気遣いには温かさが必要

物理的にはフォローしてもらって助かったけれども、そこに冷たさや「上から目線」を感じてしまうと、気遣いを受けたという気持ちになるよりも、「うまくできずに迷惑をかけた自分を責められている」と思ってしまうこともありますね。

気遣いとして相手に受け取ってもらうためには、そこに温かさを感じてもらう必要があるのです。

気遣いをしてもらって、そこにほんわかとした温かさを感じるとき、私たちは心から嬉しいと思いますし、「うまくできずに迷惑をかけた自分を責められている」などとは思いもしないものです。

それは、人間同士のつながりを感じるからです。

気遣いの悩み:何か声をかけてあげたほうがよいだろうなと思う相手がいても、言葉が見つからないので、そのまま見て見ぬふりをしてしまう

何か声をかけてもらったほうがよいようなタイミングに、実際に人から声をかけてもらえるのともらえないのとでは大違いです。

何か声をかけてもらったほうがよいタイミングというのは、一般に、何かで傷ついたり失敗して落ち込んだりしているようなときでしょう。

そのようなときには、自分は本当にだめな人間だと思っていることが多いもので、すべての人が自分を見放しているようにすら感じるものです。

そんなときに、人から一言でも温かい言葉がもらえると、立ち直る大きなきっかけになります。

ところが、「見て見ぬふり」をされてしまうと、「すべての人が自分を見放している」という感じ方が余計強くなってしまいます。

罪悪感は「つながり」を断つ

「言葉が見つからず見て見ぬふり」になってしまうのは、「自分が発する言葉がどう思われるか」ということが気になっているからです。

つまり、「自分がどう思われるか」を気にする疲れる気遣いになってしまっている、ということなのです。

うまい言葉が見つかるかどうかには、確かに個人差がありますね。

「何か声をかけてあげたほうがよいだろうなと思う相手がいても言葉が見つからない」ということそのものは、仕方のないことです。

しかし、そのことと、相手に向ける心の姿勢は別です。

相手のことを思えば、そして、何か声をかけてあげたほうがよいだろうな、という気持ちがあれば、そういう思いで相手を見てあげるだけでも全く違うのです。

「見て見ぬふり」をしてしまうようなとき、自分の心の内面に目を向けてみると、「何とかしてあげたい。でもよい言葉がみつからない。見て見ぬフリをするしかない」という自分を責めているはずです。

何も出来ない自分に対して罪悪感や無力感を覚えていることでしょう。

そんなふうに「じぶんにはできない」と責めてしまうと、私たちは相手に背を向けるような態度をとってしまうことが多いものです。

うまく助けられない自分が、相手から責められているように感じることすらあります。

できない自分に向き合うこともできず、相手が責めてくるような視線に耐えることもできず、つい背中を向けて「なかったこと」にしたくなるのです。

こんな状況では「つながり」など感じられるわけがありません。

「自分がどう思われるか」を手放し、相手のことだけを考えてみれば、「背中を向ける」などという最悪の選択肢を選ぶことはないはずです。

「うまい言葉は思いつかないけれども、あなたのことを気にかけていますよ。大丈夫」

というような温かい目で相手をまっすぐに見てあげることがとても重要なのです。

言葉によるコミュニケーションにとらわれる必要はない

言葉を使わないほうが気遣いがよく伝わる場合もある

そのような難しい状況で、適切な言葉をおもいつくのは誰にとっても簡単なことではありません。

何しろすべては相手の領域での話です。

相手が体験したことの内容も詳細はわからないですし、それについて相手がどのような感じ方をしているかもわからないのです。

気の利いた一言を言ったつもりでも、それが「実際の相手」とずれてしまうと、かえって相手を傷つけかねません。

このようなときには、「気づかっている心」だけが伝わればよいのです。

伝えたいことは何かと言えば、「私はあなたの味方ですよ」ということ。

「自分は本当にだめな人間で、すべての人が自分を見放している」と感じているようなときに、「私はあなたの味方ですよ」と伝えてくれる人には、本当に救われるものです。

「私はあなたの味方ですよ」ということを伝えるためには、たとえば、お茶をいれてあげる、ささやかな甘いものをデスクに置いてあげる、目が合ったら微笑む、などちょっとしたことをすればよいのです。

