苦手な相手に気遣いしなければならないとき

どうしても気遣いが難しく感じられるときはあります。

その典型例は、苦手な相手でしょう。

苦手な相手に対する気遣いの場合、その嫌悪感ゆえに難しく感じられる時もあれば、そもそもどうやって気遣いしたらよい相手なのかがわからない、という場合もあるでしょう。

気遣いの悩み:同じ会社にどうしても苦手な人がいる。そんな人に対してどう接すればよいかわからない。
多くの人に「苦手な相手」はいます。

しかし、気遣いの本やサイトには、「相手を尊重しましょう」「相手をリスペクトしましょう」「相手のことを第一に考えましょう」などと書いてあります。

「苦手な相手」に対して、その通りにしようとすると、苦しくなるでしょう。

その苦しさの最たるものは、「そうできない自分」についての感覚だと思います。

苦手を克服できない自分を弱いと感じたり未熟と感じたり、人間として小さいと感じたりする気持ちが、最も辛いものなのです。

そしてそんな苦しい気持ちを抱えてしまうと、相手が余計苦手に感じられるものですから、克服しようとすればするほど苦手になる、という悪循環に陥っていくものです。

こんなときの工夫は、「苦手」を克服しようとしないことです。

「苦手」を克服しようとすると、かえって「苦手」に焦点が当たってしまいます。

また、相手のことも「苦手」というメガネを通して見ることになってしまうので、ますます苦手な部分しか見えなくなってしまうでしょう。

「苦手は苦手でよい」と割り切ってみると、視野が変わります。

人間には間違いなく相性というものがあるのです。

相性の悪い人は依存する、と割り切るところから気遣いがスタートします。

実はこれは、自分自身の事情を認めて、そのありのままを受け入れるということ。

つまり、自分自身に安心を提供しているということなのです。

自分自身への気遣いです。

人が前向きに進むのは、安心の中でだけです。

「苦手は苦手でよい」と割り切って安心すると、前向きな成長が始まります。

「苦手は苦手でよい」と割り切るということは、「今の自分には相手の事情はわからない」と認める、ということ。

事情がわからないのですし、「標識」も立っていないのであれば、自分の標準的な気遣いをすることが最善の対応でしょう。

自分の標準的な気遣いは、たとえば「挨拶だけはきちんとする」などというものになります。

そして、それ以上を自分に対して求めない、ということなのです。

相手に嫌われてしまっているようなとき

気遣いの悩み:初対面のときに失敗してしまい、相手から嫌われているよう。その後の気遣いがどうしてもぎこちなくなってしまう。

こんなとき、キーワードは「安心」と「つながり」です。

「嫌う」というのは、違和感があるということ。

人間は安全に生きていくために自分なりに対象を位置づけながら生きています。

違和感がある、つまり安全が確認できない相手に対しては、「嫌い」という感情を持つものです。

初対面のときに何らかの粗相があったのであれば、相手はこちらに対して強烈な違和感を抱いているはずです。

「油断のできない相手だ」「人間として信用できそうもない相手だ」と、警戒心すら抱いているかもしれません。

自分を嫌っている相手にこそ、「安心」と「つながり」を

自分に対して違和感を抱いている相手に提供できるのは、まずは「安心」でしょう。

自分は違和感を抱かなくてよい、ましてや警戒などしなくてよい人間だということを態度で知らせるのです。

そのためには、安心の提供が役に立ちます。

安心の提供の第一歩は、初対面での自分の失敗ゆえに強烈な違和感を抱いているという相手のありのままを受け入れることです。

「自分が失敗してしまった」ということばかり意識していると「自分がどう思われるか」だけが気になって疲れる気遣いに入ってしまいますが、「まあ、目の前であんな粗相をされたらぎょっとして違和感を抱くのも当然だろう」と相手の立場に立って考えれば、相手を安心させてあげようということを考えられると思います。

