現在の心の状態を調べる

この人は私の敵か味方か

入口のドアを指して、「あのドアから入ってくるとき、どんな気持ちになっていたり、身体はどんな状態になっていますか」と言って、実際に体験してもらったこともあります。

すると、さまざまな答えが返ってきます。

「どんな話が聞けるのかと、ワクワクします」

「どんな人と出会えるかと、期待感でいっぱいになります。」

という人もいれば、「人とうまく話すことができるだろうか」

「みんなが、私を受け入れてくれるだろうか。嫌な人はいないだろうか」

などと考えて、緊張する人もいます。

「ここは安全な場所なのだろうか」

「集まっている人たちに傷つけられないだろうか」などと恐れて警戒してしまう人も少なくありません。

その緊張の分量や質によって、人や社会に対する自分の心がわかります。

大きく二つに分けると、戦わなければならない””と見なしているのか、協力し合える”味方”と見なしているのか。

これは自分の中にある根底の意識です。

人や社会を敵と見なせば、自分自身がそのように振る舞ったり行動したりします。

味方と見なしていれば、自分自身がそのように振る舞ったり行動したりします。

自分でも気づかずに、そう動いてしまうのです。

なぜだか緊張で疲れてしまう

緊張にもいろいろあります。

初めての登校、初めてのクラス。

初めての会社。

初めてのミーティング、初めてのプレゼンテーション。

初めてのデートなど、さまざまな「初めて」は緊張するものです。

緊張しながらも、期待や希望で胸が弾んだり、好奇心で興奮したり、その中に不安や恐れといったさまざまな気持ちが入り交じるでしょう。

明日の遠足が楽しみで、興奮して眠れないということもあります。

これは楽しい緊張です。

好きな人が側にいれば嬉しくて、それだけで緊張します。

胸がときめいたり、胸がキュンとなったりするものです。

そんな気持ちの中には、嫌われはしないだろうかという恐れもあるでしょうが、幸せな気持ちのほうがはるかに大きいでしょう。

もちろん、誰もが新しい世界に一歩踏み込むときは、何が起こるかわからないという意味でも緊張します。

未知に対する警戒心は、危険から身を守るためにも大切なことです。

ただ最近、どちらかといえば、相手から傷つけられるのではないか、攻撃されるのではないかという「敵・味方」の思いから緊張してしまうという相談が多くなってきています。

まったく同じ場面で好きな人が側にいながら、「相手は自分をどう思っているのだろうか」

「こんなことを言って、嫌われないだろうか」

「こんなことを言ったら、笑われるんじゃないだろうか」

などと考えて、緊張のあまり息が苦しくなったり、怖くなってその場を逃げ出したくなってしまうという人もいるのです。

普段から、

  • 異常に肩が凝る
  • 絶えず頭が重い
  • ヘトヘトに疲れてしまう
  • 呼吸がしづらい
  • 疲労感でぐったりしてしまう
  • 顔がほてる
  • 脳の中に薄い膜が張っているようだ

こんな自覚症状がある人は、もしかしたら、「この社会で生きていくには、戦って、勝ち残らなければならない」

などと「勝ち負け」の意識に囚われていて、しかしその実、そうやって競い合うのに疲れ果ててしまっているのかもしれません。

「負けちゃいけない」という焦り

求められる勝ち抜くこと

私には、今、大勢の人が感じている生きづらさは、それとは少し質が異なるように思えます。

それは私たちの根本的な生き方に由来するものであって、この生き方を続けていけば、本当に行き詰まってしまう。

この根本的な生き方を自分に問い直し、その根本を変更せざるを得なくなっている時期にさしかかっているのではないかという気がしてなりません。

とりわけ、前記した「勝ち負け」の競争意識や「敵・味方」の対立意識が、生きづらさの最も大きな要因となっていると感じています。

子どものころから学業で成績を上げる。

成績を上げるために同級生と競う。

社会に出れば、企業戦士として戦い、会社の業績を伸ばす。

そのために、ノルマを課せられたり、社内や部署間で競い合う。

結婚すれば、子どもに「競って勝つ」ように教える。

そうやって、何の疑問も抱かずに、「成功するには、競って勝たなければならない」

「目標を達成するには、戦って勝ち抜かなければならない」

「望むものを獲得するには、戦って勝利を収めなければならない」と、今も私たちは戦って生きています。

まわりになんでか気を許せない

「我慢して頑張れば、きっといるの日か幸せになれる」

これも、「戦って勝つ」の変形バージョンではないでしょうか。

「世の中は、つらく、厳しいものなんだ。人生はそんなに甘くない」

だから、最後に幸せを手に入れるために、今は耐えるべきだ。

我慢して、努力しなければならない。

「厳しい世の中を渡っていくために”打たれ強い人間”になろう」

”折れない心”を育てるために、精神を鍛え、心を強くして、どんな困難にも打ち勝つ人間になろう」

そんな自分を目指している人たちも、たくさんいるに違いありません。

そんな親であれば、子どもたちにも、「有名大学、優良企業に入れば幸せになれる。だから、今、勉強を頑張って、少しでも良い成績をとらなければならない」と発破をかけることでしょう。

