小心者の人が自信をもつ心理

小心者の人が自信をもつために

小心者の人とは、ことやものに物おじしてしまったり、他人に恐縮してしまったりする人の事を言う。

そんな小心者の人が自信を持つための心理を記してみたい。

小心者の心理

私たちの小心者の自己には二つある。

意識されている自己と潜在意識下の自己とである。

事実が私たちに影響を与えるのではなく、事実に対する私たちの解釈が、私たちに影響を与えるのだ。

ということは、私たちにこの二つの自己があるからにほかならない。

ある事実に対する反応の仕方は、人によって異なる。

それは、この潜在意識下の自己が異なるからである。

意識されている自己だけが自己であると思っている小心者の人は、自分を発展させる機会を失う。

あることに失敗したとする。

それは事業であれ、入学試験であれ、失恋であれ、何でもよい。

その時、小心者の幼稚な人は、他人を責める。

事業に失敗した小心者の人は、「あいつがもう少し金を出してくれさえすれば、あの事業は成功したのに」と、自分の事業の失敗を自分の知人や友人のせいにする。

幼稚でない人は、「自分にもう少し社会的信用があれば、銀行はきっと融資してくれたのに」と思う。

同じような失敗に際して、失敗の原因がどこにあるかという解釈についてちがいがでてくるのは、その人達の意識されている自己のちがいからではない。

その人達の潜在意識下の自己のちがいである。

したがって、他人を責めている小心者の人は、自分が幼稚であるから他人を責めているとはけっして思っていない。

自分を動かしているのは、自分の潜在意識なのであるから

そして潜在意識下の自己の事実に対する反応は、ほとんど自動的である。

他人の言動に対して小心者の人は、「あいつはオレをバカにしやがった」と自動的に解釈してしまう。

そこにはほとんど意志の入る余地がない。

何かうまくいかないことが小心者の人にあれば、ほとんど自動的に周囲を責める。

他人はけっして自分をバカにしたのではないのに、小心者の人そのように解釈してしまう。

自分に社会的信用がないから小心者の人は事業に失敗したのに、「あいつのために」と解釈してしまう。

それは潜在意識下の自己のためである。

情緒的に成熟した人、つまり、情緒の健康な人は、そこらへんのところを正確に認識できる。

現実を正しく認識できることが、情緒の健康な証拠である

他人が自分を軽蔑していないのに、「軽蔑した」と言って怒る小心者の人は、情緒の病んでいる人である。

私たちの情緒は、意識されている自己と潜在意識下の自己との交互作用によって決まってくる。

そして現実を正しく認識するためには、この二つの自己がある程度統合されていなければならない。

意識されている自己は世俗の名誉や利益を小心者の人は軽蔑し、潜在意識下の自己は世俗の名誉や利益に憧れているというのでは、現実を正しく理解することはできない。

このように人格内部の統合がこわれている小心者の人は、世俗的な名誉のあるものに、一方で反発し一方でひかれる。

自分の手に入らない世俗的な名誉は激しく非難し、自分の手に入る世俗的な名誉は礼賛することになる。

小心者の人の”大袈裟な発言”の裏にはこんな心理が働いている

会社内の出世競争に参加せずして敗れたある小心者の人が、別荘を買った。

会社で一生懸命働く人を、ヒステリーのように軽蔑した

「あいつらは名誉だけで生きているんだよ。くだらない奴らだよ」「どうしてあんなに出世したいのかね。オレには全然わからないよ」「毎日ご苦労さんだよね。上にごますって」などと、小心者の人はエリートコースにのって努力している人々をさんざんにけなした。

