生きる自信がない無価値感の克服

生きる自信がない

深い無価値感ゆえに、自分を喪失し、希望を奪われてしまう人がいる。

いささか悲劇的で極端すぎると思われるかも知れない。

しかし、これらの人々の心が、無価値感を持つ私たちの心と必ずしも異質ではないことが理解される。

そして、極端な事例であるがゆえに、無価値感に翻弄されずに生きていくために何が必要なのかをより明瞭に示してくれる。

18歳の誕生日までに死にたい

2015年9月スーパームーンの夜、三重県伊勢市の虎尾山で、友達の男子高校生に「自分を殺してほしい」と依頼して女子高生が刺殺される、という衝撃的な事件が起きた。

以下、新聞や週刊誌など各種の報道をもとにこの事件について考える。

事件の現場は『半分の月がのぼる空』の舞台となった場所であり、作品中では砲台山として描かれている。

この作品は、第四回電撃ゲーム小説大賞金賞受賞作であり、若者に圧倒的に支持され、映画やテレビドラマ、アニメにもなっている。

映画のロケもここで行われたので、虎尾山は若い人達の間で恋愛の聖地となっていた。

こうしたことで、この作品は、地元の中・高校生にとって身近に感じられ、同化の対象となった作品であることは疑いない。

主人公はともに17歳の高校生、祐一と里香。

祐一は急性肝炎のため入院した市内の病院で、すでに長年入院している里香という美少女に出会う。

彼女は心臓弁膜症で、やがて自分が死ぬ可能性が高いことを知っている。

手術を受ければ助かる見込みがあるのだが、同じ病気で手術した父親がその手術で亡くなっている。

そのために手術を受ける決心がつかない。

そんな不安定な心の里香は、祐一に甘え、わがままを言って振り回す。

祐一は、思春期の異性への関心と不器用さと里香の置かれた状況への共感から里香に服従し、わがままを受け入れる。

病院から見える山が砲台山であり、幼いとき父親が連れていってくれた山だと知った里香は、祐一に砲台山に連れていってほしいと頼む。

そうしたら「覚悟ができるのかな」という里香の言葉に、祐一は夜、病院を抜け出し、彼女をバイクに乗せて連れていく。

祐一は、生きるために手術を受ける「覚悟ができるから」ということだと思って砲台山に連れてきたのに、里香はこれで「死ぬ覚悟」ができたと言う。

しかし、その後も、祐一の変わらぬ愛情により、里香は生きる希望をよみがえらせ、手術を受ける覚悟をする(橋本紡著『半分の月がのぼる空』電撃文庫、アスキー・メディアワークス)。

刺殺された彼女は、心臓を深く一突きされており、防御創やその他の傷はなかったという。

以前から、他の複数の男子生徒が、彼女から自分を殺してくれるよう依頼されたことがあるという。

また、この出来事の二ヵ月ほど前、18歳の誕生日を迎えた日に、別の男子生徒と数日間の家出をしている。

そして、このときも彼女が死ぬというのを男子生徒が説得して止めていたということである。

家族も彼女が死ぬことを心配して探している。

こうしたことから、彼女自身が望んだ死であったことは疑いない。

彼女は、成績はクラスでほとんどトップに近く、演劇部でも重要な役を演じるなど活躍している。

それでも、以前から「自分は生きている価値がない」とか「18歳までに死にたい」という趣旨のことを周囲に語っており、深い無価値感に苦しめられていた。

担任教師もそうしたことを彼女から聞いており、彼女の性格を「自己否定が強く、自尊感情が非常に薄い」ととらえていた。

家出をしたとき、家族が情報提供をSNSで呼び掛けている。

彼女は写真が嫌いだったらしく、拡散された写真はマスクをしており、目よりも上の部分しか見えないものであった。

無価値感の強い人は自分自身を好きになれない。

「自分の体の好きなところは?」と聞いても「ない」と答えたりする。

そのために自分の写真も好まない。

かつて自殺未遂を繰り返した私の教え子も自分の写真を嫌っており、たまたま同級生何名かと一緒に写った写真を見て、「私って幽霊みたいでしょ」と自嘲気味に言っていたのを痛ましく思い出す。