ある男性は、「戦っていると指摘されるまで、自分が戦っているとは思っていなかった」と言いました。

「実際に誰かと争っているわけではないし、同僚に少し嫌なことをされても、自分のほうが我慢してしまうので、自分では穏やかなほうだと思っていました」

そう思いつつも、絶えず緊張していて、気がつくと息を止めたりしている自分がいる。

人に声を掛けられると、責められるのではないか、何か苦情を言われるのではないか。

傷つけられるのではないかと思って身構えてしまう。

彼のこんな状態が”戦っている”ということなんです。

「言われてみると、確かに私は、同僚には気を許せないと思っていますね。

自分のほうから争いを仕掛けることはないのですが、他人は”敵”だと思っています。

人に任せるよりも、自分でやったほうが早いと思ってしまうのも、多分、問題が起こって揉めたりするのが嫌だからなんですね」

誰も味方が気づくといない

一昔前は、こんな悩みを抱えた人が多くいました。

カルチャーセンターに通っているが、受講者の中にボスのような存在の人がいて、その人ににらまれてしまったために、意地悪されるようになり、通うのをやめるかどうか悩んでいる。

社内に派閥があって、どこかに入らないと自分だけ浮いてしまいそうだが、どこにも所属する気持ちになれなくて、かといって一人でいるのも苦しい。

近所付き合いで、グループが二つに分かれていて、争っている。

子分のような扱いを受けて、使いっ走りのような役割をさせられるのが嫌だから、無視しているけれども、仲間外れになるのはつらい。

職場にお局さんがいて、彼女が周囲を仕切っている。

逆らうと、職場に居づらくなってしまうから我慢している。

みんなその人を煙たがっているけれども、誰も何も言えないでいることにも、腹が立つ。

本当は一人で帰りたいのに、いつも待ってくれている人がいて、自分も待つのが面倒なので断りたいけど、気を悪くしないかと悩んでいる。

仕事でミスをしたとき、庇ってくれた人がいたけれども、なんだか頭が上がらず、その人の言うことに従わなければならないような気分になってしまう。

職場の仲間は、仕事が終わった後も、休日にもみんなが集まっている。

一緒に遊びに行こうと誘われるけれども、休日ぐらい解放されたい。

でも断ると、職場の雰囲気を壊してしまいそうなので怖い。

仕事が終わって家でホッとしていると、家と職場が近いため、職場の仲間がいきなりやってくる。

でも、断るに断れず、ゆっくりできないで困っている。

こんな悩みと、冒頭で述べた悩みと、どこが違うのでしょうか。

両者ともに、「敵・味方」の意識は変わりません。

けれども昔は、後者のように「味方」との悩みが少なくありませんでした。

ところが今は、「味方」がいないのです。

いつかは行き詰まる「敵・味方」の発想

結束してるように見えたとしても

敵味方の意識があれば、勝つために、味方が結束することができます。

味方同士で協力し合ったり、助け合うことができます。

目的を同じくする仲間、一緒に戦う同志といった感じで、力を合わせて頑張ろうとするでしょう。

味方として結束力が強ければ、そこに愛や友情も芽生えます。

団体競技では、こんな結束力が勝敗を決めることも少なくないでしょう。

ただ、そんな勝ち負けや敵味方の意識が効力を発揮するのは、「勝っている状態」「勝つ可能性がある状態」である場合が大半ではないでしょうか。

戦国時代のキリシタン信者のように、迫害されているから結束が固くなるということもあるでしょう。

この場合、彼らの中にある信念は曲げられていません。

つまり、彼らにとって一番重要な部分は、決して負けていないのです。

けれども一般的な「勝ち負け」の意識からくる結束力というものは、勝つことができない、勝つ自信がないという状態になれば、脆くも崩れ去ってしまうでしょう。

いつの間にか足の引っ張り合い

ある職場での話です。

社員AさんとBさんはライバル同士です。

社内でトップを争う二人は、互いに競いながら、顧客契約の数を伸ばしており、彼らの存在は、社内を活性化させる起爆剤としても役に立っています。

二人が競って順調に顧客数を増やしているうちは、「今度は、あそこに足をのばしてみよう。こんな企画はどうだろうか。この方法で契約の額を増やそう」などと、二人の目は新規顧客の開拓に輝いていました。

ところが、共に契約数が伸び悩みはじめたとき、様子が変わってきました。

二人とも、以前ほどの勢いがありません。

急に自信をなくして、焦ったり不安になったりしながら、それでも「相手に負けたくない。一番になりたい」一心で争うとしたら、どうなっていくでしょうか。

こんな条件を満たして”勝つ”には、互いに足を引っ張り合うしかありません。

「あいつは、どんな企画を持っているんだろうか。今日は、どこを回るんだろうか。どんな人のところに日参しているんだろうか」

などと相手の手の内や動向を探ったり、「あの客には手を焼いているんだな。俺のほうに脈がありそうだぞ。よし、あの客を奪ってやれ」というふうになっていきました。

もちろん仲間同士で同じ顧客を奪い合っても、社内全体の顧客数は増えません。

そうやって、「今日の味方は、明日の敵」となるのです。

会社の人、結局は全員敵!?

こんなふうに、「敵味方」の意識で成果主義、結果主義の穴に落ち込んでしまうと、敵ばかりになって、味方がいなくなってしまうでしょう。

「周囲は敵ばかり」となって、「戦って勝つ」ことに疲れてしまえば、自分の居場所がないと感じるのは無理もないことです。

誰も味方がいなくて寂しい思いに打ちひしがれているとき、「あ、この人は、もしかしたら、頼れそう」という相手が現れたら、誰もいないと感じている人ほど、その相手に限りなく100%に近い依存心でしがみついていくかもしれません。

あるいは、「家族だけが味方」でそれ以外の人はすべて「敵」となってしまえば、家の外に出て行くのも怖くなっていくかもしれません。

こんなふうに、今の社会は「敵」だけがいて、味方がいないと感じてしまう時代なのかもしれません。