また、相手に嫌われていると思うと、どうしても言動がいじけがち。

そういう態度を見ると、相手はますます「理解できない」「愛想がない」と思ったりするものです。

こんなときは、「つながり」を意識する必要があります。

自分ではなく、相手に目を向けるのです。

「嫌われている自分が、こんなことをしてはいけないのではないか」と思って気遣いを控えるのではなく、ありのままの相手に対して気遣いをしてあげましょう。

気遣いの悩み:自分のミスで取引先の人を怒らせてしまった。関係修復のために、どんな気遣いをしたらよいのかわからない。

相手が口をきいてくれないくらい激怒している、というのであれば、単に安定した態度で安心の提供を、というわけにもいきません。

そのようなチャンスすら与えられないでしょう。

そんなときは、まず、無条件に謝罪することがポイントです。

相手がなぜ怒っているのかが本当のところわからなくても、それは「相手の領域」の話です。

相手が怒っていると聞くと、こちらも身構えてしまい、相手との関わりを躊躇しがちになります。

しかし、ここで覚えておくと役に立つのは、「怒っている人は困っている人」ということです。

自分自身のことを振り返っても、何かに対して感情的に怒っているときは、何かしらの形で自分が困った状況に陥っているときであるはずです。

それも、「こんなはずじゃなかったのに!」と、予定が狂ったことにパニックになっている場合が多いのです。

相手が怒っているのも、基本構造は同じ。

「こんなはずじゃなかったのに!」とパニックになっているのでしょう。

そんなときに、自己正当化をしてみても、相手は「こんなに困っているのにさらに何を言うんだ!」と余計に怒ってしまいます。

相手のプロセスを尊重する

また、「ゆるしてください」とゆるしを請うのも、相手をさらに怒らせる可能性があります。

困らせておきながら、さらにゆるしまで要求するなんて図々しい、と思うからです。

そもそも、人は変化に対して適応するためのプロセスを必要とするもの。

相手のミスが原因で困ったことになった、というのは衝撃的な「変化」です。

その変化に適応するためには、それなりのプロセスが必要なのです。

「ゆるし」はそのプロセスを経て到達するものなのですから、「ゆるしてください」と言うのは、プロセスを短縮しなさいと言っているようなもの。

そんな要求はすべきではありませんね。

事情はどうであれ、自分がきっかけとなって相手が困った状況に陥ったことは事実。

無条件に謝罪するということは、とにかく困った状況に陥ってしまったことに遺憾の意を述べる、というふうに考えればよいのです。

相手が怒りすぎていて、こちらと話すらできない、というのであれば、まずは上司など他人に事情を聴きに行ってもらうのも一案です。

こちらと直接話をしてしまうと、ゆるしているかのように見えることを気にする人もいるからです。

感情的に怒っているときのエネルギーは、実は「不安」。

自分の安全が確保されるまでは、その矛を収めることは難しいのです。

相手の「変化への適応プロセス」を尊重する、というふうに考えれば、「自分がどう思われるか」にとらわれてしまって、相手との関係をより悪化させたり、自分を責めたりしないですむはずです。

話の内容ではなく困っている相手に寄り添う

気遣いの悩み:友達が悪口を言っているときに、それに対してどのようにリアクションすればよいかわからない。

人の悪口を言っている相手と話すとき、相手に合わせる、空気を読む、ということだと一緒に悪口を言わなければならないような気にもなります。

「安心」「つながり」を表面的にとらえても、そういうことになりますね。

しかし、できるだけ人の悪口は言いたくないものですし、そうやって相手に合わせた悪口でも、自分の口から出たことは事実ですから、どこでどういう形で自分に返ってくるか、わかりません。