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傷ついている思春期の心

多数の国際比較調査によって、日本の子どもたちは、自信がなく、無価値感が高いということが明らかになっている。

とりわけ、この傾向は中学・高校の女子において顕著である。

たとえば、日本青少年研究所が日本・米国・中国・韓国の高校生を対象にした調査結果を見てみよう(『高校生の心と体の健康に関する調査報告書』2011年、財団法人日本青少年研究所)。

自分を「価値のある人間だと思う」かを問う項目に、「全くそうだ」「まあそうだ」と答えた比率は図表の通りである。

日本 米国 中国 韓国
男子 44.0 91.0 88.7 74.8
女子 26.8 88.2 86.8 75.4

図表 「自分には価値がある」と答えた子どもの比率(%)

こうしたデータから、教師や親は、とりわけ思春期の女子の傷ついている心に注意深く寄り添う姿勢が必要であることがわかる。

表面上なんら屈託のない学生が、「死のうと思って崖から飛び降りたことがある」「死のうと思って家出したことがある」「リストカットしている」などと語るので驚くことがある。

ちなみに、調査によれば、リストカットなど自傷行為をしたことがある女子高校生は14.3%に上るという(山口亜希子・松本俊彦著『女子高校生における自傷行為』2005年、精神医学)。

うつ病で服薬しているとか、摂食障害で苦しんでいるなどと聞くことは稀ではない。

若い人の自殺には、無価値感が大きく影響していることが少なくない。

彼らの遺書に、「自分は迷惑をかけるだけの存在で、生きていても仕方がない」とか「自分には何のとりえもない」などの記述が見えることがある。

また、親に繰り返し「申し訳ありません」「ごめんなさい」という謝罪の言葉を残していることもある。

いじめがかかわる自殺でも、いじめる者を責めることなく、自分の弱さを謝罪するようなこともある。

彼らにとって、それほど自分の価値は希薄なのである。

確たる自分がないと、他者に容易に同化するか、絶対的なものに自分を預けるということが生じやすい。

「18歳までに死にたい」という彼女の言葉は、生きていることのつらさの表現であるとともに、『半分の月がのぼる空』の作中人物と重ねあわせた心理でもあると思われる。

また、無価値感の強い人のなかには、直接人の役に立つことで自己価値感を得ようとすることが少なくない。

彼女が看護系の学校へ進学したいと言っていたのは、まさにこれにあたる。

生きることも死ぬことも同じ

彼女も彼も、無価値感とともに、青年期特有の現実感の希薄さの中にいたように思えてならない。

通常、大事な人から頼まれても刺すことなどできない。

むしろ、死ぬことを思いとどまるよう必死に説得する。

彼が彼女のためと思ってした行為には、祐一への同化があったのかもしれない。

祐一が重病の里香を砲台山に連れていくことは、彼女を死に至らせることになるかもしれない危険を含んでいた。

それでも、里香の望むことをしてあげたい、里香を喜ばせてあげたい、里香に命じられて従うことが嬉しい、と連れていったものである。

祐一に重ね合わせて、彼女の願いをかなえてあげたい、そうした心理があったのかもしれない。

大部分の人にとって、死ぬ恐怖、周囲の人の愛情、夢や希望など、死は幾重ものブロックによって阻まれている。

ところが、現実感覚の希薄な人は、生と死がごく薄い膜で隔てられているにすぎない。

死ぬことも、生きていることも、さほど変わらない。

両方とも怖い。

愛情や夢・希望も希薄にしか感じられず、つらくても生き抜こうとする原動力になるほどの力をもたないのである。

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「『自分』が無い」私

ここでは、秋葉原無差別殺人事件をおこした犯人Kを取り上げる。

厳しい教育

Kは母親の厳しい養育によって育てられた。

幼い頃、罰としてトイレに閉じ込められ、電気を消される。

叱られて二階から落とされそうになる。

戸外に締め出されることが多々あった。

雪で靴を濡らして帰宅したら、裸足で雪の上に立たされたこともある。

鉛筆はカッターナイフで削らされ、芯を折られて、何度もやり直しさせられた。