エリートコースにのっている人が、小心者の彼の言うように”心の底まで腐っている”人ではあるまい。

やはり現実を小心者の彼は正しく認識できないのである。

そして、小心者の彼は自分が別荘を買ったことを得意になって、「別荘のない生活なんていうのは、生活になっていないよ」と言った。

これも正しい現実把握とは言い難いであろう。

自信のない小心者の人には、別荘のない生活は生活ではない、というような極言が多い。

そして、たまたま小心者の彼は、出世した高校時代の友人をもっていた。

その友人が一回家に遊びに来た時には、小心者の彼は、写真をとって大騒ぎをし、皆にふれまわった。

その友人が小心者の彼の招待に応じて彼の家に来るというハガキをくれた時、彼はそのハガキを暗記するほど読み返した。

そして、小心者の彼は、一字一句の意味を騒ぎたてた。

そのハガキのうしろのほうに、”少しだけおじゃまします”と書いてあった。

すると小心者の彼は、「これだけの人が他人の家に来るっていうことは、なかなかないことなんだよ」と家族の者に得意になって説明した。

得意になった小心者の彼は、「それで、”オレはそう簡単に他人の家は訪ねないんだ”ということを、この少しおじゃまするという言葉で示しているんだよ」と、手前勝手な解釈をする。

その友人を小心者の彼は神様のように周囲に言いふらす。

しかしその小心者の友人とは”心の底まで腐っている”エリートの一人ではなかろうか。

つまり、人格内部の統合がこわれている人の現実認識は、このように歪んでしまう。

小心者の彼は、その友人が家に訪ねてきた時の写真をひきのばして飾っておきながら、他方ではあいかわらず、「ああいう人達は、もう自分の小ささがわからなくなっている」とエリートの生活をけなしていた。

彼は、その友人とのささやかな関係にしがみついて生きていこうとしているのである。

それこそ”小さい”ことではなかろうか。

それこそ、貧しい小心者の生活ではなかろうか。

そして彼の自己は完全に分裂しているがゆえに、彼は次第に現実からひきこもりがちになっていった。

彼はちょっとした失敗にも傷つく。

したがって、私生活の面でも小心者の彼は新しいことはけっしてはじめようとはしない。

彼は他人と接するのが恐いのである。

他人と接すると傷つくような気がして、彼は次第に他人と会うことを避けるようになった。

現実を避けること、実行を回避すること、彼はこれだけを心がけるようになってしまった。

どのようなことであれ、実行すれば失敗の可能性はある。

最後には彼は心を壊し、会社に行くことさえやめてしまった。

現実と自分の間に小心者の人は「分厚いガラス」はないか?

やるべきことは、自己には小心者の自分が意識している自己のほかに、もう一つ潜在意識下の自己があるということを知り、その潜在意識下の自己を正面きって見つめようとすることだったのである。

潜在意識である以上、すぐにはわかるはずがない。

しかし、小心者の人は自分はどうして他人にくらべてこんなにすぐにイライラするのだろう、どうして自分はすぐに大袈裟なことを言ってしまうのだろう、と疑問をもち、自己には二つの自己があることを知り、自分をそのようにしてしまうところの自分を見つめよう、という勇気をもつ必要があったのである。

小心者の彼はそうすれば、心を壊すことにはならずにすんだであろう。

小心者の彼は現実から逃げていた。

現実から逃げるということは、自分から逃げるということなのである。

小心者の人は自分が自分ではないような自己疎外の感情の原因と、自分が現実の世界からはみだしてしまったような疎外感との原因とは、同じ一つのものである。

小心者の彼がもし、潜在意識においては、実は自分は世俗的な名誉を激しく望んでいるのだ、ということを認め、そして、それないそれを得ようと現実にむかって戦いを挑んでいたら、心を壊さなかったであろう。

