完璧主義者をやめる

完璧主義者をやめると決めたなら、自分の人生を築く別の方法を見つけなければならない。

誰かを喜ばせたり、自分もいい気分にひたったり・・・というのはなかなか両立しないと早く理解しよう。

これは間違いだし、自分をいじめることだ。

人生を築くには、最高の自分を表現できて、いちばんやりたいことができるようになり、しかも二度と完璧主義に戻らないですむ自由が必要だ。

この自由を手に入れれば、完璧であろうとするときとそうでないとき、高いゴールに向かって一生懸命になるときと気楽にやるとき、たとえ人が首を縦にふらなくても、自分がやりたいと思うことをやるときを選べるようになる。

ほんとうの自由を味わうには、気配りや完璧主義のもとになっているものとはまったく違う現実を知らなくてはならない。

そのためには、これまで教え込まれてきた考え方の代わりに、人を喜ばせようという癖から解き放ってくれる真実に従えばいい。

ルネッサンス時代に、地球は平らだと主張していた人と同じで、今日のいい人は-もし純粋な自由とほんとうの自分らしさを得るために意識を変えるなら―子どものころに世間から教わったのとは別の人生模様があるという事実を受け入れなくてはいけない。

自分の考え方が、違う生き方を可能にする。

常識ではなく、自己本来の考え方ができるなら、自由を手にできる。

自由はたまたまけつまずいて手に入れるものでも、誰かがくれるものでもない。

注意深く主張し、育て、保護するものだ。

真実を知っても、個人の自由や成長のさまたげにはならない。

また、使命感をもち、真実を映す行動に出たときも自由を味わえる。

長い間心の中で抵抗し、葛藤したあげく、いつか使命感を覚えて立ち上がるときがくる。

真実とは、自分の命を絶たないかぎり打ち破れない人生の法則だ。

自分の人生の法則に従ったからといって、すぐに幸せになれるわけではないが、自分を豊かにしてくれるものに逆らって生きることは、自分を裏切ることだ。

自分の意志で選ぶ以外、どんな権威であろうと人を支配することはできない。

お互いに助け合う関係をつくる

幼児期には、私たちは依存心によってまわりと結びつく。

両親、家族、隣人、学校、あるいはこれらを包む地域社会といったものだ。

やがて十代になると、心理的に極端な変化をとげる。

親の支配から離れて、無理をしてもすべて自分の力でやろう、独立しようとする。

理想的には、成人すると、幼児期の依存心と思春期の独立心のバランスがとれ、人とお互いに依存し合うようになる。

これが人としてのあるべき姿だ。

人のよさも完璧主義も、依存心を引き延ばす。

自分の権利や能力を軽視して、他人にコントロールされるようになる。

自分が本来もっている興味を無視し、他人を優先させる。

個人の心の幸福を他人に預けてしまう。

一方、心が純粋に自由だと、権利の尊重と相互に依存し合うという成人の心理を成長させる。

人は依存心と独立心の両方をあわせもつものだからだ。

このお互いに助け、頼り合う関係から、自分を含むすべての人との関係、平等、正義が生まれる。

だから、完璧主義から解放されるには、依存から相互依存へ移行しなくてはいけない。

他人がどれほど助けになってくれるかを見ながら、ひとりで立ち、人生の責任をとれる大人として自分を誇れるようになるということだ。

完璧主義から自由になるためには、こうした相互関係の築き方を学ぶ必要がある。

みんなの幸せを追求する

現代社会では自分自身の幸せの追求が正しいとされる。

昔のアメリカでは逆に、まわりの人々や意識にのぼる人たちに奉仕をしなさいと呼びかけたものだ。

そうすればあなたを含む誰もが報われる、と。

この二つの倫理観は逆説的だが、うれしいことにどちらも真実だ。

つまり、「ただ単に、自分にとってよいことをするよりも、すべての人によいことをするために生きなさい。

それから自分のためにしなさい」となる。

たとえば、リサイクルや地域の環境保護グループに参加したとする。

自分たちの環境を安全でより健康的にするだけでなく、意義あることを人と一緒にする深い満足感も味わえる。

この法則の下に送る人生は豊かで、その人の存在すべてを意味のあるものにする。

こうした、一見自分を犠牲にする生き方が、じつは自己満足につながる。

人間性豊かな、社会のために生きる理想の人に近づこうという勇気が湧いてくる-つまり純粋な自分になれるのだ。

そうすれば他人の現実ばなれした基準に合わせようとやっきになることも、それに合わないといって自分を叱りつけることもない。

むしろ、人間性をモチーフに描かれた絵の一部として、自分の役割を果たせばいい。

努力が実を結ばないときは、一歩しりぞいてひたすら別の道を行けばいい。

みんなの幸せを追求するとき、すべての人を喜ばせようとすると、自分を縛りつけることになる。

だが、すべての人のなかに自分を含めれば、それは自己の解放につながる。

愛情があれば受け入れられる

愛は生命を支配する、中心的で根源的なエネルギーだ。

人が地球に現れる前から愛は存在し、それで私たちが誕生した。

愛は動かすことができない人間性の指針だから、私たちは自分の存在そのものである愛を喜んで受けるし、与えることもできる。

生きるために愛し、愛するために生きるのはこのためだ。

ある人はこうも言う-愛はすべてを超える絶対の価値で、すべてを生かす力をもつと。

たしかに、愛があるから、私たちは不安定さを乗り越えられる。