風呂で九九の練習をさせられ、間違えると頭を押さえつけられ、お風呂に沈められた。

「10秒ルール」というものもあり、なにか聞かれて、母親が「10,9,8・・・」とカウントダウンしている間に答えられないと、ビンタされた。

スタンプカードを作って、叱られて泣くとスタンプが押された。

スタンプが10個たまると、屋根裏に閉じ込められたり、口にタオルを押し込まれたりして、その上からガムテープを貼られるなどの罰が与えられた。

食べるのが遅いと、食事をチラシの上にぶちまけられて食べさせられた。

廊下にまかれたこともあった。

さらに食べるのが遅いと、ぶちまけられた物を口に詰め込まれた。

高学年までおねしょをすることがあり、おむつをはかされた。

そのおむつを母親は他の人から見えるように外に干した。

自分で選んで用意していた服は放り投げられ、母親が選んだ服を着ることを強制された。

家族団欒として、日曜日に家族でトランプをした。

しかし、ちっとも楽しいものではなかった。

夏休みの家族旅行も母親がすべて決めて、ちっとも楽しくなかった。

それでも機嫌を損ねないようにと、楽しいそぶりをしていた。

テレビや漫画も許されたものだけしか見ることができなかった。

反論や反抗、時には質問も許されなかった。

なぜ叱られたかわからないとき、理由を聞いたり、不満を述べたりすると、さらに厳しく叱られた。

そのために、ただ黙って受け入れ、いつでも、母の意に添わないことを言わないように、しないようにと努めていた。

母親の夢を潰す

Kは成績についても厳しく求められた。

100点取るのは当たり前で、95点を取ったら怒られたという。

中学でも学年で20番前後の成績。

夏休みの宿題の絵画や作文は、母親の言う通りに何度も書き直しを命じられ、それで賞をもらったりしたが、自分の作品と感じられず、嬉しいなどという気持ちは湧かなかった。

運動もできて、小学校卒業時のクラスメートの評価では「クラスで足の速い人」のトップに選ばれている。

中学ではソフトテニス部に入り、新人戦で入賞し、新聞に載ったことがある。

高校は県で偏差値トップの青森高校に進学した。

母親の母校であり、母親の期待した進路である。

母親は、Kが小学校のときから将来は北大工学部への進学を期待していた。

しかし、もともと好きで勉強しているのではなく、母親の求めに応えていただけなので、高校入学後は「もういいだろう」と勉強をやめ、ゲームに浸るなどして、ほとんど最下位に近い成績になる。

こうした状態で、母親はKを見捨て、期待の対象を弟に移した。

しかし、弟は高校を三カ月で中退し、引きこもり状態になった。

高校卒業後、Kは岐阜県の自動車関係の短期大学に進学した。

これは、将来自動車の設計をしたいという希望もあったが、大学進学そのものを拒否することで、有名大学生の息子の親になるという母親の夢を潰し、母親への「『しつけ』をした」ものでもあった。

後述する父親とのトラブルもあり、大部分の学生が取得する自動車整備士資格を取ることもなく、就職先も決まらずに短大を卒業した。

これ以降、いろいろな職場を短期間で変わり、仙台、上尾、つくば市、青森、静岡などを転々とする。

この間、車をぶつけて自殺しようとするなど、複数回、自殺を実行する直前までいっている。

また、孤独を埋め、自分を表現する場として、インターネットの掲示板にのめり込むようになる。

そして、自分が中心になっていた掲示板が荒らされたことなどをきっかけに秋葉原で無差別殺傷事件を起こした。

25歳のときであった。

無価値感と孤立

Kは、勉強もスポーツもできる優秀な子どもにもかかわらず、圧倒的な無価値感のなかで成長せざるを得なかった。

ちなみに、小学校の卒業時の自己紹介の欄には、「短気」「ごうじょう」「どん感」「どじ」と記入している。

中学卒業時の記念誌には、「過去を問われること」が自分の弱点であり、「心が曲っている」人格と英語で書いている。

母親の支配のために「自分」を持てなかった彼の無価値感は、強固な自己喪失の感覚と結びついている。

たとえば、高校の生徒会誌に「ワタシはアナタの人形じゃない」という『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイの言葉を掲載している。

