「道化という関わり方」

不安定型愛着スタイルの人は、しばしば三枚目やオッチョコチョイや道化役を演じることで、周囲から「面白い人」「楽しい人」として受け入れられようとする。

こうした傾向は子ども時代に強くみられるが、思春期には後退して、あまり目立たなくなる人がいる一方で、生涯その傾向が残る人もいる。

人を楽しませよう、笑わせようという旺盛なサービス精神は、周囲から人気を得たり好かれたりするのに役立つことも多い。

道化役を演じてしまう人は、自己卑下的な傾向が強く、その根底には自己否定感がある。

自分を粗末に扱うことで、相手に気を許してもらおうとするのである。

それも、他者に対する一つの媚びであるが、そうしないでは生きてこれなかった子ども時代の境遇が、そこに反映されている。

「そこで考え出したのは、道化でした。

それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。

自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。

そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。

おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、脂汗流してのサービスでした」(太宰治『人間失格』)

「人間に対して、いつも恐怖に震えおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分一人の懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナーバスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されていきました。

何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂『生活』の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空だ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサービスをしたのです。」(太宰治『人間失格』)

一方で、辛辣かつシニカルな毒舌や乾いたユーモアをみせる人もいる。

一見非常識にも思える態度にもかかわらず、周囲の人はむしろ好感を抱くこともある。

しかし、ときに、常識的な人と真正面から対立してしまうこともある。

両者に共通するのは、人生や世の中に対して第三者のように関わっているということである。

そこには、どこか超然として達観があり、自分が対等なプレイヤーとして加わることを、最初から諦めている。