みんなが自分を見放しているように感じるときに「味方」感のある人の存在は貴重なもの。

言葉を使わないコミュニケーションのほうがそれがよく伝わることもあるのです。

「気遣い」の悩み:相手を楽しませるような話方がなかなかできない

気遣い関連の悩みとして、やはり「自分が何を言うか」ということにとらわれている人が多いことに気づきます。

「相手にかけてあげる言葉が、気遣いの質を決める」という思い込みがあるようです。

また、話を弾ませることが気遣いだと思っている人も少なくないようです。

話を弾ませるためには、やはり「自分が何を言うか」ということに目がいってしまいます。

しかし、先ほど見たように、「相手にかけてあげる言葉」が気遣いの質を決めるわけではなく、相手に対する心の姿勢、そしてそれに基づくコミュニケーション全体(言葉を使わないものも含めて)が、気遣いの質を決めます。

また、話を弾ませることが気遣い、ということでは、必ずしもないのです。

そもそもコミュニケーションの目的は話が弾むことではありません。

目的は「ありのままの相手とつながること」です。

話を弾ませることが気遣い、というのは一つの決めつけで、他の決めつけ同様に、適切な気遣いを妨げることにもなります。

例えば、あまり話をする気分でなく、沈黙の中で落ち着いていたい、という人に対して話を弾ませるということをしてしまうと、「うるさい」「頭が痛くなる」と感じられてしまい、気遣いとは正反対のことになってしまいます。

また、相手との会話の中で、「自分が何を言うか」ということばかり考えていると、「ありのままの相手」から離れてしまいます。

相手の話が耳に入らなくなることもありますし、とりあえず聴いているとしても、相手の話は、「この後に自分が何を言うべきかのヒントを与えてくれるもの」になってしまい、ありのままの相手を聴く、ということができなくなってしまうのです。

