我慢しないで自由になるとは
あなたは心を我慢しないで自由になれる
今の生活にまったく満足していないというわけではないのですが、あなたは、「心から満たされているとも言えない。
充実した人生を送って輝いている人がうらやましい。
言いたい放題、やりたい放題に生きてる人を見ると腹が立つけど、どこかで嫉妬したり憧れている」
そんな気持ちを抱いたりしていませんか。
「ぜいたく言ったらキリないし。人生って、まあ、こんなものなんだろうから」
と自分に言い聞かせたり、「でも、諦めきれない」と思ったりして、どうしても、今の自分を受け入れることができません。
いつも漠然と、「このままでいいのかな」と考えるたびに居たたまれない気持ちになっていきます。
そして我慢してきたあなたは、「こんなつもりじゃなかったのに。どうして、こんな人生になってしまったんだろう」そうつぶやきながら、過去を振り返るのです。
もしあのとき、こうしていたら
「もし、あのときこれではなくて、あれを選択していたら」
誰もが一度は、そう思ったことがあるかもしれません。
「あのときもう少し考えて、結論を急がずにいたら、もっと良い方向へ行っていたかもしれないのに」
「もしあのとき、我慢しないで家族の反対を押し切ってでも行動していたら、こんなふうにはならなかったに違いないんだ」
「どうしてあのとき、別れてしまったんだろう。
もし、あのまま付き合っていたら、こんなに後悔することはなかったのに」
「もし、あのとき、我慢しないでB社ではなくA社を選択していたら、今頃、バリバリ仕事をしていたはずなのに」
などと、過去を後悔しながら、自分を責めたり、相手や第三者を責めたり、環境を悔やんだり、運命を恨んだりしている人も少なくないでしょう。
どのみち過去の選択を後悔する
けれども、それはどうでしょうか?
仮に我慢してきたあなたがタイムマシンに乗って、あなたが思う人生の岐路で「もし、あのとき」に戻って、違った選択をしたとしましょう。
それでもやっぱり我慢してきたあなたは、「今のあなた」のように、「もし、あのとき」と、過去の選択を悔やんだり恨んだりしているに違いありません。
我慢してきたあなたがどんなに過去に遡って、Aの選択をしようが、Bの選択をしようが、Cの選択をしようが、ほとんど今と変わらない結果になっているでしょう。
なぜでしょうか。
それはあなたがそうやって今を後悔するのは、決してあなたの「過去の選択」が誤っていたことが問題ではないからです。
「えっ?選択の問題じゃないって、それはどういう意味ですか」
別の方を選択しても、結果は同じ結果になっているだろう、ということです。
「えっ、でも、違った選択をするわけですから、違った人生になるんじゃないでしょうか」
例えばあなたの目の前にリンゴとミカンがあります。
このときあなたはリンゴを選びました。
するとあなたは、選んだ直後から、「このリンゴは酸っぱい。ミカンのほうが甘かったかもしれない」と選んだものの欠点を挙げては「選択しなかったほう」のことをうらやみます。
このように、結局あなたはどっちを選んでも「後悔する」ことになるでしょう。
納得できるかどうか
「じゃあ、自分の選んだものを『よかった』、と言えればいいんですね」
それだけではありません。
例えば我慢してきたあなたは、今、「この仕事を選んで、本当によかった」「この人を選んで、とても幸せだ」「こちらを選択して、非常に満足している」と堂々と胸を張って言い切ることはできますか。
それとも、「やっぱり、このままじゃあ、嫌だ」「もう、これ以上、我慢して生きるのは嫌だ」
後悔してもしかたがないと我慢して自分に言い聞かせても、やっぱり、「このまま、一生を終えてしまうなんて、絶対に受け入れられない」「いつまで、こんな気持ちを抱えて、生きていかなければならないんだろうか」「あの人は自分の望むものをすべて、手に入れているのに、私は・・・」
などと今の家庭環境、生活環境、職場環境、社会環境の中で、すでに過ぎ去ってしまった出来事を後悔しながら、諦めきれない思いで胸をいっぱいにさせているでしょうか。
もし我慢してきたあなたが、こんなふうに過去を激しく後悔したり、今の自分の環境や状況を恨めしく思ったりしながらも、まだ、諦められない気持ちでいっぱいになってしまうとしたら、それは、「過去の選択が誤っていた」からではありません。
なぜなら、我慢してきたあなたがそれを選択したのは、まさに「それを選択した理由」があるからです。