元気になる気遣いのポイントは、自分が気持ちよくなること。

ですから、一緒になって悪口を言うのは違う、ということがわかります。

だからと言って「悪口はやめようよ」などと言っても、お互いに気持ちよくないでしょう。

また、現に悪口を言っている相手に対して「悪口はやめようよ」と言うと、ありのままを否定することになってしまいます。

それは批判ととられ、反感を買ってしまうこともあります。

悪口を言っている相手にはどういう気遣いをすればよいのでしょうか。

「悪口」ではなく「大変な思い」に寄り添う

こういうときには、相手は「悪口を言う」という行為を通して何がしたいのかを考えてみましょう。

相手は、悪口の対象となっている人によって何らかの嫌な思いをしたはずです。

それは直接何かをされたということなのかもしれないし、単に「見ているとイライラする」というレベルのことかもしれません。

いずれにしても、何らかの嫌な思いをして困っているのです。

その困った気持ちを訴えている、と考えれば、その内容に同調するよりも、困っている相手にただ寄り添うという姿勢を決めることができます。

これも一つの、相手の「ありのまま」の受け入れです。

悪口の一つ一つに引っかかってしまうと、「そういう考え方はおかしいのではないか」と評価を下したり「悪口はよくない」と決めつけたりしがちですが、ただ「大変なんだな」という思いで相手に寄り添うことは可能です。

相手と、悪口の対象となっている人の間に起こったことは、あくまでも相手の領域の話なのですから、それについて立ち入る必要はないのです。

相手が誰かとの間に起こった不愉快な出来事を悪口として話しているのであれば、それを「相手が大変な思いをしたという出来事」として聴けばよいでしょう。

悪口の対象については何も言及することなく、「そんなこと言われたら困るよね」という程度に、相手に寄り添っていれば十分です。

「〇〇って意地悪だよねー」と評価に同意を求められてしまったら、「大変だね」と、また相手の領域の話に戻してあげればよいだけです。

気遣いの悩み:いつも長々と愚痴をこぼす相手に、短くても気持ちよく愚痴を終わらせてもらいたい。

愚痴を言うような精神状態のときには、「わかってほしい」「自分の気持ちを肯定してほしい」と思っているものです。

そしてその目的が達成されれば、愚痴は終わります。

しかし、「考え方を変えてみたら?」というようなニュアンスのことを言われてしまうと、「でも」と自己防衛に入ってしまい、「もっとわかってもらえるように」「もっと気持ちを肯定してもらえるように」話すことになります。

つまり、愚痴が長くなるのは、基本的には「自己防衛」の結果、と考えるとわかりやすいです。

ここでも、要は「安心」がテーマになります。

愚痴を早く終わらせてもらうためには、「よく受け入れてもらえた」という安心感を与えることが必要なのです。

そのためには、こちらがただありのままを受け入れる聴き方をすることが重要です。

ありのままを受け入れるというのはどういうことかと言うと、「かわいそう」とすら思わない、ということです。

愚痴を言う相手に対して「それはかわいそう」と大袈裟に共感してみせる人もいますが、自分の話を、自分が思っているよりも重く受け止められるのはかえって嫌なものです。

すると、「それほど重い話ではない」ということを説明するために、ますます話が長くなる、ということになります。

ありのままを受け入れる聴き方

ありのままを受け入れる聴き方というのは、相手の話を聴いているうちに何らかの思考が浮かんできたときに、それにとらわれず、ただその思考を脇に置いて、相手に集中し直すということ。

話の内容の細部よりも、目の前で一生懸命話している相手の存在を愛おしく感じるくらいの聴き方が最も楽です。

人の話を聴いていて何が辛いかと言うと、「どうしてこの人はこんなことをするとのだろう」「この話はいつ終わるのだろう」などと相手に評価を下す思考なのです。

相手そのものがストレスなのではなく、相手について自分が考えることがストレスを生みます。

なぜかというと、そのような評価は、いずれも「相手が現状と違っていたらよかったのに」という考えを反映したものだからです。

「相手が現状と違っていたらよかったのに」という思いで相手を見続けると、叶わぬ期待にずっと直面することになり、ストレスが生じます。

相手のありのままを受け入れる、つまり「相手はこれでよいのだ」と思って何も評価を下さないとき、驚くほどストレスを感じなくなることに気づくと思います。

そんな聴き方ができれば、自分も楽ですし、相手も「よく受け入れてもらえた」と感じ、話を早く終わらせてくれます。

「余計なことは言わないから、気がすむまで話してごらん」と腰を据えたときほど、話は早く終わるのです。
このような、質問もコメントもしない、せいぜい共感的にうなずく程度の聴き方では物足りなく思われるのではないか、と心配な方は、一度じっくりやってみてください。