一番の気遣いは、相手の話をちゃんと聴くことです。

ですから、むしろ、「聴くことに専念する」と決めてもよいくらいです。

相手の話をよく聴き、その中で感じた相槌を打つ。

あるいは「お話をうかがえてよかったです」「勉強になります」「感動しました」など、話してくれたことへの感謝を述べる。

実はこれだけでも十分な気遣いなのです。

もしも相手が、こちらのことをよく知りたいと思って、質問してきたり、「あなたのことを教えてください」と言ってきたりしたら、その要望にきちんと応えればよいでしょう。

結果として話は弾むかもしれませんし、弾まないかもしれません。

でも、言葉数は少なくてもじっくりと聴けた、という体験は、案外深いきずなをつくるものなのです。

沈黙も時間の共有の形

なお、「人と一緒にいるとき、沈黙になってしまうけれども、どうしたらよいか」という悩みを持っている人も多いようですが、沈黙を怖れる必要はありません。

沈黙も、一つの時間の共有の形であり、何の問題もないのです。

沈黙が苦しくなるのは、自分がそれを苦しいと思うから。

そして、「沈黙が続いてしまって、どうしよう」という不安を相手に押し付けるような雰囲気になってしまうと、相手も苦しくなってしまいます。

これはまさに、沈黙による不安で苦しんでいる自分への気遣いを相手に求めているようなもの。

相手にとっては負担です。

ですから、まずは自分が「大丈夫」と思って沈黙を楽しめば、相手の安心にもつながります。

安心を提供するものは何であれ気遣いなのですから、実は自分が沈黙を楽しむということも、相手に対する気遣いの一つの形なのです。

その上で、相手と一緒にこの時間を共有していることを味わおう、と思えば、十分「つながり」の姿勢がつくれます。

穏やかに一緒にいるだけでつながりを感じることもできます。

また、たとえば目が合ったら穏やかに微笑む、視界におもしろそうなものが入ったら一緒に笑う、などということも、つながりをつくっていきます。

言葉にしたいことが出てきたら、言葉にすればよいだけです。

言葉は沈黙を埋めて不安を解消するための道具ではなく、あくまでも相手に何かを伝えるコミュニケーション手段なのです。

「口下手」だからと遠慮すると何も伝わらない

そもそも、言葉によるコミュニケーションの能力には、かなり個人差があります。

「口下手」な人、つまり言葉によるコミュニケーションが苦手な人はたくさんいます。

そういう人にとって、言葉によってのみ気遣いを示すことは非現実的な目標です。

人それぞれ、コミュニケーションの得意不得意はあって当然のことです。

言葉によるコミュニケーションが苦手な人は、言葉によらない気遣いを考えればよいのです。

言葉によるコミュニケーションの長所は、その正確さ。

言葉によって明確に表現されたものは、ずれがないというメリットがあります。

しかし、相手を思いやっている温かい心などは、正確さを競うべき性質のものではないでしょう。

自分が「口下手」だからと遠慮して何も表現しない人は、相手への温かい心も表現していない、ということになってしまいます。

せめて、温かく微笑む、嬉しそうに会釈する、ちょっとした親切をするなど、相手を気遣っていることを示したいものです。

相手に伝わるのはエネルギーです。

「不安」のエネルギーではなく、温かい「安心」のエネルギーが伝われば、その手段は何でもかまわないのです。

言い訳は本当にいけない?

一般に「言い訳」はいけないと言われていますし、気遣いを説くものの中でも「言い訳」はよくないこととされています。

でも本当に言い訳をしないことがよい気遣いなのでしょうか。

たとえば、A子さん。

アルバイトの面接の日に電車が遅れてしまい、遅刻してしまいました。

すでに遅刻しているので申し訳ないと感じているA子さんは、言い訳などもってのほかだと思っていますので、「遅刻ですね」と言う面接官に対して「申し訳ございません」としか言いません。

本当にこれでよいのでしょうか?

面接官の立場に立ってみると、いったいこの人はどういうタイプの人なのかが全くわからないと思います。

ただ「申し訳ございません」だけだと、情報量があまりにも少ないのです。

それよりも、たとえば、「遅刻してご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません。

御社の仕事を絶対にしたいと思っていたので、今日は余裕をもって面接にうかがいたいと思っておりました。

ですから、交通機関が遅れる可能性をもっときちんと考慮に入れるべきでした。

これからは必ず改めたいと思います」と言ってみたらどうでしょうか。

「御社の仕事を絶対にしたい」というところで、やる気がないから遅刻したわけではないということが伝わります。

交通機関の遅れは直接の原因ですが、確かに交通機関は遅れることがありますので、多少の余裕を見ることは一つの社会常識でしょう。

ですから、そこをきちんと反省している、ということを述べているわけです。

ただ「申し訳ございません」とだけ言う場合と比べて、どれほど本人についての情報量が多いでしょうか。

そして、ここで働く意欲を持っている、自分のどこが問題だったかわかっている、改善の方向もわかっている、という人材なら、採用したいと思うのも不思議はないのではないでしょうか。

「言い訳をするのはよくない」というのは、責任転嫁をして自分の問題を直視しない姿勢のことを言うのです。
ですから、このようなタイプの「言い訳」は、むしろ自分の責任を引き受けているという意味で好感が持てると言えます。

罪悪感ではなく思いやりを

自分が悪いことをした、と思ったときには私たちは罪悪感を抱きがちです。

自分を責めてしまうのです。

このとき、自分の目は「悪いことをした自分」「ゆるされない自分」に向いてしまいますので、どうしても相手との「つながり」が絶たれてしまいます。

こんな時は、「悪い自分」についての罪悪感ではなく、相手への思いやりを持つべきタイミングです。

「言い訳」をしないと、相手からはいろいろな可能性が考えられてしまいます。

今日の面接のことなどどうでもよいと軽視しているから遅刻したのではないか、などという想像もできてしまいます。

そういう想像を放置しておくというのは、むしろ思いやりのない態度だとも言えるのです。

そうではなく、本当に今日の面接を大切に思っていたけれども、自分側の社会常識(交通事情の問題を考慮して早めに出る)が足りなかったために起こった事態なのだ、ということを明確にすれば、非はこちら側だけにある、ということをはっきりさせることができて、相手にとって親切です。

「言い訳はよくない」という「気遣い」の「形」についても、ただその「形」にとらわれるのではなく、本当に相手のことを考えたときに、伝えておくべき情報があるのではないか、という視点を持つことは重要です。

