批判的な「トーン」は気にしない

自信を感じたくても、それを他人によって脅かされてしまうときがあります。

ここでは、そんな状況をどうとらえていったらよいかを考えていきましょう。

自信を打ちのめす代表選手が、他人からの「批判」でしょう。

そもそも、突然人からネガティブなことを言われる、という体験は、衝撃的であることがほとんどです。

衝撃を受けると、強烈な「自信のなさ」を感じるものです。

そしてそれは「なりすましの自信のなさ」ですから、あまり深刻にとらえる必要はありません。

「ああ、衝撃を受けたのだな」と思って、もともとやっていたことに戻り、「今はこれでよい」と思いながら回復を待つ、というのが基本です。

しかし、それだけでは不十分だと感じる人が多いでしょう。

なぜ「批判をちゃんと受け止めなくては、成長しない」「自信があれば、批判されても大丈夫なはず」などという思い込みがあるからです。

ですから、自分が批判されたとき、「ああ、衝撃を受けたのだな」と軽くながしてしまうと、まるで逃げているような気がして、自信を失ってしまうかもしれません。

ここでは、そのあたりを整理して、批判への向き合い方を考えてみましょう。

批判には「お前はダメだ」というトーンがある

人から受ける何らかのコメントには、「内容」と「トーン」があります。

批判について言えば、「ここを改善した方がよい」というのは「内容」であり、「お前はダメだ」というのが「トーン」です。

同じ「ここを改善した方がよい」という「内容」でも、「よくがんばっているけれども」という「トーン」で言われれば、ずいぶん感じ方が違いますね。

実際に、最も人を上手に育てることができる人は、「今はこれでよい」というメッセージと、「これからはこう改善しよう」というメッセージを同時に出すことができる人です。

言われた側は、自分のがんばりを認めてもらった喜びと同時に、「もっとがんばろう」とやる気を感じることができるのです。

これが、人を最も成長させる形です。

しかし、「お前はダメだ」というトーンで言われてしまうと、「自分はダメだ」というところに意識が向いてしまいます。

落ち込むだけでなく、自分を正当化するいろいろなことを頭の中で考えはじめることもあるでしょう。

すると「今」に集中することができなくなるので、力をフルに発揮することができません。

批判から学ぶべき点があるとすれば、それは「内容」の話。

「お前はダメだ」というトーンは、むしろ進歩を妨げます。

中には「悔しさをバネにしてがんばった」という人もいるでしょうし、「成果」を上げているかもしれません。

しかし、「BEの自信」という観点からは危なげなものです。

なぜなら、「悔しさ」というのは、あくまでも「相手を見返してやりたい」という気持ちだからです。

これは「相手に勝つ」「相手を見返せるだけの成果を上げる」という「DO」にしかならず、「BEの自信」につながる、そこはかとない自己肯定感とはほど遠いもの。

実際、悔しさをバネにがんばって「成果」を上げたけれども、何かのきっかけで折れてしまったという人をよく見かけます。

また、悔しさをバネにがんばった人は、他人にも悔しさをバネにがんばることを要求します。

一方、きちんと苦労した人は、その過程で、悔しさよりも感謝を感じていることが多いようです。

そして、かつて自分に悔しい思いをさせた人のことも、寛大な目で見られるようになっているものです。

とにかく、悔しさがそのまま自信につながることはないと言ってよいでしょう。

衝撃による「なりすましの自信のなさ」に加えて、「お前はダメだ」というダメ出しをされると、自分についての感じ方が悪くなるのは当然のことです。

ですから、批判をされてへこむのは、なんら恥ずかしいことではありません。

「何を言われても平気な人」というのは幻想なのです。

ポイント:批判には「内容」と「トーン」がある

批判する人を「自信のない人」と見る

ただし、「何を言われても平気な人」に限りなく近づくことは可能です。

それは、「人を批判する人は、自信がない人」という見方をすること。