たとえ世俗的な名誉を小心者の人が手に入れることができなくても、である。

小心者の彼は出世競争に参加する直前でやめてしまったのである。

もし小心者の彼がトコトン戦って、そして敗れたならば、きれいサッパリとした爽快な気持ちであとの人生を送れたのである。

現実と接触したからである

戦いの中で、他人の人格にも接するであろう。

自分の虚栄心を守ろうとした時、小心者の私たちは現実から退いてしまう。

虚栄心を守ろうとしたとたん小心者の人は、現実と自分の間には厚いガラスができてしまうのである。

『また逢う日まで』という映画があって、悲恋物語であるが、二人がガラスごしにキスをするシーンがあった。

虚栄心を守ろうとすることは、現実とガラスごしにキスをするようなものである。

小心者の人は自分から逃げない、現実から逃げないこと

現実からの逃避は、自分からの逃避である

自分を見つめるということは、現実を見つめるということである。

現実にふれるということは、自分自身にふれるということである。

心を壊したその小心者の彼は、家族の者にさえふれることはなかった。

自分は立派な人であるというイメージを守ろうとしたからである。

にせの自分を誇示したから、他人の心とふれあうことができなかった

そして小心者の彼はそのことは同時に自分にもふれることがなかったということである。

小心者の彼は自分とも他人とも、つねにガラスごしにふれあっていたのである。

現実を避けることは、小心者の自分を破壊することである。

真実を知ることを避けることは、小心者の自己を信頼できなくなるということである。

現実がたとえどんなに耐え難くても小心者の人は、そのありのままの姿をとにかく認識しようという態度ぬきに、自分自身を信頼するようになることはできない。

心を壊した小心者の彼は、それ以前からいろいろな会への出席を避けた。

恐かったのは小心者の彼の席順なのである。

小心者の彼は自分は自分の望むほど高い席に座らせてもらえないのではないか、ということである。

小心者の彼はこのように、自分のにせの尊厳をおびやかすところにはけっしてでていかなかった。

その結果はどうなったであろうか。

自分の周囲に小心者の彼は、一人で勝手に敵意をもつようになったのである。

現実に自分の周囲が小心者の彼は自分の敵だったのではない。

自分の解釈と行動によって、小心者の彼は一人で勝手に敵と決め込んでしまったのである。

つまり、小心者の彼は「あいつらは、何も本当のことはわかっていないんだよ」と言うようになる。

周囲はつねに自分の存在を脅かすものになる

何度も言うように小心者の人は現実から逃げることは、自分から逃げることである。

小心者の彼が救われるためになすべきことは、自分自身のありのままの姿を自分が認めることだったのである。

しかし小心者の彼のやったことは、自分の本当の感情を知ることを自分に禁止したことであった。

自分からすすんで、自分で自分を見えなくしてしまったのである

自分の本当の感情を知ることを禁止すると小心者の人は、自分が自分にとって疑わしい存在になってしまう。

自分の本当の感情に眼をそむけることによって、私たちは一時的には救われる。

しかし自分を裏切っている以上、長期的には小心者の人は自分で自分を信用できなくしているのである。

そのような小心者の態度は、最終的には自分を破壊してしまうのである。

一時の救いを求めて、結局は問題を悪化させてしまうような態度を、えてして小心者の私たちはとりがちである。

小心者の彼などもその積み重ねの結果として心を壊してしまったのである。

まわりを一切考えずに小心者の人は”浮んだ気持ち”を大切にする

自信をもちたければ、小心者の自分で本当の自分の感情を知ることを禁じてはならない。

そのためには小心者の人は一人で旅にでるのもよい。

たった一人で旅に小心者の人が出る時、いやおうなく自分と直面せざるを得ないこともあるだろう。

