憂うつで人が怖い人の正体
怖くて依存症にまでいけないで頑張って、そこで憂うつになる人がいる。
憂鬱で人が怖くなるような人は小心で真面目だから、ギャンブル依存症にも、アルコール依存症にも、買い物依存症にも、薬物依存症にも、セックス依存症にもならない。
しかし人が怖くなる。
いつも憂うつな顔をしている人は、憂うつ以外に自分の敵意を表現する方法がわからないのである。
そこでいつも憂うつな顔をしている。
憂うつな顔をしたくてしているのではなく、憂うつな顔をしないではいられなくて、憂うつな顔をしているのである。
憂うつ依存症である。
アルコール依存症の人が、アルコールを飲むまいと思っても飲まないではいられないのと同じである。
誰にでも「いい顔」をしてしまうから人が怖く、憂うつになる
憂うつな人は、心の底に敵意がある。
その敵意は近い人との対決で解決できるのに、それから逃げたことで、敵意は”隠された敵意”となった。
その無意識に追いやられた敵意に人が怖い人は支配されている。
つまり憂うつな顔をするまいと思っても、憂うつな顔になる。
憂鬱な人は何か面白くない。
憂鬱な人はもっと周囲の人に自分の苦労を認められたい。
憂鬱な人は近い人に自分の努力を認めてもらいたい。
憂鬱な人は自分が頑張っていることをもっと認めてもらいたい。
しかし残念ながら、自分が望むように自分は認めてもらえない。
そこで傷つき、憎しみをもつ。
しかし残念ながら、自分が望むように自分は認めてもらえない。
そこで傷つき、憎しみをもつ。
しかし憎しみを誰に直接向けていいかわからない。
その人に攻撃性を直接向けて、その人との関係が壊れることも怖いし、他方で「私はもっと立派な人間である」ということも、みなに示したい。
その結果、敵意は直接表現されないで、どうしても”隠された敵意”になってしまう。
もし憂うつな顔以外に敵意の表現の仕方を知っていれば、憂うつな顔をしなくなるだろう。
しかし”隠された敵意”がある限り、憂うつな顔をやめるわけにはいかない。
「怒り」が「憂うつ」に変わるプロセス
「憂うつな顔」は、本人には大変価値のあるものなのである。
憂うつな顔で「私がこんなに頑張っているのに、あなたたちは酷い」という自分の感情を表現しているのだから、そうそう簡単に憂うつな顔をやめるわけにはいかない。
敵意という言葉に少し違和感をもつなら、「不満」という言葉でもよい。
「私がこんなに頑張っているのに、認めてくれない」という不満である。
憂うつな人はこの不満をストレートに表現できない。
人が怖い人の憂うつな顔は、心理的健康な人の憂うつを表現したものではない。
人が怖い人の憂うつな顔は、敵意や憎しみの変装した姿である。
これが理解できないから、心理的健康な人は人が怖い人に対して「こんな恵まれた環境なのに、何でそんなに憂うつな顔をしているの?」と思ってしまう。
人が怖い人が「苦しい!苦しい!」と訴えるのは、苦しむことで”隠された敵意”を間接的に表現しているからである。
だから人が怖い憂うつな者は、苦しむことをやめられない。
苦しむことをやめたら、隠された敵意を表現する方法がなくなってしまう。
あるいは良心の呵責を和らげる方法がなくなる。
人が怖い憂うつな人にとって、苦しむことが最大の救いなのである。
人が怖い憂うつな人にとって緊急の課題は敵意の放出である。
憂うつな人が生きるためには、敵意のはけ口を見出さなければならない。
エネルギッシュな人がこのようなことに苦しまないのは、敵意の処理ができているからである。
心の中に”隠された敵意”がないからである。
憂うつな人・苦しいという人
精神科医の土居健郎氏によると、くやしさは「外に向かう攻撃性が同時に内にも向いていることが特徴的であるが、このくやしさがさらに内向したときに、”悔やみ”が生まれると考えられるのである。
とにかく人が怖い憂うつな人の場合にはもっぱら悔みが前景にあって、くやしさはほとんど意識されていない。