「言い訳する自分は潔くない」などという考え方は、「自分がどう見られるか」しか考えていないことになります。

もちろん、そこで「伝えておくべき情報」は、責任転嫁した上での他者の悪口ということにはなりません。

自分の責任は自分の責任と認めた上で、「これはあなたのせいではないのです」「これはあなたに魅力がないからではないのです」と親切に説明してあげる、と考えれば、「言い訳」も一つの立派な気遣いです。

疲れる気遣いに対しては元気になる気遣いを

疲れる気遣いと元気になる気遣いは全く対等なものというわけではありません。

元気になる気遣いには、疲れる気遣いを癒す効果があります。

しかし、その逆はない、という意味で、元気になる気遣いのほうが強いのです。

もちろん、こちらが元気になる気遣いをしていれば必ず相手が変わるということではありません。

でも、疲れる気遣いに対して「元気になる気遣い」を返していくことは、自分が相手の疲れる気遣いに巻き込まれることを防ぎ、また、相手の「不安」のエネルギーを減じていく効果があるのです。

気遣いの悩み:軽い気持ちで悩みを相談したら、あれこれ気遣われてしまい、その気遣いに対してどう応えればよいか悩んでしまった。

相手の気遣いが重いというときはありますね。

相手が疲れる気遣いをする人の場合、こちらの領域にまで踏み込んできて顔色を読んだり「余計なお世話」をしたりしてくることもあります。

この例でも、軽い気持ちで話したことなのに、相手はあれこれ気遣うという「余計なお世話」をしてしまっていると言えます。

そんな相手に対して「どうしてこの人はこうなんだろう」とイライラしてしまったり、相手を傷つけないようにと腫れ物に触るような気持ちになってしまったりすると、自分まで「不安」のエネルギーを受け取ってしまい、疲れる気遣いに入ってしまいます。

こんなときには、元気になる気遣いの原点を思い出しましょう。

相手が疲れる気遣いをするということは、相手の領域の話。

相手には何らかの事情があって、疲れる気遣いをするようになってしまったのです。

その事情の詳細はわからないけれども、何かがあるのだろうな、というふうに見ることが、相手の領域の尊重です。

相手には何かの事情があって、そしてそこからくる「不安」によって自分に対してピント外れの気遣いをしてくるのだ、というふうに見ることができれば、こちらがすべきことはやはり通常通り安心の提供ということになります。

それは、相手の要求に従って、不安を一つ一つ解消してあげるという意味ではありません。

それでは、自分の領域と相手の領域の区別がつかなくなってしまいます。

もちろん、何の負担もなく叶えてあげられるようなことなら、余裕をもって合わせてあげてもよいでしょう。

でも、自分が我慢しなければならないようなことは、する必要はありません。

必要なのは、自分の領域に責任を持つ、という意識です。

「お気遣いいただいて、本当にありがとうございます。そう思っていただけるだけで十分安心します」「お気遣いいただいて、本当にありがとうございます。今回は自分でできると思いますから、また困ったときには相談させてくださいね」などと、自分の領域を意識した流し方をすればよいでしょう。

「自分は大丈夫」というメッセージと、「あなたの気遣いをありがたく思っていますよ」というメッセージが伝わればよいのです。

このとき相手には「安心」のエネルギーだけが伝わるはずです。

相手から疲れる気遣いを受けても大丈夫、という安心感が、元気になる気遣いの第一歩です。

断わることも「つながり」の形

断わることが苦手、という人は多いと思います。

そして中には、「断らないこと」が気遣いだと思っている人もいるでしょう。

もちろん、私たちは本質的に親切な存在なのですから、自分に余裕があるときであれば相手の依頼を引き受けることが元気になる気遣いとなる場合が多いでしょう。

しかし、物理的に無理な場合、あるいは精神的にどうしても気が乗らない場合には、断らざるを得ません。

「つながり」というのは、何もあらゆることに「イエス」と言う、という意味ではありません。

自分にできないことを断わるのも、一つの「つながり」になります。

現実面だけを考えても、できないのなら早めに断ってあげたほうが、相手も別の方法を考えやすいですから、よい気遣いだと言えます。

「断ったら自分がどう思われるか」ということに目がいってしまうとなかなか断れない状態を引きずってしまいますが、「相手」に目を向ければ、早く態勢を立て直せるように協力してあげる、という考えになるでしょう。