犯行後の自己分析では、「『自分』が無い私」と繰り返し記述している。

自分がないという感覚は、自分がいきているという現実感覚が希薄であるということである。

「『自分』が無い」のであるから、「自分が」生きていようはずがないのである。

このことが、通常の心理では理解不能なほどに掲示板に依存することにつながる一因である。

こうした人にとって、現実の世界と仮想世界との壁は非常に薄いものとなる。

さらに、孤立することに強い恐怖がある。

それは、母親への愛着が形成されなかったためである。

「戦闘で命を落とすとき、兵士はよくお母さんと言うんだ。あれは胸が痛む。私はもう五か国語で聞いている。」

(デーヴ・グロスマン著、安原和見訳『戦争における「人殺し」の心理学』のなかのフランク・リチャードスン少将の言葉。ちくま学芸文庫)

このように、子どもや青年が最後の最後に帰っていくのは母親の元である。

しかし、彼にとって母親はそうした存在とはならなかった。

この究極的な帰る場のない心の絶望的状態のために、孤立は大きな恐怖と感じられる。

Kには、実際には学校時代からの何人かの友達がいる。

それぞれの職場でもある程度の友人関係ができている。

しかし、彼の無価値感と他者への信頼感の欠如のために、そうした仲間と安定した関係が結べない。

「私の頭の中にいる人の頭の中には私がいない」。

つまり、「私が頭の中に友人を思い浮かべても、その友人は私のことは考えていない、と私は感じてしまう」のである。

このために、自分から友達に働きかけるということができないし、対等の関係での付き合いにならない。

友達とは自分が楽しませてあげないといけない存在なのである。

だから、友達から頼まれると、必要以上に張り切る。

「東京でのイベントで入手できるゲームを頼まれた時には始発で出かけて何時間も並び」買ってあげたし、「秋葉原で入手できるCDを頼まれた時には、その他にもサービスで関連グッズを詰め込んで」送ってあげた。

メールに写真を添付して送ってあげたときには、その「1枚の写真のために数万円を注ぎ込んでいても、それを友人たちに楽しんでもらえたなら、私は幸せでした」というほどである。

このように、現実の世界では、対等のなんでも言い合える関係で結びつくということができない。

この孤立感を埋めるものとして、インターネットの掲示板に依存することになったのである。

掲示板と自己存在

Kによれば、現実は「タテマエ」社会であり、「本心をブロックし」て、相手や第三者が望んでいること、社会的に好ましいとされていることを言い、行う社会だという。

これに対し、インターネットの掲示板は「ホンネ」社会であり、ホンネを言って、ホンネで交流できる場であるという。

それゆえにKにとっては、掲示板こそ本当の自分が存在できる場なのである。

掲示板での彼のキャラは無価値感を色濃く反映している。

「不細工は生きる意味がない」
「不細工だから彼女ができない」

など「不細工キャラ」を演じている。

実際には「そこまで不細工ではない」と言うが、自分を不細工キャラと表現すること自体、無価値感の表れである。

Kは現実社会で失敗を罰せられ、失敗することを許されなかった。

しかし、掲示板ではその失敗を自虐ネタとして笑ってもらえる。

だから、「掲示板は開放感があり、楽な場所」であった。

さらに、自虐ネタなどで人を苦しませることができるということは「その人のために自分が何かをさせてもらえているということ」であるので、「幸福感、満足感」があった。

こうしたことで、空き時間はほとんど掲示板に費やし、掲示板が生き甲斐になっていた。

ところが、やがて、Kを装う「成りすまし」が現れ、成りすましがKになってしまった。

それはKにとってホンネの自分が否定されたことであり、自分という「存在が殺されたということ」であった。

自分を傷つけた他者に罰を与える

Kは自分という「存在を殺した」成りすましを反省させてやろう、罰を与えてやろうと考えた。

このときに、Kの独特の思考・行動様式が犯行へと導く。

彼は、事件に至った原因を自己分析し、次の3点を挙げている。

・「社会との接点の少なさを全て掲示板でカバーしていた私の生活」
・「掲示板でのトラブルをトラブルにしてしまった私の性格」
・「痛みを与えて相手の間違いを改めさせようとする私のものの考え方」