たった一人で旅の夜をむかえた時、その夜のしじまの中で、自分の前にはっきりと小心者の自分があらわれるかもしれない。

昼の間は潜在意識下の小心者の人の自己であったものが、夜のしじまの中で、意識の中にはっきりとあらわれてくるかもしれない。

自分で自分の本当の感情を知ることを禁止しないということは、とりもなおさず小心者の自分を偽らないということである。

小心者の人は自己主張なくして自信はない。

同じく小心者の人は自己主張とは自分を偽らないことである。

小心者の自分から逃げない、現実から逃げない、自己主張をする、自分を偽らない、それらのことは表現はちがっていても結局は同じことなのである。

そして結局は同じことであるこの一つのことを実行しないで、小心者の人が自信がもてるということはあり得ないのである。

小心者の人の自信のねつ造

自分の本当の感情を知ることを自分に禁じて、にせの自信にしがみついて生きている

私たちは生きていく上で、どうしてもある自信を必要とする。

しかし自分を偽りつづけて生きてきた小心者の人は、生きていく上に必要な自信がもてない。

そこで自信をねつ造する。

本当の自信は本当の安心感をもたらすが、にせの自信はにせの安心感しかもたらさない

この人も最後には心を壊してしまった小心者の男なのであるが、心を壊す前は、「オレは絶対の自信だからね」とよく言っていた。

小心者の彼は、「オレは絶対の自信だからね」と不自然なことを言うことによって、自分の中にあるさまざまな不安を抑えようとしていたのである。

「オレは絶対の自信だからね」と、小心者の彼は自分と他人に対して自信を誇示していたのである。

それほどまでに自信を誇示しなければならなかったのはなぜだろうか。

それは、小心者の彼が不安だったからである。

小心者の自分は敵にかこまれているかのごとき錯覚をもっていたのである。

小心者の彼の周囲の人は、すべて彼の存在を脅かした。

周囲の人は皆、小心者の彼の”尊厳”を傷つける可能性をもっていた。

何気ない会話の中の何気ない一言が、小心者の彼の自尊心をいたく傷つけることがあったのである。

オレはおまえらの言葉によって傷つきはしないのだぞ、ということを周囲に示す必要が小心者の彼にはあった。

だからこそ、小心者の彼は”絶対の自信”を誇示したのである。

現実を素直に認識することが、そのまま小心者の自分の自尊心を傷つけることになった。

したがって、小心者の彼はつねにひねくれて現実を解釈していた。

「あの人、優秀ね」という、妻の一言が小心者の彼を傷つけるのである。

小心者の彼とは何の関係もない人をほめることが、彼を傷つけることになる。

「新聞記者って、給料いいんですってね」という女性の一言が小心者の彼を傷つける。

「役員になると交際費が多くていいな」という知人の言葉が小心者の彼を傷つける。

そんな何気ない、どうでもいい一言一言について、いちいち反論しなければならないのである。

「あいつの頭は固くてだめだよ。今まではあれでいいけど、これからはあれじゃだめだよ、あいつは判断力がないから。
本格的なところでは使いものにならないよ」と小心者の人はイライラしながら反論する。

「あの人、優秀ね」という一言に小心者の人は傷つき、苛立ち、そして今のように反論しなければならない。

これが”絶対の自信”の持ち主である

他の職業のほうが給料が多いということも、小心者の人はどうしても認めることができない。

新聞記者が他の職業にくらべてそれほど給料が高いのか低いのか知らないが、たとえば高いと言われたとする。

それだけで小心者の彼の内心は穏やかでなくなる。

「あいつら、仕事が不規則だから、お金がかかるんだよ。
だから実際の収入は、わずかなもんだよ。
それにしてもいやな職業だねぇ。
人のあと追いかけまわして」と反論しなければ、彼のイライラはおさまらない。