「相手」に目を向けることは、「つながり」の基本です。

また、無理なことを嫌々引き受けて相手に対して恨めしい気持ちを持ち続ける、ということになると、姿勢はすでに「つながり」ではなくなっています。

「あの人さえこんなことを頼んでこなければ」という思いで相手を見ているとき、そこに「つながり」は感じられないでしょう。

気遣いの悩み:飲み会のお誘いを、相手を気遣いつつ断りたい。

飲み会を断わりたいのであれば、「お声をかけていただいて本当に嬉しいのですが、当日は先約があってうかがえません。

申し訳ございません。

また次の機会にぜひお誘いいただけるとありがたいです」

「ぜひ行きたいのだけど、どうしても〇〇に行かなければならなくて、ごめんね。

次もまた誘ってね」

と、「つながり」の姿勢を意識しながら断ってみましょう。

ポイントは、「誘ってきた相手には何ら不適切なところはない」と明確にすることです。

断るのはあくまでも自分側の事情によるということをはっきりさせるのです。

相手にとって、断られることは確かに愉快なことではありませんし、多かれ少なかれ自分が否定された感覚を持つのも仕方のないことです。

その際に「そもそも誘ってきたのがおかしい」というニュアンスまで受け取ってしまうと、否定された感じが倍増してしまいます。

「誘ってきたことには何ら不適切さはない」と明確にした上で、「自分側の事情でできない」と伝えれば、余計な負担をかけずに、ただ「自分が期待したことは叶えられなかった」というレベルの失望に抑えることができます。

これは重要な気遣いです。

相手との距離感に合った断り方をすることも気遣い

その際、相手との関係が近ければ、断る理由はできるだけ具体的なほうがよいでしょう。

「ああ、本当に無理なんだな」ということがわかるからです。

そうしないと、「自分のことを軽視しているのではないか」「自分のことを避けているのではないか」などと余計な想像をさせることにもなってしまいかねません。

相手にも了解可能な具体的な事情を話すということは、「自分の領域」に責任を持ち、相手に余計な気をつかわせない、ということになります。

ただし、相手との関係が遠いときにプライベートなことまでダラダラと話してしまうと、「公私混同した人」「距離感の分からない人」などと思われて、かえって相手の安心を脅かし、信頼関係の構築を妨げてしまうので、むしろ避けたほうがよいでしょう。

たとえば、相手は単に職場の懇親会に参加する人数をカウントしたいだけなのに、「兄が結婚することになりまして、当日は両家の顔合わせ会なんです。

兄は一生結婚しないのではないかと両親も心配していたので、今回兄の縁談がまとまって、家族そろって大喜びなんですね。

その席に私が行かないと、なんだか結婚に反対しているように見えるのではないか、と思ってしまって・・・」などと話すのは、「とにかく何人出席するのか知りたい」という相手の目的を考えれば、余計な時間を使わせている、空気が読めない、ということにもなるでしょう。

また、不適切にいろいろと説明してしまうときというのは、やはり「自分がどう思われるか」に目がいってしまっているとき。

相手の立場に立ってみれば、大して親しくもないのにプライベートなことをダラダラと聞かされることの違和感がわかるでしょう。

「できない」ことさえわかればすぐにでも次の人に当たりたい、という場合も多いものです。

気遣いの悩み:忙しいときに長々と話をされて困ってしまう。相手に不快感を与えずに、話を切り上げてもらいたい

このようなケースにも、「断り方」を応用することができます。

「話をこのまま聴き続けてほしい」という要望を断る、と考えれば状況は同じです。

つまり、「話をこのまま聴き続けてほしい」という要望そのものに不適切さはない、というメッセージを出すことがポイントなのです。

「忙しいのに長々と話すなんて、空気が読めていない」「つまらない話を長々とするなんて、時間泥棒」などという評価を下さず、ただこちらに時間がないために聴けない、ということだけを明確に伝えればよいのです。