三番目に挙げた彼の独特の考え方とは次のようなものである。

幼いときから、Kは母親から拒絶されたり、叱られたとき、言葉でなく罰として行動で与えられた。

それゆえに、叱られる理由や罰を与えられる理由を自分で考えねばならず、また、叱られれば全面的に自分が悪いと受け止めるようになっていた。

こうしたことで、「掲示板で宣言したうえで、その通りに大事件を起こし、それを報道で知った成りすましらに痛みを与えること」で成りすましを罰しようとしたのである。

これは彼の行動に通底する思考法である。

たとえば、会社で同僚との間にトラブルが起きたときも、自分が会社を辞めることでその同僚を心理的に罰しようとした。

整備士の資格を取らないで短大を卒業したのも、奨学金として得たお金を父親が渡してくれなかったので、父親に反省させるための行為であった。

犯罪を思いとどまる要因は多々あるが、一つは他者、とりわけ親しい人とのつながりである。

そうした人を思い浮かべたとき、彼らを悲しませ、苦しませる行為は実行に移せない。

苦しいときにはそうした人に相談したり、頼ったりすることで切り抜けるのが普通である。

しかし、彼にとって、それはダメな奴、使えない奴と思われることなのでできなかったし、それは相手に負担を負わせることであり、そんな自分が受け入れてもらえると信じることもできなかった。

こうしたこともあって、そもそも「人に相談をするという発想が無かった」

犯罪を思いとどまる要因の二つ目は、本人の個人的要因である。

そのうち重要なものは、これからも生きる自分であることに思いを向けることである。

これについてKは、「自分がない」ということは「将来がない」ということでもあり、「私は、自分のことはどうでもいい人です。(中略)どうなってもいい、とやぶれかぶれなのではなく、単純に、自分で自分の将来に興味が無いということです」と書いている(『解』)。

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母親の呪縛

『私は親に殺された!』という衝撃的な表題は、自身を赤裸々に表した著書の題名であり、「東大卒女性医師の告白」と副題がついている(小石川真実著、朝日新書)。

自分を真摯に見つめ、無価値感に苦しむ姿とそれを抜け出ようとするあがきをリアルに描いており、無価値感の苦しみを自己実現の力に転換する例として多々学ぶべきことがある。

以下、この著書により彼女の姿を見ていくこととする。

完璧を求められる

彼女は、「全てに完全主義で、何事にもたった一つの模範解答しか認めない、型通りの優等生だった」母親に育てられた。

たとえば、彼女が「生まれる前から育児書を丹念に読み、そこに書かれていた『生後何カ月の子どもは、何時間おきに何mlずつ』という授乳量を、1mlも違わずに私に飲ませようとした」母親であった。

このために、幼児期には「既に母は私にとって絶対に正しく、善であり神のような存在」であり、「絶対逆らってはならない人、逆らっても無駄な人」になっていた。

彼女は運動神経が全然だめで、鈍くさい子だった。

そうしたこともあり、「母が私に見せた表情といえば、”何でこんなこともできないの!どうしてこんなことしかできないの!情けないったらありゃしない!”という気持ちでいっぱいの、眉間に皺を寄せ、目を吊り上げた顔ばかりだった」。

勉強はよくできたが、「両親が全くと言っていいほど、私を褒めなかった」。

「例えば学校のテストで繰り返し100点を取っても、他人は皆、目をみはって褒めてくれたが、両親だけはけっして褒めてくれなかった」。

実際母親は、「子どもを褒めることは、子どもをいい気にさせて駄目にすることだから、子どもを本当に愛している親はけっしていない」という考えであった。

彼女にとって「母の評価が全てだった。その母から『情けない』『つまらない』と嘆かれることは、『お前には生きている価値がない』という”死刑宣告”に等しかった。

これは全然大袈裟ではなく、母から少しでも嘆かれると私の存在そのものが危機に瀕してしまう状況は、私の精神疾患が大きく改善する40歳近くまで続いた」。

だから、「”自分はこの世に生きていてもいい人間”という、最低限の自信が獲得できていなかった。」

幼い彼女が「他人は誰もありのままの自分を受け容れないと確信する」ようになる出来事を記述している。

それは、小学校一年生の夏休みの作品展でのことである。

自分が作った作品と実質的に母親が作った作品の両方を提出したが、自分が作った作品を先生からも否定されるという出来事が起きた。

「本物の自分の作品を否定されたことで、ありのままの自分では母をはじめとする大人や社会の評価に堪えないと、完全に自信を喪失した」という。

こうしたことで「他人の中にいる時にはいつも、皆が自分を嫌がっているのではないかと著しく不安で、コチコチに緊張するため、他人と一緒にいると猛烈に疲れてしまい、苦痛に感じるようになっていった」。