あるがままの自分として、広大な宇宙の中で安らげるのだ。

突き詰めれば、愛とは受け入れることだ。

あなたを愛する人たちは、欠点も含めて、あるがままのあなたを受け入れてくれる。

また、あなたが自分自身を欠点だらけだと思っていても、それをあるがまま受け止めるようにと願っている。

愛というコインの表で、私たちは身にあまる好意を受ける。

ドライブ中に車が故障したとき、見知らぬ人が見返りなしに助けてくれたら、愛のしるしがそこにある。

コインの裏では、愛は相手に価値があるかどうかといった判断をしない。

あなたを愛している人たちは、不完全だから、間違いを犯すから、あるいは受け入れがたい行為をするからといって、あなたを拒みはしない。

たとえ失望させられても、ただやみくもに状況をなんとかしろとは言わない。

彼らのルールを破ったとしても、あなたを裏切ったりはしない。

無条件の愛は完全なものだ。

  • 批判の対象になったり、改善の必要はない-それ以上にすぐれたものは想像できないから。
  • 全面的に受け入れる-人をありのまま、自由意志で受け入れる。
  • ベストをつくす人を大いに尊重する。
  • 相手との結びつきを完全にする-お互いの距離をなくす。
  • 希望、平和、喜びを創造する。
  • 本質的に、社会の正義や、人間性を強く押し出す。

条件付きで受け入れることの限界

完璧主義者になる原因は、受け入れられたいという根深い思いだ。

いい人になるように言われて育つ過程で、私たちは無意識のうちにこんな考え方に染まっていく-

1.条件付きで人を受け入れるのは人生の法則だ。

2.その教えにそって、最善をつくす-そのあげく、いつも完璧に近づこうとあくせくし、達成のしるしや、「よくやったね」というほほえみ、肩をたたかれる、心地よいコメント、拍手、推薦状、ボーナス、それにうわさに聞く退職時の金時計といったものに気をとられてしまう。

条件付きで受け入れられるとは、伝統的に次の3つの状態をいう。

1.可能性ある受容-受け入れられるかもしれないし、受け入れられないかもしれない。

2.部分的受容-自分の一部だけが受け入れられる。

3.一時的受容-永久にでなく、一時だけ受け入れられる。

これらは、あなたの価値を計算したうえに成り立つものだ。

相手が友情を口にしても、じつは、「こちらの基準に合う限り、君を受け入れよう。

嫌いになる理由がなければ、つきあえるさ。

その条件として僕をずっと喜ばせてね。

そうしたら、君をずっと受け入れよう」という意味になってしまう。

条件つきで受け入れることと世間一般の思惑とはそうしたものだ。

教育、美術、スポーツ、政治、それにもちろん、仕事の成功は達成度で決まる。

つまり、「人がほしがらない絵は売らない」「前回の試合と同じように得点できるだろうね」「生産性を上げられなければ、きみはクビだよ」といった具合だ。

期待、交換条件、拒絶される恐れに基づいた契約は、競争社会で人を動かす大きな要因だ。

だが、条件つきで受け入れることは限度を超えて私たちの生活にはりつき、影響を及ぼしている。

高度なレベルの働きを人にさせることもできるが、しっかりと受け入れられたいという私たちの心の奥からのニーズを永久に叶えてはくれない。

なかなか納得できないかもしれないが、条件つきで受け入れられることは、自分の価値や自分自身をどう思うかを決めたり、人生の方向づけをしたり、意味ある人間関係を築くうえで役には立たない。

たしかに自分の働きでいい気分を味わいたい、自分の成果を人からほめられたいと思うことはある。

だが、満ち足りた人生や心の安定、喜びというのは、条件つきの受容からは得られない。

ほんとうの愛情には条件などない

愛があれば、受け入れてほしい相手の気を引くために絶えず喜ばせたりしなくても、かざらない素直な自分でいられる。

つまり、あるがままの状態を受け止めとは、自分自身を受け入れることだ。

完璧主義者は、どんなに立派に行動しようと、この宇宙にうけいれられるかどうか不安に思う。

そしてこうつぶやくのだ-「ほんとうの私を知ってもらえたら・・・」と。

完璧主義者ははじめから、自分は避けられ、拒絶されると思っている。

だが、愛は誰でも何の区別もなく受け入れる

愛の前では落ちこぼれはいない。

すでに受け入れられた存在として毎日を生きれば、不安定さは消え、誰にも奪われない満足感をもってひたむきに進める。

ありのままの自分が受け入れられていると信じ、自分自身も他者も同じように喜んで受け入れることができれば、気持ちが落ち着く。

自分の性格や人間関係も変えることで、よりいっそう自分らしくなれる。

条件なしの愛から出る信頼があれば、人として成長でき、利他的な人間関係をつくれるのだ。

自分が愛されていると知り、ありのままの自分を受け入れはじめて、あるべき人生と一体であることがわかる。

無条件の愛は、ほんとうの自分になるのに必要な基盤、自由や喜びを与えてくれる。

そうした愛にこたえれば、完璧主義や自由もなく満たされもしない人間関係に、はまる心配はいらない。

まとめ

自由を手に入れれば自分のやりたいことをできるようになる。

自分を豊かにしてくれるものから遠ざかることは自分を裏切ることだ。

他人がどれほど助けてくれるかを見ながら、自分の足で立って責任を負う時、自分を誇れるようになる。

条件付きの愛情は心からの喜びをあなたに与えてはくれない。

あなたを愛してくれる人はあなたの弱点を含めてありのままのあなたを受け入れてくれる。