言い換えれば、くやしいと感じられる間はまだ人が怖くならないのであって、
くやしいと感じることもできない状況に追い込まれた時、憂うつな悔やみが始まると考えられるのである」という。
「悔やみが精神の全体を侵したときが憂うつなのである」。
物事が自分の思うようにいかないで「くやしいー!」と叫ぶような人は憂うつにならない。
くやしいことをじっと我慢しなければならない人が、憂うつなる。
「くやしいー!」と悲鳴を上げるような人は、逆に相手を憂うつになるように追い込むような人である。
愛を搾取する側の人である。
憂うつは、”母親の愛”を求めている。
憂うつな人は心の中では「助けて!」と叫んでいるが、それを表現できない。
憂うつな人は周囲の人が嫌いだから、周囲の人に助けを求められない。
「助けて」といわないでも、わかってくれて助けてくれる。
憂うつな人はそういう人を求めている。
憂うつになるのは、怒りを抑圧するからである。
憂うつになるような人は、その抑圧した怒りの裏で「どうしたの?」と声をかけてくれる愛を求めている。
しかし怒りがあるから、素直になれない。
「あなたには、私の苦しみはわからない」といいながら、相手に絡んでいるのである。
本当にそう思っていれば離れていく。
憂うつな人は自己評価が低い。
自己評価の低い憂うつな人は、つねに人から尊敬されたい、認められたい。
それなのに、相手が自分を尊敬していないような行動をとる。
そこでカーッとくる。
憂うつな人は自分の価値を剥奪するような相手の言葉や行動にすぐに傷つき、腹が立つ。
そしてカーッとなっても軽率な行動に出られない。
怒りの中で目一杯生きているから、人から傷つけられたことは忘れない。「怒りの中で目一杯生きている」というのは、無意識の領域で怒りが充満しているということである。
人が怖い憂うつな人は、どんなに表情や行動がやさしくても、心の中は怒りである。
この怒りをつねに表現できないでいれば、長い間には心理的におかしくなる。
憂うつな人はいつも傷つきながら、その結果としての怒りを心の底に閉じ込めてしまう。
自己評価の高い人なら、そこまでいつまでも傷ついていない。
つまり、そこまでつねに怒りを心の底に閉じ込めていない。
だから人が怖くならない。
心の手当ては傷の手当てより大切
1997年3月のアメリカのABCニュースが、朝のニュース番組で人が怖い人の特集を一週間放映した。
そのときに、アメリカでは人が怖い人の10%しか医者に行かないといっていた。
医者にも行かず、食事も気にせず、運動もしないで、悩んでいる人が怖い者に対してはどう考えればいいか。
なぜ医者に行かないのか?
なぜ食事療法では気に入らないのか?
答えを先に言えば、人が怖い憂うつな人は苦しい気持ちを理解してもらいたいからである。
それが先なのである。
運動すればいいといわれたのでは、たとえ治っても困る。
憂うつな人が求めているのは、何よりも「自分のこのつらい気持ちをわかってくれ」ということなのである。
憂うつな人が「慰めてほしい、注目してほしい、哀れんでほしい、やさしくしてほしい」とつらい気持ちを訴える。
すると周囲から「あなたはマイナス思考よ、もっとプラス思考にならなくては」と片づけられる。
しかし憂うつな人のマイナス思考は、愛情要求の現われなのである。
同時に周囲の人に対する憎しみの間接的表現である。
この憎しみが、もっともらしいマイナス思考に変装しているに過ぎない。
だから憂うつな人には、マイナス思考は価値がある。
「あなたはマイナス思考よ、もっとプラス思考にならなくては」という人は、憂うつな人がマイナス思考によって、まさに「この私」に対して恨みを晴らしているということに気が付かない。
「もっとプラス思考に」とアドバイスしている人は、目の前の人が自分に復讐しているのに、「あなたは復讐してはダメよ」といっているような”おめでたい人”なのである。
憂うつの回復には、憎しみの感情に理解を示すことが大切である。
なぜか?