小心者の彼は、交際費が使えると聞けば、「役員なんて大の男がやるもんじゃないよ。接待ゴルフでわざと負けてさ。要するに男芸者だよ」となる。

にせの自信を誇示する者にとって、現実をありのままに認識すれば、自分の尊厳が保てないのである

にせの自信を誇示する小心者の人にとって、現実の認識と自分の尊厳は両立しなくなっている。

だからこそ、小心者の人は現実を歪めて解釈する。

小心者を見ていると、時々、妙なところで不自然に自信を誇示することがある。

生きようとするよりも、生きることの恐怖から逃げようとしているのである。

しかし、生きることをそれほど恐いものにしてしまったのは、他ならぬ自分自身であるということに、小心者の彼は気付いていない。

小心者の彼は人々に受け入れられ、賞賛され、世話されることを望んでいる。

人々に望むことは、自分を恐い現実から守ってくれることである。

世話をされるといっても、現実に世話をされることばかりではなく、心の安定についてまで世話してもらおうとしているのである。

おかしな、いかがわしい宗教にすがろうという小心者の人達もそうであろう。

その宗教が小心者の自分のにせの尊厳を現実から守ってくれることを望んでいるのである。

もし彼が本当の自信を持ちたければ、現実と小心者の自分の関係を変えること以外に方法はない。

しかし、にせの自信をもつ小心者の人は、現実を恐怖の対象のままにして、そこから自分を守ってくれるものを欲しがる。

自分の部下に自分を賞賛させようとする上役、自分の子どもに自分を賞賛させようとする親、自分の仲間に自分を賞賛してもらおうとする同僚。

これらは皆、小心者の人のにせの自信の持ち主であろう。

にせの自信をもつ小心者の人は、「もしけなされたらどうしよう」とつねに恐れている。

”にせの自尊心”を守るために彼が選んだこんな生き方

自信がなければないほど、私たちは自己防衛的になってしまう。

小心者の人はけなされやしないか、傷つけられはしないか、といつも身構えている。

その身構え、気構えだけで小心者の人は疲れてしまう。

にせの自信を誇示している小心者の人にとって、人生はつねに非常事態なのである。

いつも小心者の人は油断もスキもならない、という具合に身構えている。

小心者の彼は人生のゆとりや楽しみとは無関係である。

小心者の彼は他人が人生を楽しんでいるということさえも、否定しなければならない。

小心者の彼は「ああいう人生も楽しそうね」とでも自分のガールフレンドが言えば、とたんに不機嫌になって、「あの人達は教養がないから」と反論しなければならなくなる。

あるいは、小心者の彼は「外から見ているのと、実際とでは全然違うんだよ。楽しいどころか、大変なもんだよ」と反論する。

他人が人生を楽しんでいるという事実は、にせの自信を誇示している小心者の人にとっては、けっして認めることのできない事実である。

にせの自信を誇示する小心者の人にとって、人生は生き難いものなのである。

そして小心者の自分にとって以上に、他人にとって生き難いものでなければならない。

楽しさなどないのだと小心者の人は自分にも他人にも説得しなければならない。

そして楽しんでいる者は、神を恐れぬ不逞のやからになるか、無教養な人間になってしまう。

彼はあらゆる心理操作や、あらゆる言い訳を動員して、現実をそのまま認めることを拒否する。

そして現実を小心者の人はそのまま認めなくても済むような宗教や哲学を求める。

にせの自信を持つ者は、価値観なしには生きていかれない

しかしその価値は、小心者の人にとってつねに防衛的な価値である。

たとえば”人間的な大きさ”などという価値をもちだしてくる。

どこの誰に対しても小心者の人は「あの男は人間的な大きさがない」とか「人間としてのスケールがちがう」とか言う。

あいつは人間としてスケールが小さいがオレは大きい、ということである。

人間としての大きさが小心者の人は人間の最高の価値であるという価値観をもち、その価値観によって自分の自尊心を守ろうとする。

ある小心者の男が、「あいつもあそこで社長なんかがつとまるようじゃ、人間として小さいもんだ」と得々として言っていた。

その男は社長などになれず、うだつがあがらないが、当然小心者の自分は人間としてスケールが大きいとにせの自信をもっている。

人間としてのスケールの大きさは人間としての大切な価値である。

小心者の人はその価値自体に問題があるのではなく、その価値を選択する動機に問題があるのである。

彼は小心者の自分のにせの自信を支えるために、人間としてのスケールの大きさという価値を、人間を評価する基準として選択したのである。

小心者の彼は、現実に対する恐怖から、その価値を選択した。

そのように恐怖から選択した防衛的価値を、小心者の彼自身はけっして本当には信じてはいない。

小心者の自分の自尊心を防衛するために選んだ価値であって、その価値が自分に適していたから選んだわけではない。

もともと外で活躍するのに適している小心者の人が、外での活躍のなさを言い訳するために、家庭こそ人間のすべての価値であると価値を選択しているにすぎない。

外で自分の実力が試される機会を避けて、自分のにせの自尊心を守ろうとしたにすぎない

しかし小心者の人は避けることからは、いかなる真の自信も生まれてこない。

皮肉なことに、にせの自信を持つ小心者の人は、真の自信を得られること以外はほとんどどんなことでもする。

さまざまなことに挑戦し、自分を試し、実際の自分を知りさえすれば、その実際の自分がどのようなものであっても、私たちは自信を得る。