驚くほど相手の満足度が高いことに気づくと思います。

気遣いができない人はいるから自分に非現実的な期待をしない

相手の気持ちを察する力、想像力、言葉の裏を読む力、他人への関心などは、気遣いの基本と言われているものですが、実はこれらは、先天的に規定されている部分も多いものです。

もちろん後天的に、人生経験の中でそれなりに鍛えられたりはするのですが、「読む力」「想像力」「幅広く注意を向ける力」などは、その力自体が全く伸びない、ということもあります。

力が伸びない人は、社会適応のために、一般に「パターン認識」をしながら暮らしていると思います。

自分で読んだり想像したりすることができないので、「人が〇〇と言うときは、××という意味らしい」ということを、個別の経験の中で覚えていくのです。

本を読んで気遣いの仕方について学ぶ、というのも、パターン認識の一つとして機能するでしょう。

パターン認識は社会生活を営んでいく上である程度有効ですが、「人が〇〇と言うときは」という条件が限られているので、応用が利かないという難点があります。

ですから、やはり「読む力」「想像力」「幅広く注意を向ける力」を要する気遣いは、できない人もいる、という事実を認めたほうがよいでしょう。

気遣いの悩み:先輩から「相手を察して気遣いをしなさい」と言われているが、どうしたらよいかわからない。

「察する力」が自分にはないと思うのであれば、察することができるように努力するよりも、「自分は察することができない」という前提に立って、相手から教えてもらうようにしたほうがよいでしょう。

そもそも「察したい」と思うのは、相手に最もぴったりくる気遣いをしたいから。ですから、自分に察する力がないのであれば、相手に聞いてみるのが一番なのです。

「私は気が利かないので教えてほしいのですが・・・」「私は鈍感なので教えてほしいのですが・・・」と聞いてみるとよいでしょう。

そういうふうに聞く姿勢も気遣いの一つ。

気にかけてくれているのだな、ということを知ると気遣いをしてもらった感じがするものです。

なお、「察する力」がないことを前提とする、とは言っても、「自分は鈍感なので我慢してください」「自分は鈍感なので不満を持っても無駄ですよ」という姿勢は、気遣いでも何でもありません。

それはむしろ、相手のありのままを認めないという意味で問題があります。

察することのできない人に対して不満を抱くのも、相手のありのままだからです。

「私は鈍感なので気づいたことはビシビシ言って下さい。結果としてお役に立てたほうが嬉しいので、言っていただいたほうがありがたいのです。ぜひお願いします」と言ったほうが、相手のありのままを認めつつ、気遣いしたいという気持ちも伝え、自分の機能も向上させようとする、よい気遣いになります。

なおここで述べた苦手がかなり強い人の場合、「非定型発達(社会的な機能障害が強ければ、発達障害と呼ばれます)」かもしれません。

たとえば、ほめたつもりなのに怒らせてしまう、ということを繰り返している人は、その可能性も高いでしょう。

自分が「非定型発達」だということがわかれば、自分が努力すべきことと、努力すべきでないことがはっきりしますので、もしも自分が「非定型発達」の可能性があると思ったら、専門家に相談してみることをお勧めします。

まとめ

  • 苦手な相手を克服しようとすると、さらに苦手になる
  • 悪口は、相手が大変な思いをしたという出来事として聴く
  • 「気が済むまで話してごらん」と腰を据えたときほど、話は早く終わる

苦手は苦手でよい、と割り切り、標準的な気遣いで対応しよう

察することができないときは、相手に教えてもらう