「本当はもっと聴いていたいのだけど、時間がなくて残念」という姿勢であれば、話を切り上げるという「変化」への適応ストレスだけですみます。

時計を見て、「お話に夢中になっていたら、すっかり仕事のことを忘れていました。

本当に私ってだめですね」などと言えば、心は伝わるでしょう。

つながりという形にとらわれない

つながりは温かい気遣いのために重要な心の姿勢ですが、それはあくまでも心の姿勢の話。

つながりという形にとらわれてしまうと、逆に相手とのつながりが失われてしまうこともあります。

たとえば、初対面で、相手はあまり話をしたがっていないのに、つながりをつくりたくていろいろとうるさく話しかけてしまう、というのは、つながりという形の強要だと言えます。

こんなとき、あまり話をしたくないという相手のありのままと本当につながる形は、沈黙かもしれません。

相手の文化を尊重することも気遣い

日本では、人にものをあげるときに「つまらないものですが」と言うことが多いですが、国際的には「大切な相手に『つまらないもの』をあげるなんておかしい」と批判されることがあります。

これはもちろん一つの文化であり、形式的に「つまらないもの」と呼ばれている贈り物には、贈り主のセンスと誠意が込められています。

つまり、「つまらないもの」というのは、単に謙遜を表す言葉にすぎないのです。

つながりという形を追求すれば、つまらないものと背を向けるよりも、「これは私が大好きなものなので、あなたにもぜひ差し上げたくて」という言い方のほうが適切でしょう。

しかし、若い人ならともかく、一定年齢以上の人に対して、あるいは、それなりにきちんとした場面では、「つまらないものですが」と言ったほうがむしろよい気遣いになる、ということはあります。

これはどういうことなのかと言うと、相手の「文化」を尊重する、という姿勢なのです。

人にものをあげるときに「つまらないものですが」と言う「文化」を持っている人に対して、その文化を尊重することは、やはりつながりということになります。

こうして考えてみると、相手の領域は、相手の文化。

こちらがとやかく言うべき性質のものではないし、相手と同じ感覚でそれを理解し大切にすることは決してできない、ということがよくわかると思います。

つまり、「詳細はよくわからないけれども、事情があるのだろうな」という感覚そのものなのです。

「度がすぎるか控えめすぎるか」という程度問題で気遣いを考えてもうまくいかない

「安心」「つながり」という軸で気遣いを考える習慣をつけておくと、いろいろなことがわかりやすくなります。

気遣いの本などを見ると、「度がすぎるのもよくないが、控えめすぎるのもよくない」と書いてありますね。

しかし、そのような「程度問題」で考えている限り、いつまでたっても本当のところはよくわからないものです。
自分がある気遣いをしたときに、それが果たして「度がすぎている」のか、「控えめすぎる」のか、という判断は難しいからです。

また、「度がすぎないように、控えめすぎないように」ということばかり気にしていると、「自分がどう思われるか」を気にすることになってしまい、疲れる気遣いの世界に入ってしまいます。

それよりも、安心やつながりという軸で考えたほうがずっとわかりやすいのです。

たとえば、度がすぎる気遣いと言われるのは、要は、相手の領域に踏み込んだものでしょう。

不安のエネルギーでどんどん相手の領域に入り込んでしまい、相手が圧迫感や苦痛を感じているのに気付いていない、というものです。

これは、「自分が考える相手」と「実際の相手」のずれに鈍感な態度だと言えますね。

ありのままの相手をよく見ていないのです。

一方、控えめすぎる気遣いというのは、相手とつながらない姿勢です。

「自分が恥ずかしいので」遠慮してしまうのです。

つまり「自分がどう思われるか」を気にしてしまっている、ということですね。

度がすぎる気遣い、控えめすぎる気遣いがよくないのは、その「程度」によるものではなく、もともとの構造が疲れる気遣いだからだと知れば、ずいぶん頭が整理できるはずです。

まとめ

  • 話を弾ませるのではなく、相手の話を聴くのが一番の気遣い
  • 自分が安心して沈黙を楽しめば、相手も安心する
  • ときには思いやりになる言い訳もある
  • 無理してすべてのことにイエスと言うのは、つながりではない

言葉でのコミュニケーションにこだわらず、心を伝える

相手の文化を尊重する