自分ではない自分を演じる

彼女が小学校一年生のときに弟が誕生した。

弟はダウン症の障害を持っていた。

あるとき、彼女が何か母親の気に入らないことをしたとき、母親は「洋ちゃん(弟)連れて死んじゃうから!」と、彼女を脅した。

彼女はそれを「100%真に受けて、心臓が止まりそうになった」。

そして、それ以後、「母は弟の障害を武器に、私を自分の思い通りにコントロールできるようになった」。

こうして、「表に現れる自分の行動を全て母の気に入るようにするだけでは足りず、頭の中の感じ方や考え方まで全て、母と同じになるよう、自分で自分に強制するようになった」。

そして、「母が私に対して”こういう意志や欲求を持ってくれたらいい”と望む期待を先取りして、心底自発的にそういう意志や欲求を持つというところまで、自らに強制してしまった」。

弟が障害を持っているその姉という「”こういう星の下に生まれた以上、私は将来医者になって弟と同じ病気の子ども達を助けなければ、人として許されない”という思いにつながり、私はその思いで自分で自分を強く縛ってしまった」。

小学校5年生頃から、自分の本音をことごとく抑圧して意識下に封じ込め、自分じゃない「母親もどき」を生きていることを自覚することで、「自己嫌悪と罪悪感で憂うつだったのだろう」。そんな彼女を、母親は、小五頃から急に悪い子になった、ととらえていた。

母親からは繰り返し、「あんたは協調性がなくて、お友達から嫌われる子」と評され、何をやってもボロボロにけなされた。

そのために何に対しても自信が持てず、友達の輪に入っていけなかった。

「自身の存在価値に最低限の自信さえ獲得できていなかった私にとっては、学業成績だけが頼みの綱であり、支えであり、生き甲斐に」なっていた。

父親もしつけが厳しい人で、ときにカッとなって娘に暴力をふるうようなこともあった。

しかし抽象的、道徳的観念を教えてくれた。

とりわけ、「自分がやられて嫌なことは絶対他人にやるな」ということと、「自分なりの目標を立てて、達成するまで頑張り抜け」という教えは大事なこととして受け止めている。

とくに後者に関しては「目標を達成した時に自分の価値が実感できるし、目標に向かって努力している間にも進歩や成長の喜びが実感できる。

そして自分の価値が実感できれば、自分を愛し、大切にしようと思えるようになる」からであるという。

「人生に価値を作ろう」

中学は、国立大学の付属中学校を受験し、合格した。

中学時代に、「知的な面での精神世界は爆発的に広がり、深まり、高まった」。

それは、ある優秀な男子生徒に恋したことに一因がある。

「彼と対等に話ができるようになりたい一心で、ガムシャラに勉強し」、そうしたこともあり、卒業時にはトップの成績であった。

この時期、級友との関係も割合安定していた。

しかし、たとえば、調理実習や林間学校の飯盒炊爨など、自分がやると迷惑をかけるのではないかと思って入っていけず、集団活動は苦痛であった。

また、期待された役割を生きる自分を抜け出す萌芽も自覚している。

それは、「小学校まで母に秘密を作れなかった私が中学生になると作れるようになった」ことである。

そして、「絶対支配を受けながらも他方で健康な自我が育ってきたことが、後の精神疾患の発病を促した」と本人は分析している。

自分の存在価値を確認するためにも、また、両親の期待に応え、彼らの見栄を満足させるためにも、できるだけ偏差値の高い高校へ入りたかった。

それで、東大への女子の進学者数が多い国立大学の附属校を受験し、合格した。

成績だけが自分を支えるものであり、学業成績の維持に固執した。

「自分に全く自信のなかった私は、他人と付き合うと非常に緊張して多大なエネルギーを消耗した」ので、孤立を恐れず、休み時間も勉強に当てた。

そして、「自分はこの世に生きていてもいい人間だという、最低限の自信を獲得する手段として”日本一の学力の証明=”東大理三合格”」という目標にすっかり呪縛されてしまった。