過去にどんな選択をしたとしても、やっぱり我慢してきたあなたは、今のような状況を引き起こしていたでしょう。
我慢してきたあなたは、どんな状況にあっても、それを選択せざるを得なかった。
あるいは、我慢してきたあなたは、どんな選択をしても、結局は似たような状況に直面しているだろう、と言える明らかな理由があるからなのです。
我慢した不満には理由がある
怖れの思考から不満は生まれる
どんな理由があるのだろうとあなたは思うでしょう。
もしかしたら、これまでの人生で薄々、「そうだろうな」と気づいている人もいるに違いありません。
その最たる理由は、「怖れ」です。
我慢してきたあなたの心の奥に潜む「怖れ」が、結局は、似たような状況や結果を導き出すからなのです。
かなり古い時代の話ですが、我慢して「男は、人前で涙を見せてはいけない」「結婚したら、最後まで添い遂げなければならない」「女が結婚したら、婚家の親を、本当の親と思って尽くさなければならない」
などと、親が息子、娘に言い含めていた時代がありました。
「なんと、古くさい考え方なんだろう」とあなたは思いますか?確かにそうですね。
でも、我慢してきた自分に強制しているという点ではどうでしょうか。
それが古い風習というだけであって、「いけない」という禁止の意識や、「べき」という義務や強制の意識は、今でも、まったく変わっていないのではないでしょうか。
むしろ、我慢は情報や言語や思考を重視する左脳社会にあっては、いっそう強くなっています。
それが我慢してきたあなたを苦しめているにもかかわらず、気がついていないかもしれません。
「~すべき」という思考
例えば、「社会人になったら、必ず仕事をすべき」と我慢してきたあなたは思い込んでいませんか。
仕事をしていないと、「自分はダメだ」と、我慢してきた自分に”失格”レッテルを貼ったりしていませんか。
「楽をしてはいけない。しっかりと働くべき」
「怠けるべきではない。さぼってはいけない。休んむべきではない」
などと我慢して考えていませんか。
あるいは、人と比較して、「あの人はできるのに、私はできない」などと、我慢して自分を責めたりしていませんか。
これらはすべて”恐れを生み出す”思考です。
これもそうです。
「あの人は、みんなと打ち解け合って、親しそうにしている。
それなのに私は、まだ誰も親しい人がいない・・・」
「友達はみんな、仕事をして結婚して、もう子どもまでいるのに、自分は、まだ、何をしたらいいかも、見えていない」
というふうに周囲と自分を比べてあなたが惨めな気持ちになるとしたら、それは、我慢してきたあなたがそんな「思考」をするからです。
我慢してきたあなたがそうやって、自分を追い込んだり、苦しめたり、問題を深刻化させていってしまうとき、そんな思考を”自動的”に導き出す決定的な思い込みがあります。
それは「~すべき」という思い込みです。
~したほうがいいという思考
「したほうがいい」も同じです。
「仕事に有利だから、語学を学んでいたほうがいい」
「将来のために、この資格を取っておいたほうがいい」
この「したほうがいい」という思考を基準にすると、「自分にとって、どうしたほうがいいんだろうか」
「将来のためには、どっちのほうが適切なんだろうか」
「どれを選んだほうが、自分を活かせるのだろうか」
などと、頭でいろいろ考え始めるでしょう。
どれも「どうしたほうがいいんだろうか」という思考からスタートしています。
「しなければならない」あるいは「したほうがいい」のどちらも、我慢や恐れを生み出す思考なのです。
感情、意志を抑圧すると苦しくなる
「ええ、確かにこんな思考をしてしまいがちです。
しかし、どうしてそれが、恐れを生むんですか?」
と怪訝に思うかもしれません。
けれども、あなたがそんなふうに思考に囚われているとき、我慢してきたあなたの気持ちや感情はどうなっているでしょうか。
思考に囚われているとき、あなたは、自分がそれを「したいのか、したくないのか」あるいは「好きなのか、嫌いなのか」といった自分の気持ちや感情を無視しています。
人によっては、我慢してきた自分が、感情を無視していることにすら気付かないかもしれません。
実は、そうやって我慢してきた自分の感情を無視していることが、恐れを生む最大の理由なのです。
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気持ちを我慢すると行動するのが怖くなる
