
生産し、益を積極的に求め、富を増やす生き方に対して、乞食は、他者の余剰にすがって生きる生き方である。
それは、余分な富を所有しないということに通じ、必要最小限のものだけで暮らす清貧の思想とも結びついている。
直接生産するのではなく、みんなから集めた布施によって生活を立てるという生き方は、たとえば、公務員や役人などに通じる。
彼らは税という形で、施しを強制するわけである。
僧侶や公務員や役人は、かつては敬意を払われたが、その源は、直接生産したり、私的な利益を求めない公共性にあった。
それは言い換えれば、特定の誰かを益するものではないということで、つまり、特定の誰かに執着してはいけないのである。
俸給も、誰かの役に立ったから与えられるというものではなく、働きに関係なく決まったものとして支払われる。
公共性を保つためには、そうした脱執着的構造が必要だった。
万人の幸福に奉仕する者は、個の欲を捨てることが求められる。
それは、布施とか乞食によって得た浄財によって食い扶持を賄うということと共通する。
乞食の場合、浄財に対するお礼は、家の軒先に立ち、お経唱え、祈りを捧げることで、その一家が抱えている災厄や悲しみを癒やすという形でなされる。
つまり、具体的で直接的な物やサービスを提供するのではなく、その家の人に代わって俗欲を断ち、浄らかな生活をすることで、間接的に提供されるのである。
この間接的という関係が、回避型愛着スタイルの人にとっては好都合なのである。
直接的な物やサービスであれば、そこには明確な責任が生じる。
しかし間接的であれば、責任の所在はあいまいになる。
自分の良心に対する責任という「抽象的な責任」に置き換わっていくかもしれないが、相手に直接責任を負うことはなくなる。
念仏をし、祈りを捧げ、乞食行脚することも、俳句を雑誌に載せて、他人に楽しみを提供することも、誰かに対する直接の責任ではなく、抽象化された責任を負うという点で、回避型愛着スタイルの人にとっては楽なのである。