愛着の傷を修復するためには、安全基地を確保し、子どものころの不足を取り戻したり、周囲に受け入れられるといった共感的、体験的なプロセスとは別に、もう一つのプロセスが必要である。

それは言葉を介した、認知的なプロセスである。

これらが並行して進むことによって、修復までのプロセスはより盤石なものになる。

子どもの頃に傷ついた体験は、たいてい心の隅に押しやられ、はっきり言語化されないまま、もやもやとした記憶として心に巣食っている。

そうして言語化の不十分な情動的記憶というものが、その人の心や行動を無意識のうちに支配し、ネガティブな反応や感情の暴走、解離といったことを引き起こす原因になる。

そのため、まず、そうした記憶を再び活性化することが必要である。

最初は、断片的にしか思い出せないが、それをすこしずつ語るのを、支える側は共感しながら受け止めることである。

嫌な出来事の記憶をたどりながら、そのときどんな思いであったかを、その人の言葉で語ってもらうことが重要である。

訊ねられても、すぐには言葉にならないことも多い。

なぜなら、まだ一度も言語化されることなく、ただ傷ついた思いだけが、悲しみや怒りといった強い情動とともに渾然一体となって、心の中に膿の詰まった袋のような病巣を作っているからである。

必要なのは、その膿を外へ出すことであり、そのためには、その時味わった思いを、ネガティブな情動とともに吐き出す必要がある。

言語化する過程において、最初のうちは、「何とも思っていない」「気にしていない」といった、問題の存在自体を否認する場合もある。

その段階を越えると、次は、否定的な感情ばかりが語られる段階に移行する。

この段階では、傷つけられた怒りや悲しみを、恨みつらみを込めて叩きつけるように語り続ける。

それは、傷が深ければ深いほど、傷を与えられた期間が長ければ長いほど、長期間続くことになる。

その間、執拗なまでに否定的な感情が語られるが、そうすることが修復には必要なのである。

愛着障害の修復過程で、安全基地となる存在が重要であり、それは、自分の生い立ちや傷ついた体験と向き合い、封印してきた過去を整理し、統合し直す作業に、そうした存在の立ち会いと媒介が不可欠だからでもある。

その作業は、友人や恋人を相手に行われることもあれば、パートナーの力を借りて行われることもある。

否定的なことを一切言わず、丸ごと受け止めてくれる存在に、自分の身に起きたことを、味わってきた思いとともに語り尽くすことが重要なのである。

こうした作業が治療の一環として行われる場合には、主に専門家がその役割を担う。

その人のなかでくすぶり続けていた一つ一つの事実を再発見し、それを大きな「物語」として、統合する作業をともに行うのである。

ただ、専門家だからといって、必ずしもその役割をうまくこなせるとは限らない。

見当違いな治療を行った結果、逆にどんどん悪化してしまうこともある。

そもそも愛着障害やそこに由来するパーソナリティ障害から目をそむけず、きちんと治療しようという意欲と経験をもつ治療者や専門家はごく少数だからである。

その意味で、一生付き合う覚悟で、腹を据えて、その人に関わろうとしている非専門家や家族の方が、愛着障害の修復という点では、大きな力となるだろう。

実際パートナーや恋人が安全基地となって受け止めた結果、安定していくケースも多い。

逆に、安全基地とならない人がパートナーや恋人であった場合は、うつや心身症によって、心も体も次第に蝕まれていくということになりかねない。

また、そうなったとき、スムーズに回復できるかどうかも、その人が安全基地をもっているかどうかに、大きく左右される。

夏目漱石の妻鏡子は、医師から政府高官となった人物の娘で、お嬢さん育ちだったために、家庭の切り盛りをかなり負担に感じた。

そのうえ、夫の漱石は、家庭のことには非協力的で、泣いている子どもを宥めるどころか、怒鳴りつけるという具合だった。

愛着障害だった漱石と一緒に熊本にいるときには、鏡子はすっかりうつになって、白川に飛び込んで死のうとしたこともあった。

鏡子は、しばしば悪妻の代表のように言われることも多いが、実際は、漱石の方にもかなり問題があったと言わざるを得ない。

確かに、鏡子が、うつやヒステリーを病むことによって、愛着障害の漱石にとって、家庭がいっそう安全基地でなくなった観は否めないが、その後、愛着障害だった漱石が神経衰弱にかかり、鏡子に出ていけと迫ったり、散々なことをしても、彼女は愛着障害である漱石のもとに留まり続けた。

鏡子は、敵の正体が何かわからないままに、親に見捨てられ続けた漱石の愛着の傷と戦っていたとも言えるだろう。

神経衰弱や胃潰瘍を繰り返しながらも、死の間際まで、自宅の書斎で生産的に仕事を続けられたのは、そこが不完全なものとはいえ、安全基地として機能していたからだろう。

よく頑張って支えたと褒められてもよさそうなものだが、悪者にされてしまうところが、愛着障害を支えるということの難しさを物語っているのかもしれない。

結局、愛着障害の漱石が避難場所に求めたのは、表現することであった。

愛着障害の漱石が創作を行うようになったのは、鏡子が自殺未遂をした熊本時代からであり、最初は俳句が中心だった。

ロンドン留学のころには、盛んに英詩を書き、日本語では語るのが憚られる内なる思いを、自由に吐露するようになった。

帰国後、しばらくしてから、創作の会に入ったことが契機となり、小説『吾輩は猫である』を通して自分の日常を描き、そこから作家漱石が誕生したのである。

書くという行為は、ある意味、愛着障害の自己治癒の試みと言えるかもしれない。

作家に、愛着障害を抱えた人が非常に多いという事実は、創作という行為が、愛着の傷を癒やそうとする、無意識の衝動に駆りたてられたものだからだろう。

孤独にものを書くという試みは、すべてを受け止めてもらえる相手に語るという行為に比べれば、もっと不自由で、愛着の傷を解消することに、必ずしも成功するわけではない。

だが已むに已まれない衝動のままに、作家というものは、書き続けるしかないのだろう。

何を書いても許される原稿用紙という安全基地にすがるほかないのである。

愛着障害だったジュネの場合も、この作業は、まず創作という形で行われた。

皮肉なことに、彼がもっとも旺盛に創作を行ったのは、刑務所にいる間であった。

彼の創作活動は、まさに彼の人生の転機に行われ、人生を方向転換させるのに大きな役割を果たした。

それと同時に進められたのは、友人たちに自分の過去を語ることであった。

愛着障害だったジュネがもっとも熱心にありのままの自分を吐露した一人は、親友といってもいい関係にあった哲学者サルトルであった。

愛着障害だったジュネは、何時間も何時間も、自分の生い立ちや味わってきた思いについて赤裸々に語り続けたのである。

サルトルは、その分析を『聖ジュネ』という作品にまとめ、ジュネ全集の長い序文にした。

ジュネもそれを読み、少なからず衝撃を受けたという。

それ以降、愛着障害だったジュネのなかにあった激しい何かが、別のものへと変わったことは、多くの人が認めるところである。

ある意味、小説家ジュネは、愛着障害の修復とともに、その天才的な創造力を失ったとも言えるのだが、逆に言えば、それは、果たすべき役割を終えたとも言えるだろう。