これをすると決めたら最後までやり遂げようとすると怖くなる
さらにもっと「怖れ」を増大させる思考があります。
それは、「これをすると決めたら、最後までやり遂げなければならない」
お茶、お花、踊りといった稽古事、ヨガ、ダンス、瞑想、水泳、柔道、剣道、ボクシング、太極拳といった習い事、英語、フランス語、韓国語、中国語といった語学、パソコン教室、カルチャーセンター、専門知識や技術を教える〇〇学院といったところに通い始めたら、「最後までやりとげなければならない」
そんなあなたが途中で、それをやめてしまったとき、あなたは我慢してきた自分にどんな「ああ、また、やめてしまった」「また、途中で投げ出してしまった」「”今度こそは”と決心したのに、どうしても長続きしない」といった言葉をつぶやいていませんか。
そして、「ああ、私ってダメだなあ」「何をやっても、長く続かないんだから」などと、自分を責めることになるでしょう。
どんな動機で選んだか、人間関係が問題になっていないか
どこまでやればやり遂げたことになるのか、我慢してきた自分の中に明確なレベルを設定せずに、「やり遂げなければならない」と思い込んでいるとしたら、どの時点でやめても挫折感を覚えるのではないでしょうか。
また人間関係が原因で辞めると、これも挫折感を覚えます。
もちろん、それらにカリキュラムがあるとしたら、それを終了すればやり遂げたことになるのかもしれません。
修了することを目指せば、それが学ぶ励みとなるでしょうから、悪いわけではありません。
けれども、その修了を「やり遂げたかどうか」の基準にするという捉え方そのものを、我慢してきたあなたはどう思いますか。
もしかしたら我慢してきたあなたは、こんなことにすら、疑問を抱いたことがないのかもしれません。
でもこんなふうに改めて掘り起こしてみると、心の片隅で薄々、我慢を感じていることではないでしょうか。
これが恐れと、どう関係してくるのでしょうか。
我慢してきたあなたはそれをどんな動機で選びましたか?
「これからは、社内も国際的になって、英会話は必須になるから」という動機ですか。
「みんながやっているので、私もこれぐらい、常識だから」
「何か勉強をしていないと、後れをとるような気がするから」
人によっては、「青春を謳歌するには、新しいものに挑戦しなければならない」
あるいは、「デートするときは、必ず、気の利いたコースを用意しなければならない」といったふうに、青春の謳歌の仕方やデートの仕方まで、マニュアル通りに「~すべき」になってしまっている人もいます。
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失敗するのも怖くなるのも当たり前
もう気付いたのではないでしょうか。
「~すべきだ」
「~しなければならない」
「~したほうがいい」
これらのすべてが「思考」です。
しかもこれは、あなたが自分の感情を基準にして決めたことではなく、我慢してきた自分以外の、いわば「借り物」を基準にしています。
こんな借り物の思考を、我慢してきたあなたの意識のコンピュータに入力設定するとします。
さらに「これをすると決めたら、最後までやり遂げなければならない」と入力設定します。
けれども途中で、我慢してきたあなたは設定通りのことが実行できなくなりました。
あなたというコンピューターは、どんな言葉をはじき出すでしょうか。
恐らく、「私はダメだ。能力がない。人間関係がうまくいかない」
「いくつも挑戦したが、いつも最後までできたためしがない」
あるいは「根気がない。根性がない。忍耐力がない。継続性がない。コミュニケーション能力がない」などと、自分を責める言葉ばかりが自動的に口をついて出てくるでしょう。
これほど不合理な話はありません。
これを「成功か失敗か」で言うと、「成功」は唯一、最後までやり遂げたときになります。
それ以外は、すべて失敗となってしまうでしょう。
しかも「最後まで」も何も、もともとゴールすら存在していません。
それでいて、幻のゴールを目指し、そこに到達しなければすべて「失敗」となるのですから。
我慢してきたあなたの人生にこんな「思考」が入力設定されていれば、それだけで、あなたはもろもろのことに積極的に臨むのが怖くなるでしょう。
なぜなら行動しようとするたびに、「もし失敗したら」という思考が、自動的に生まれてしまうからです。
強調しておきたいのですが、”自動的な思考”で、恐れが生まれるのです。