会活動の領域で、偉大な働きや貢献をする人は、しばしば愛着障害を抱え、それを乗り越えてきたというケースが少なくない。

愛着障害の人には、自己への徹底的なこだわりをもつ場合と、自己を超越しようとする場合がある。

実はその二つは、表裏一体ともいえるダイナミズムをもっている。

自己へのこだわりを克服しようとして、自己超越を求めることは多いが、同時に、自己に徹底的にこだわった末に、自己超越の境地に至るということも多いのである。

彼らの行動や思考が、独創性や革新性をもたらすということは、彼らが「親という安全基地をもたない」ということと深く関係しているように思える。

親という安全基地に恵まれ、安定した愛着を築いて、それに保護されながら生きていくことは、確かに安全であるし、社会にうまく適応するチャンスを増やすだろう。

その方が、ずっと生きやすい人生を保証してくれるのである。

それに比べて、親という安全基地をもたず育った人は、いきなり社会の荒波に放り出されて生きてきたようなものであり、その困難は大きい。

しかし親という安全基地は、しばしばその人を縛りつけてしまう。

そこが安全であるがゆえに、あるいは、親に愛着するがゆえに、親の期待や庇護という「限界」にとらわれてしまうというということも多い。

そして、親が設定した「常識」や「価値観」にがんじがらめにされ、常識的な限界を超えにくいのである。

ところが、愛着が不完全で、安全基地をもたない場合には、そこに縛られることがないので、全く常識を超えた目で社会を見たり、物事を感じたり、発想することができやすい。

これが、独創性という点で、大きな強みを生むのである。

もちろん、なかには、親との間の愛着が不安定であるがゆえに、何とかして親の愛情や承認を得ようと、親の期待に過剰に服従するというケースもある。

だが、人間の心というのは、そう単純にはいかないもので、表面的には服従していても、心の中には、どんどん割り切れない剰余が積み重なっていく。

まさに、その部分が、皮肉な視点で物事を見るということにつながる。

つまり二面性を生む。

この二面性が、人間が本然的に抱える矛盾を際立たせ、自己や社会に対する否定的な気分となって、ネガティブに作用することもあれば、個性的な着眼につながるというプラスの作用を及ぼすこともあるのだ。

創造とは、ある意味、旧来の価値の破壊である。

破壊的な力が生まれるためには、旧来の存在と安定的に誼を結びすぎることは、マイナスなのである。

親を代表とする旧勢力に対する根源的な憎しみがあった方が、そこから破壊的なまでの創造のエネルギーが生み出されるのだ。

その意味で、創造する者にとって、愛着障害はほとんど不可欠な原動力であり、愛着障害をもたないものが、偉大な創造を行った例は、むしろ稀と言っても差し支えないだろう。

技術や伝統を継承し、発展させることはできても、そこから真の創造は生まれにくいのである。

なぜなら、破壊的な創造など、安定した愛着に恵まれた人にとって、命を懸けるまでには必要性をもたないからである。

なぜ漱石は、内定していた東大教授という安定した地位を擲って、当時は弱小新聞だった東京朝日新聞の記者となって不安定な新聞小説家という道を選んだのか。

なぜ谷崎潤一郎は、東大を中退し、海のものとも山のものとも定かでない作家活動に飛び込んでいったのか。

なぜスティーブ・ジョブズは、大学を中退してドラッグやインド放浪という当てどのない遍歴を繰り返したのか。

なぜバラク・オバマは、コロンビア大学を卒業後、一流企業に就職する道を選ばず、報われることの少ないソーシャル・オーガナイザーとして活動することにしたのか。

愛着障害の彼らの創造的な人生の原点にあるのは、既成の価値を否定し、そこから自由になろうとしたことである。

愛着障害の彼らにそれができたのは、彼らが内部に不安定な空虚を抱え、常識的な行動によっては満たされないものがあったからだ。

そして、その源をさかのぼれば、愛着の傷ということに行きつくだろう。

それが、彼らを社会的な常識から解放し、新しい価値を手に入れる旅へと駆り立てたのである。