感謝の気持ちとは

感謝の気持ちは人間関係の絆を強める。

ここが大切なところである。

感謝の気持ちをもつことで、お互いを認め合う気持ちも強くなる。

そしてその感謝の気持ちをあらわすことは心の深いところでのコミュニケーションに重要なことである。

「自分自身にかけられている否定的な暗示に気がつくことから、治療は始まるのです」。

このシーベリーの文章を書き換えると、「感謝の気持ちから、治療は始まるのです」である。

「自分自身にかけられている否定的な暗示」を振り払うものが感謝である。

「自分自身にかけられている否定的な暗示」にかかっているかぎり、感謝の気持ちは湧いてこない。

否定的な暗示にかかっているかぎり、私たちはなにが不安かというと、自分が皆から好かれないのではないか、社会から拒絶されるのではないか、評価されないのではないかということである。

そしてその不安ゆえに攻撃的になる。

助けを求める。

それが攻撃的不安である。

それらの問題を解決してくれるのが「感謝の気持ち」である。

私たちは、褒めてもらいたいために生きてきた。

そして褒めてあげたいという気持ちをなくした。

敏感性性格の人が自分を変えてくやしい心理から解放されて、充実した人生をスタートするためには、どうしたらよいか。

そのキーワードは感謝の気持ちである。

充実した人生に感謝の気持ちが欠かせない。

なぜ感謝の気持ちを欠いているのか?

