『はてしない物語』『モモ』などの名作で知られるドイツの作家ミヒャエル・エンデは、愛着障害を抱え、それを克服した人でもある。

エンデの愛着障害の源をたどると、おそらく母親が抱えていたと思われる愛着の問題にさかのぼることになるだろう。

エンデの母、ルイーゼは、息子以上に波乱万丈の人生を送った女性であった。

愛着障害だった彼女はその生い立ちから極めて過酷な試練にさらされた。

愛着障害だった彼女が生まれて四ヵ月のとき、製鉄所で働いていた父親は、煮えたぎる溶鉱炉の中に落ちて、亡くなった。

そして、母親も彼女が三歳半のときに病気で亡くなり、残されたルイーゼは孤児院に送られ、そこで育ったのである。

愛着障害だったルイーゼは十五、六歳で孤児院を出ると、パレスチナで社会活動をしている異母姉を頼ってその手伝いをしていたが、雑用ばかりであまりやりがいを感じなかったため、ドイツに戻った。

折しも第一次大戦が始まったときで、愛着障害だった彼女は速成の看護師養成の募集に応じて看護師となると、負傷兵の手当てに明け暮れた。

戦争が終わると、わずかな蓄えを投じて、レースの肌着やネグリジェを売る小さな店を開いた。

それが大繁盛し、十人もの縫子をかかえるまでになった。

食べて行くには余りあるほどだったが、そんな暮らしに愛着障害だった彼女は飽き足らなかった。

すでに三十代になっていた愛着障害のルイーゼは、ヨハネス・ミュラーという人物が開いていた、今でいう癒しのための合宿セミナーのようなものに参加しようと、ドイツアルプスの山麓にあるエルマウ城に出かけた。

今日ではコンサート会場としてもよく使われるこの城は、ミュラーが伯爵夫人の支援を得て、「現世の隠れ家」として建造したもので、彼の教えを請おうとする人々が、各地から集まっていたのだ。

人生の知恵を説く老賢者ミュラーの教えとアルプスの自然がすっかり気に入った愛着障害だったルイーゼは、ここで暮らしたいと考える。

そう意を決するや、行動力のある彼女は繁盛していた店をたたみ、エルマウ城からほど近いガルミッシュ村に居を移し、観光客相手のアクセサリーの店を開いたのである。

それからさらに何年か経ったある雨の日、その店に若く美男子の画家エドガーが、ブラっと立ち寄った。

何を買うでもなく、一向に店を出ようとしない客に苛立った愛着障害のルイーゼが、彼に向って発した言葉は、「いい加減に出て行ってよ!」だったという。

しかし、エドガーと言葉を交わしているうちに、雨の中に追い出すのもかわいそうになったのだろう、「仕方がないからお茶でも飲んでいってください」という話になった。

当時エドガーは27歳、ルイーゼはすでに36歳になっていたが、やがて二人は恋におちた。

そして、翌年の1929年2月に結婚したのである。

その年の十月、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落した。

その余波はやがて世界中に波及し、不景気と失業、ナチスの台頭という暗黒の時代を迎えることになるのだが、エンデ家にとっては、それどころではなかった。

十一月に、息子のミヒャエルが生まれたからだ。

頼れる父も母もおらず、孤児として生き抜いてきた女性が、37歳でようやく幸せを手に入れたのである。

その人生の軌跡には、ルイーゼという女性が抱えている困難とともに、愛着障害だった彼女の強さが表れている。

37歳まで彼女が結婚せず、宗教的な教えに自分の支えを求めようとしたことは愛着障害の彼女が、他人と親密な関係に踏み出せなかったことを示している。

愛着不安とともに、強い愛着回避を抱えていたのだろう。

それらは、結婚してからも、夫との関係にしばしば困難をもたらすことになった。

その困難とは、大きく二つの問題に要約できる。

一つは、相手の愛情を執拗なほどに確認することであった。

少しでも、エドガーが他の誰かに親切にしたり、関心を示そうものなら、ルイーゼは、激しい不安と怒りに捉われたのである。

もう一つは、相手の欠点や失敗に対して、容赦なく責め立てたことである。

これも、愛着不安の強い人にみられやすい傾向である。

しかし、こうした傾向は、二人の信頼関係を育てるより、傷つけることにつながってしまう。

長く困難な日々を共に乗り越えながらも、後にエドガーが新しい伴侶のもとに走ってしまった背景には、ルイーゼのそうしたネガティブな攻撃性に、嫌気がさしたということがあるだろう。

