見捨てられ感を味わった子どもは、「自分はもともと何かいけないんだ」という恥に満ちた自己否定のメッセージを心に刻みます。

心の奥で反響するそのメッセージを繰り返し聞き、それに影響されることで、「なされるがまま」の犠牲者的パターンがいつものことになります。

犠牲者たちは、自分の感覚を信じない態度を身につけてしまっており、他人の感覚のほうが間違いないと思っています。

この人達は疑うという道具を放棄してしまい、他の人が「物事はこうなっているんだ」と言うと、いともやすやすと同意してしまうのです。

犠牲者は、質問することをしません。

「話すな」「感じるな」「信頼するな」というルールに加えて、「質問するな」「考えるな」というルールを学んでしまったのですから。

自分の価値を信じていないため、犠牲者は自分を守ったり健康を維持したり安心できる状態で過ごすといったニーズが自分にあることさえわからないことが多く、その結果、自分の面倒をみることができません。

怖れによって動かされていて、傷ついても失望しても、虐待されてもなお、怒りや憤りといった感情を認知することができないのです。

何が必要か、何がほしいのかと聞かれても、全く分からないことが多いのです。

犠牲者としての反応は、自分が無力だと思いこんだ結果でもありますが、同時に一種の防衛反応でもあります。

状況に降参し自立を放棄してしまえば、さほどひどい痛みを感じなくてもすむだろうと思い込んでいるのです。

犠牲者は痛みにひたすら耐え、他人の理不尽な行動に耐えることに慣れてしまっています。

日々の出来事や感情に対して、無理な理屈で自分を納得させたり、大したことではないと切り捨てたり、あるいは単に事実を認めなかったりする訓練を重ねることで、自分自身から感情を切り離しているのです。

誰かの行動によって傷ついても、すぐには気付きません。

気付いてしまえば無力感に襲われるか、余計に面倒が増えるだけだと考えているからです。

こうした人は他人とつきあおうとしない場合もあります。

一方、自分が犠牲者であることを周囲にアピールする場合もあります。

「私がどんなひどい目にあってきたと思う?私にこんなことをするなんて、本当にひどい人達よね!私はじっと耐えるしかなかったのよ」と。

犠牲者でいることが、生き方そのものとなっているのです。

そして、見捨てられたり、利用され虐待されたために自分はダメになったんだと、いつも感じています。

安全や安心を得られるような行動をとることができず、さらに見捨てられたり虐待される結果を招いてしまうのです。

特徴的なのは、その人の自己否定感が強ければ強いほど、さらに自己否定感をもたらすような相手を人生に招き入れやすいということです。

犠牲者にはよくあるのですが、その相手というのは一見、能力があって行動的で、一緒にいれば弱い自分を守ってくれそうな感じの人なのです。

けれどこうした二人の行きつく先はといえば、魅力的だった相手が支配者となって、犠牲者を情緒的にも身体的にも打ちのめす結果になることが多いのです。

犠牲者は親密な関係において自分を守るということが困難です。

たとえばそれが女性の場合だったなら、かわいがられ気にかけてもらうことにあまりにも飢えているため、他人との間に安全で
適切な境界をつくることが難しいかもしれません。

自己評価が低く、好きになった相手を理想化してしまう傾向は、彼女の判断を鈍らせるでしょう。

相手の望みを察知してそれに合わせ、自動的かつ無意識のうちに相手に従ってしまうため、自分は弱い立場となって相手に権力を与え、優位に立たせてしまいがちです。

自分を防衛するはずの方法が、危険を正確に感じ取るのを難しくしているのです。

こうした理由によって、男性でも女性でも、自己否定感の強い人というのは、繰り返し犠牲者となる危険が大きいのです。