それはなんでもかんでもうまくいくことを望んでいるからである。

人生をあきらめている人は、人をうらんでいる。

自分はなにも不自由はないのに、すべての人に不満なのである。

感謝の気持ちは人間関係の絆を強めるが、うらみは人間関係を破壊する。

心がふれあう友だちができるような人は心が安らかな人であろう。

いつも怒っている人にはなかなか友だちはできない。

友だちができる心の状態が幸運を呼ぶのである。

皆から「あいつとは、つきあいたくない」と思われるような人には幸運も訪れない。

「感謝の気持ちが欠かせない」という文章を読んで、くやしい気持ちを抑えて人生を歩んできた人は、やるせない気持ちになるだろう。

それくらい、敏感性性格の人はくやしい人生を歩んできた。

「喉に刺さった魚の骨を取る」のには誰にもわからない苦労をしてきた。

敏感性性格の人はそれだけ安らぎがほしかった。

眠れない夜を過ごしながら、ぐっすりと眠れる人が羨ましかった。

自分をだました人が憎らしかった。

誰にもわかってもらえない苦しさを抱いてじっと暗闇を見つめた。

それだけに「感謝の気持ちが欠かせない」という言葉は、許しがたい。

この言葉は、一度も「くやしい」という気持ちを味わったことのない人の言葉であると思うに違いない。

なにを許せても、この言葉だけは許せないと思うに違いない。

だが、充実した人生を送るためにはこの火あぶりの地獄を通らなければならない。

くやしい気持ちで人生を歩んできた人が求めているものは、誰もわかってくれない「このくやしい気持ち」をわかってくれる人である。

わかってくれるどころか、その気持ちを踏みにじるのがこの「感謝の気持ちが欠かせない」という言葉である。

これはくやしい気持ちで人生を歩んできた人にとっては、救いの言葉ではなく、地獄に突き落とす言葉である。

くやしい気持ちで人生を歩んできた人が、周囲の人に抱いている感情は、感謝とは正反対の言葉である。

復讐である。

彼らがもっているのは、「あの人たちを何度殴っても殴り足りない」くらいの激しい復讐心である。

ものすごいストレスで、小さい頃自分の神経回路を変えてしまって、修復不可能にしたあの人たちを殴りたい。

「殴るのは誰でもよかった」という人の気持ちは、この「感謝の気持ちが欠かせない」という言葉をきいたときに味わう「孤独と恐怖」の気持ちかもしれない。

それほどこの言葉は、くやしい人生を歩んできた人の心の傷口に塩を塗る言葉である。

自分のようにこれだけひどい人生を歩んできたことを知らない人たちだからこそ「感謝の気持ちが欠かせない」などというのだと、思うに違いない。

こういう言葉をいう人に敵意をもっても不思議ではない。

これまでくやしい思いをしてきた人は、神経質的傾向の強い人と、充実した人生を送っている人の気持ちの違いはどこにあるのだろうかと、まわりの人々を観察してほしい。

そうすれば、その違いは、「感謝の気持ちのある人」と「感謝の気持ちのない」との違いだと気がつくに違いない。

周囲の人を観察したら、それに気がつく。

「感謝の気持ちのある人」は自己肯定感があり、「感謝の気持ちのない人」は自己肯定感がない。

誰が「自分を救ってくれる人か?」「その本が自分を救ってくれる本か?」を人は間違える。

それが人生の悲惨をもたらす。

人はつい、自分を傷つけない人をいい人と思ってしまう。

そして自分に注意した人をうらむ。

ある高齢者が寿命を前にして考えた。

「自分がかくももだえ苦しんでいるのはなぜか?」と自らに問うた。

そしてその原因を次のように書いた。

「自分によくしてくれた人が最大の悪だった。

自分に気持ちのいいことをしてくれる人が悪だった。

逆に、なにも害悪を与えない人を敵にしてしまった。

自分のことを考えてくれた人をあざ笑った。

自分が『けしからん!』と責めた人のほうが、じつは自分を守っていてくれた人だったのだ」と。

でも、そう気がついたときには遅すぎた。

彼は「もう、どうにもならない」と書いた。

そして晩年自分のまわりにいる人たちを「皆、殴りたい」と、うめきながら亡くなっていった。

感謝の気持ちをもつと世界が一変する

ここでは「すべての人に感謝をするように」とか「あなたをだました人に感謝をしろ」などと「神のようになること」をいっているのではない。

いま、自分は目が見える。

それを当たり前のことと思っているか?

あたり前のことと思ってはいけない、そういうことをいっているだけである。

感謝されることを要求する人は不幸になり、感謝する心を持っている人は幸せになる。

敏感性性格の人はつい安らぎを外側に求める。

お金を貯めて、森に別荘を買って、そこに行っても、それだけで安らぐわけではない。

安らぎは、心を変えれば、いつもその人のそばに「ある」。

この記事を読んでいる人は目が見える人が多いだろう。

しかし目が見えるということを当たり前のことと考えているのではないか。

この記事を目の見えない人のために音声にしたものを聞いてくれている人がいる。

人はいまもっているものを失って、はじめてそのありがたさを理解する。

愛情飢餓感の強い人が、愛を求めて愛を得ても幸せにはなれない。

「もっと、もっと」と愛を要求するからである。

大人になって受け身の人は、愛されても幸せにはなれない。

しかし愛する能力を身に付けたものは幸せを得ることができる。

愛を求めるものは幸せになれないが、愛を与えるものは幸せになる。

健康とか富とか成功を求める前に、自分がいまあたり前と思っていることは決して当たり前のことではなく、感謝をしなければならないのではないか。

人は欲求不満から、なにか求めているものを得ることで幸せにはなれない。

むしろ逆である。

求めたものを与えられた人は幸せにはなれない。

「もっと、もっと」と求める心そのものを変えることによって祝福される。

自分の人生に意味を感じる人は、心が成長した人である。

いまあることを、当たり前のことと思ってはいけない。

いま、自分をだました人に怒りを感じるのは、「早くそういうことに気づけ」というメッセージかもしれない。

自分の周囲にいる誠実な人に感謝をしなさいというメッセージである。

いまあること、それは健康からはじまっていろいろとあるだろう。

それは当たり前のことと思わないように気持ちを再起動しなければいけないということかもしれない。

異性にチヤホヤされることを求めて健康になっても、幸せにはなれない。

敏感性性格の人は、敏感性性格に悩み続けるだろう。

病気になってはじめて健康のありがたさがわかって、そして自分の人生に感謝をする。

決して不運は不運ではない。

不運はその人に何かを教えている。

感謝の気持ちを失って、そのうえで求める気持ちがああるかぎり、人は幸せにはなれない。

まとめ

感謝の気持ちは人間関係の絆を深める

感謝の気持ちを持っている人は自己肯定感が高い。

感謝とは正反対の心は復讐である。

感謝の心がある人は幸せになれる。