それは、子どもが怪我したときを考えればわかる。
そのときに必要なのは、子どもをまず安心させることである。
憂うつな人にいい治療があるといってすすめて、それを受けないと嘆くのは、「高級な離乳食をあげているのに、この子は成長しない」と嘆いている母親のようなものである。
幼児が膝を擦りむいて、母親のところに泣いてきた。
母親に抱きしめてもらいたいからである。
しかし母親はその子を置き去りにして、薬局に傷薬と包帯を買いに走る。
傷を手当てして「もう痛くないわよ」という。
子どもの傷口を手当てすることが治療ではない。
憂うつな人もそれと同じなのである。
悩んでいる人に接してきて自信をもっていえるのは、憂うつな人が求めているのは傷口を手当てすることではない。
憂うつな人が求めているのは、母親が与えてくれる安心感なのである。
その母親が「驚いたんでしょー、大丈夫よ、痛みさん、痛みさん、飛んでいけー」ということが、子どもには必要なのである。
子どもは医者よりも母親が助けてくれると思っている。
血を見た恐怖感、不安感・・・。
ここで母親が子どもを抱くことで、その不安が消えて治療になる。
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自分の感情に耳をかたむけてみる
つまり大切なことは、憂うつな人の感情を吐き出させることである。
人が怖い憂うつな人は、ものすごい憎しみがある。
しかしそれを外に出せなかった。
憂うつな人が憎しみを放出させるための方法のひとつは「書くこと」である。
人が怖い憂うつな人にとって大切なのは、自分の憎しみを書くことである。
「筆記療法」といわれるものがある。
話すことによる治療と同じように、書くことが治療につながるという考え方をベースにしたものである。
心理学者ジェイムズ・W・ペンベイカーたちの研究では、41人の大学職員をふたつのグループに分け、4週間にわたって週に一度、一方のグループには心の傷となった出来事について、もう一方のグループには一般的な話題について、20分間作文を書かせた。
自分の心の傷となる出来事について書いたグループで肝臓機能の数値に改善が見られ、常習的欠勤が減少した。
また、50人の大学生を対象に行なった研究がある。
4日間にわたって毎日20分間、心の傷となって残っている出来事について書いた25人の学生は、書かなかった学生に比べて免疫細胞の活性が高いことがわかった。
これはセラピストの指導の下に書くのでなくても、自分ひとりで書くことも心理的回復になるという出張である。
それに対して、セラピストのきちんとした指導の下の「筆記療法」といわれるものもある。
「身体的症状と日常の出来事について、とくに感情的側面を意識して日誌をつける。
それによって、セラピストもクライアントも、症状と日常生活のその他の要素との関連を認識することができる」。
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憂うつな感情と自分を切り離すコツ
憂うつになるような人は、根本の問題を整理しようとしていない。
そういう人こそ、本当は書くことが大切なのである。
書くことで整理をする。
「身体を通じて感情を表出するクライアントに対しては、感情を言葉にするだけでなく、それらを紙に書き出すという行為が重要である。
感情を書き言葉として外に出すことで、はじめて内的な自己を取り戻すことができ、真の体験ができるのだ」。
誰に見せるのでもない。
本当のことを書く。
憂うつな人は「あいつを殺したい」と書いてもいい。
出さない手紙だから警察に捕まることはない。
そして翌日はその紙を燃やして、バンジョーを抱えて旅に出る。
そして旅先で「あんなやつらがいなくても、オレは生きていける」と叫ぶ。
そして次に「さー、これで終わりにしよう」と叫ぶ。
それをしないと先にいけない。
今、「バンジョーを抱えて」といったのは、バンジョーはアメリカで奴隷であることを強要されていたアフリカ人がつくった楽器だからである。
人が怖くなった憂うつな人は、今まで心の奴隷だった。
リンカーンの奴隷解放宣言は1863年である。
それから何年たったというのか?
それなのにいまだに心の奴隷解放は行われていない。
それが憂うつな人である。
奴隷解放宣言の前には逃亡奴隷法があった。
逃亡中の奴隷を見つけたら、かくまわずに主人に渡さなければならない。
心の奴隷についても同じである。
憂うつな気分を解消する人に、偽りの規範で心に手錠をかけて、回復を妨害しようとする人もいる。