高1の夏から高2の秋にかけて、13キロ減量するという過激なダイエットを行った。

それはアイドルタレントに憧れたことと、「自分を極限まで虐めて生きている実感を得る」ためであった。

高校前半には、個々の人間や人生には本当に意味や価値があるのかという疑問に取りつかれた。

「『価値』や『意味』という概念自体、人間の感受性から生まれたものである以上、人間の感じ方以外に、何も根拠は存在しない。

結局人間は、自分達が心地よく感じるものに高い価値を付与し、自分達が不快に感じるものには価値を認めないという生き物に過ぎないのではないか。」

「そう考えてくると、価値や意味など全く無意味に思えて、自分の存在がますます虚しくなった。」

「何とかして自分の心を救い、ポジティブに生きたかった私は、人間には無条件で価値があると信じ、かつ自分の人としての感性を信じることにした。

そして時々刻々、自分の奥底に問いかけて、これでいいと確信できる行動を積み重ねて人生に価値を作ろうと決めた。」

高2の3学期、彼女とは「対照的に、他の誰にも左右されない、しっかりした自分を持つ」級友が何げない言葉をかけてくれた。

「(あなたは)他人から嫌われると思い込んで、いつもびくびくしてるみたいだけど、そんなことないよ。普通だよ。だからびくびくする必要なんか全然ないよ」。

この言葉に大きなショックを受けた。

それは、「あんたは嫌われる子」と言われ続けて作ってきた自分の姿であり、それが「自ら進んで自分に嵌めてきた母親の鋳型を外したら、自分には何も残らない気がした」からである。

この言葉が、その後の、うつ病や境界性人格障害発症の発端になったが、「病気になったからこそ、本当の自分を探す長い旅の出発点に立てた」と受け止めている。

こうして、母親の鋳型を外し、本当の自分を作る試みを始める。

「その手始めに、まず”これは好き””これは嫌い”というところから始めた」。

これは割合うまくいったが、「”自分はもともと何がやりたい人間だったのか”という、自身の欲求については、いくら自分に問いかけてもわからなかった」。

うつ病、リストカット、そして快方へ

うつ病の症状に苦しむなどして成績が下がり、東大理三が無理で理二を受験して合格した。

ところが、自分よりはるかに優秀な学生たちに接して、「存在価値についての自信欠如を、長年知力の優越により代償してきたのに、その唯一の拠り所が崩壊」してしまい、「再び”生きる値打ちのない人間”という自己認識に、容赦なく直面させられ、生きる希望を失った」。

しかし、理二から医学部に進学するという目標に労力を集中することで安定し、無事医学部に進学し、症状に苦しみながらも医師になった。

医師の「白衣は私の自尊心の拠り所」となったが、うつ病の罪業妄想で「私はゴミ、いや毒。私は生きていても何の役にもたたないばかりか、他人や社会に迷惑をかけるだけ。私が消えてなくなることが、一番みんなのためになる」などと口走ったこともあった。

リストカットの症状もあり、「針で刺して痛みを感じている間だけ胸の苦しさが忘れられて、とても楽になった」。

そして、針よりも、剃刀で切る方が「皮膚をなぞる数秒から十数秒の間痛みが続いて、そのぶん長く胸の苦しさを忘れることができた。」

さらに、リストカットは皮膚にとどまらず、橈骨動脈を切るほどに深くなっていった。

「痛みが強ければ強いほど、自分で自分を罰しているという満足感が得られ、多少なりとも罪悪感を減らすことができた」からである。

自殺の試みは30回以上あり、強制入院を含む数回の入院も体験している。

こうしたなかで、「話をちゃんと聞いて、思いをしっかり受け止めてくれる」医師に出会い、心理的安定が得られ、解放に向かっていく。

「生まれてから54年間、人間性にしろ能力にしろ、自分の値打ちを何とか親に認めて欲しいという執着を捨てられずにきたが、とうとうそれを諦めることに決めた。

たとえ親から認められなくても自分という人間にはちゃんと価値があるという自信が、(中略)社会の中で生きてくるうちに、遅ればせながら私にも徐々に育ってきた」からである。

現在は弟を引き取って医師として勤務している。

以上三つの事例から、無価値感に翻弄される人生にならないために、以下のようなことが大事であることが理解される。

  • 人生に早すぎる決断を下さないために、自分の生命の意味を確認すること
  • 孤立するのではなく、周囲の人々と心通じ合う関係を持つこと
  • 自分を取り戻し、自分自身を信頼すること
  • つらくても夢を目標として持ち続けること