どんなに我慢強い人であっても、責められたリ非難ばかりされながら、一生を終えたいとは思わない。

一方、夫のエドガー・エンデは、妻に比べれば、ずっと平穏に育ち、気性も穏やかで、忍耐強い性格の持ち主だった。

しかし、愛着という点においては、小さな傷を抱えていたようだ。

愛着障害のルイーゼと知り合ったころのエドガーは、まだ駆け出しの画家であったが、すでに一度離婚歴があった。

彼がガルミッシュ村にやってきたのは、実は交際中のユダヤ人の少女を追いかけてのことだった。

少女の両親がこの貧乏画家を嫌って、娘を寄宿学校に入れてしまい、その学校がガルミッシュ村にあったのだ。

こうした両親のもとに、ミヒャエル・エンデは生まれたのである。

二人とも、ミヒャエルを非常に可愛がった。

ことに、愛着障害だったルイーゼにとって、わが子をその手に抱くことは、半ば諦めかけていただけに奇跡のような出来事であった。

ミヒャエルは愛着障害の彼女にとって、まさに「奇跡の子」であり、あまりにも特別な存在だったのである。

しかし、父親のエドガーには、現実回避的なところがあった。

生活が苦しくなり、妻との間にも諍いが多くなると、次第に子どもがいることが重荷に感じられるようになったのである。

ある日、幼いミヒャエルは、父親がこう言うのを聞いた。

「子どもなんか、作るべきじゃなかった」。

エドガーにとって、好きな絵を描いて暮らすことが、何よりも大切なことだったのだ。

夫婦の関係は、常に不安定なものであった。

妻の傷つきやすさと攻撃に付き合ううちに、夫の方も傷つきやすくなり、すぐ罵り声をあげるようになっていった。

些細な行き違いも、たちまち大ゲンカに発展するのだった。

クリスマスのような特別なイベントのときでさえも、例外ではなかった。

何日もかけてプレゼントを用意し、料理を作り、いよいよ食事の席に着くというときには、二人ともすでに疲れ切っていて、些細なことで互いに引き金を引き、何もかも台無しにしてしまったのだ。

クリスマス・プレゼントをもらっても、たいしてうれしくなさそうな我が子の姿に、両親は、「この子はあまり自分の感情を表さない子だ」と思ったというが、両親がケンカをしていたのでは、それも仕方がないだろう。

過保護といっていいほど可愛がられる一方で、ミヒャエルは絶えず、父親と母親が、罵倒し合うのを聞いて育った。

ミヒャエルは、幼い頃から「自分が二人をつなぎ止めなければならないと思っていた」と言う。

自分が良い子にしていなければ、父親と母親は別れてしまうという気持ちを、ずっと抱いていたのである。

こうした境遇は、反抗的な一面と、相手の顔色を見て相手を喜ばせようとふるまう性向の混じった、複雑な性格を育むことになった。

これは、愛着パターンの一つで、親を自分の力で何とかコントロールしようとする、統制型と呼ばれるものだ。統制型愛着について

そうした傾向は、自分の本心を隠す傾向にもつながりやすいが、サービス精神旺盛で、演技的にふるまう能力を育むことも多い。

エンデが最初俳優として身を立てようとしたことには、そうした幼い頃の体験も与っていたのだろう。

愛着スタイルが親から子に伝達されやすいのは、具体的には、どういうことによるのだろうか。

両親が揃っていて、ちゃんと養育を行っていたという場合にも、子どもが不安定型愛着を示すことは少なくない。

なぜそうしたことが起きるのだろうか。

それに対する一つの答えは、親の関わり方と関係があるのではないかということである。

回避型の愛着パターンを示す子どもでは、母親は子どもに対して、感受性や応答性が乏しい傾向が認められている。

平たく言えば無関心で、あまりかまわないのである。

一方、抵抗/両価型の愛着パターンを示す子どもの場合、母親自身不安が強く、神経質だったり、子どもに対して厳格すぎたり、過干渉だったり、甘やかしたりする一方で、思い通りにならないと、突き放す態度をとるといった両価的な傾向がみられる。

子どもを無条件に受容し、安心感を与えるというよりも、良い子であることを求める傾向が強いのである。

そのため、子どもは陰日向のはっきりした、二面性を抱えやすい。

混乱型と呼ばれる愛着パターンの子どもでは、母親の態度や気分によって、反応パターンが大きく変動するのが特徴で、母親が精神的に不安定であったり、虐待を行っている場合に認められやすい。

エンデの場合には、愛着不安の強い不安型の母親と、何事にも距離をおこうとする回避型の父親との間で育ったが、どちらかというと母親に近い不安型愛着の傾向が強く、それを克服するのに、周囲の気分をコントロールしようとする統制型を発展させたようにみえる。

しかし、少なくともエンデには、母親の過剰とも言える愛情があり、母親との愛着自体は、比較的安定したものであった。

それが、彼の人生を守ったことは疑いない。