境界性パーソナリティ障害など重いレベルの精神疾患の場合、精神分析療法が逆に症状を悪化させてしまう危険があるということは、精神医学の歴史における一つの苦い教訓であった。

その理由の一つとして、境界性パーソナリティ障害では、自我機能が脆弱で、客観的に自分を振り返る力が弱いため、枠組みがしっかり構造化されていないと、ますます混乱してしまうということが言われてきた。

では、認知(行動)療法のような枠組みのしっかりした治療なら、境界性パーソナリティ障害に効果的なのだろうか。

たしかに、ある段階にまで改善したうえで行うと、目覚ましい効果が得られる場合もある。

しかし、通常の段取りで認知(行動)療法を行っても、なかなかうまくいかないことが多い。

ドロップアウトするか、行き詰まるかのどちらかになってしまうのが現実だ。

構造化により、自我機能の脆弱さを補うだけでは十分ではないのである。

カウンセリングでも、こうした要素が存在することは、以前から知られていた。

同じ方法で治療していても、ある人では効果がでるのに、別の人では惨憺たる結果になってしまう。

これは、患者だけでなく、治療者についても言えることであり、両者の関係がかかわっているとも考えられてきた。

こうした要素は、非特定因子と呼ばれ、未だに特定されていないのだが、それに対する一つの答えが、愛着スタイルや愛着の安定性であるように思える。

そして、この非特定因子は、単なる残余ではなく、治療法本体に劣らないくらい重要な部分を構成しているように思える。

実際、通常の精神療法や治療ではなかなかうまくいかない状態には、愛着障害がひそんでいることが多い。

逆に言うと、どういった治療法をとるにしろ、難しいケースが改善するという場合には、愛着障害の部分に、うまく手当てが施されているのである。

そのことは、治療者自身にあまり意識されていない場合もある。

治療法の中心というよりも、外縁的で補助的な部分と考えられている場合もあるが、実は、そこが一番大事なのである。

補助的と思われている部分が、本当は中心で、中心と思われている部分は、補助的な働きをしているのに過ぎないということがある。

愛着障害があるケースでは、まさにそうした事態が起きているように思える。

もっと正確に言えば、愛着障害の部分に手当てがされ、その部分が改善することで、他の部分も変化を受け入れる準備が整い、働きかけが有効になるのである。

そこに手当てがされない状況で、変化を起こそうと働きかけをしても、ただ跳ね返されるだけで終わってしまう。

そのことを印象的に表現した言葉がある。

俳優のマーロン・ブランドの母親はアルコール依存症で、そのため彼はあまり母親からかまってもらえずに育った。

彼が演技に目覚めたのは、彼が物真似をしたりして面白いことを演じるときだけ、そんな母親も彼を見て笑ってくれるという幼い日の経験からだった。
ブランドは、青年になると、心に巣食う空虚感に悩まされるようになる。

それは、後に彼が俳優として大成功し、多くの女性にちやほやされるようになってからも、まったく良くならなかった。

ある時彼は、自分の憂鬱の発作が、母親と会った後で強まることに気づいた。

彼はその答えを得ようと、精神分析の治療を数年にわたって受けるが、徒労に終わった。

彼はそのときの分析医について感想をこう述べている。
「しかし返ってきたのは氷のように冷たい態度だけだった。

この男には、およそ温かみというものがなかった。

診療所の備品さえも寒々とし、足を踏み入れるたびに身震いしたくらいだ。

彼は特定の心理学派のルールに従っていただけかもしれない。

だが彼は人間の洞察力に欠けていて、私には何の助けにもならなかった」(マーロン・ブランド『母が教えてくれた歌―マーロン・ブランド自伝』)

精神分析は、患者が語る言葉をひたすら聞き、それに対して、共感ではなく解釈を与えることによって、洞察を生み出すという治療である。

転移、つまり治療者への愛着を利用し、患者に心を開くことを求めながら、患者がそうすると、それを温かく抱擁するのではなく、分析という刃で冷たく切り刻むことで応えるのだ。

不安定な愛着しかもたない者が、そんなことをされたら、ひどく愚弄されたように感じ、不安定になるのは当然なことだ。

しかし、分析医にとっては、患者に同情したり、優しくすることが仕事ではない。

フロイトの症例分析を読めば分かるように、その治療は知的なプロセスであり、ほとんど暴力的なまでの分析を患者に突き付け、患者の心の奥底に隠れている醜い欲望の正体を暴き出し、それに向き合わせることで、回復をもたらそうという、いわば”知的ショック療法”なのである。

もちろん、そうした方法に疑問を感じ、例えばコフートのように、共感というものを重視するだけでなく、治療者が親代わりとなって積極的に甘えを受け止めることの重要性に気づいた人もいたが、認知的操作を重んじる精神医学の伝統とも、効率的管理主義が強まる医療の流れとも相容れず、そうした考えは、それ以上の発展をみることなく居場所を失ってきた。

ところが、そうした知的な操作をいくら行ったところで、愛着障害は少しも改善しない。

どころか、患者は治療者の「冷たさ」にイライラし、怒り出すか失望する。

癒しを求めているのは、患者のなかにある愛着障害であり、その本質的な障害にとって、知的分析も認知的な操作も空疎なだけであり、肝心の問題をないがしろにされたとしか感じられないのである。

しかし、心理的治療では、確率は低いとはいえ、成功するチャンスもあったが、薬物療法に至っては、薬物依存という代償を払いながら、安定剤や睡眠薬という避難場所を提供するのが精いっぱいだった。

それでも、何の安全基地ももたない人にとっては、絶望や死から守ってくれる最後の砦だったのであるが。

このように、通常の精神医学の方法では、根本にある障害を改善することは期待し難いのである。

残念ながら、今も行われ続けている精神医療の大部分は、愛着や愛着障害が、種々の精神疾患の成因や回復において、どれほど大きな役割を果たしているかということについて、十分な認識や対処の術をもたないのが現状なのである。

これは悲しむべき事態だと言えるだろう。

心を扱うはずの精神医学が、心を支える土台ともいうべき愛着を扱うことを軽視し、回避してきたのである。

そこをないがしろにして、生物学的側面や認知的側面ばかりを問題にしても、根本的な修復どころか、とっかかりの部分で躓いてしまうのである。

その人の感情や行動を統べている認知的プログラムを修正するにしても、愛着障害のケースでは、そこにアクセスすることが容易でない。

プログラムを修正するためには、まず通過しなければならない関門がある。

その関門を開ける鍵となっているのが愛着であり、安定した愛着が成立しない限り、プログラムの修正も起きないのである。