これは単なる方便ではなく、実は本当のことです。

一般に、人を批判する人は上から目線で自信満々な様子でいるものですから、自信がある人と思われがちです。

しかし、これは大変な勘違いなのです。

他人に対して批判的な人は、基本的に自信のない人です。

自信がある人なら、どんな現実でも受け入れられるからです。

自分に対して「今はこれでよい」と思える人は、他人に対しても「今はこれでよい」と言うことができるのです。

それは、自分にとってだけでなく、他人にとっても、あらゆる現状が必然だということを知っているからです。

自分も他人も、与えられた条件の中で一生懸命がんばってきた結果が、現状なのです。

ですから、相手に何か改善を期待するときにも、そのトーンは「今はこれでよい」「よくがんばっている」になるでしょう。

そんなトーンで、内容(「これからはこうした方がよい」「ここをこう変えるとよい」)を明確に伝えることができるのです。

これが、ドロドロした感情の伴わない、的確な指導の仕方です。

きちんと苦労した人にはそういう「教え上手」が多いものです。

きちんと苦労した人は、人間それぞれががんばっているけれども、限界もある、ということをよく知っています。

ですから、他者に対して批判的な態度を取らずに、上手に育てることができるのです。

事情をよく聞けば、「そういうことなら仕方ないね」と現状を肯定することになるかもしれませんし、改善が必要だと感じても「そういうことならこういうやり方をしたらどう?」など、相手の努力を尊重した提案になるでしょう。

「お前はダメだ」というトーンを伴う批判をしてくる人は、そういうことができない人なのです。

「BEの自信」がなく、自分の「成果」に基づく「DOの自信」しかない人は、自分のやり方以外を認めない、ということです。

これは、批判的な人にそのまま通じる姿勢です。

自分以外のやり方を認めない、すなわち他人の事情が考えられないのです。

ですから、相手から批判されたら、「ああ、この人は自信がない人だから、自分のやり方を押しつけないと不安なんだな」「相手の事情をとりあえず聞いてみようと思えるほど、人間ができていないんだな」という目で見てみましょう。

本当に自信がある人はこんなやり方をしないはずだ、ということは確かに言えることだからです。

そうやってネガティブな「トーン」については「相手の自信のなさ」として受け流し、「内容」で役立ちそうなところがあったら、それだけを採用すればよいでしょう。

ただし、「採用したこと」が必ずしもすぐにできるものではない、ということは頭に入れておいてください。

なんにせよ、批判されることは衝撃的である場合が多いからです。

衝撃への「一連の反応」が起こっている間はとても冷静な判断をすることなどできませんし、一体どの部分が「役立ちそうな内容」なのかを見極めることも難しいものです。

どうしても、「自分はダメだ」という感覚が刺激されていますので、「お前はダメだ」という「トーン」まで引き受けてしまうリスクがあります。

ですから、内容を取り入れるにしても、しばらく間をおいてからの方がよいかもしれません。

なお、ここで述べてきた「内容」と「トーン」は、そのまま、「形」と「あり方」と言い換えてもよいものです。

相手が提案してくる「形」は採用できるかもしれない。

しかし、ネガティブな「あり方」からは、できるだけ影響を受けないようにしないと、こちらの「あり方」にも影響が及んでしまい、自信を損ねてしまう、というふうに区別して考えるとよいでしょう。

ポイント:批判は、「トーン」を受け流し、「内容」のよいところだけ採用する

「そう思います?」と言い返す

では、実際に他人からネガティブな評価を下されたときに、自信を取り戻すためには、どのように対処したらよいでしょうか。

最も簡単な基本形は、相手が下した評価を、単に「相手が下した評価」としてお返しすることです。

それ以上の意味づけをしないのです。

「早く結婚しなくちゃダメよ」と言われたら、「ああ、そう思います?」と言えば十分です。

相手はそう思った、ということを確認するだけで、自分の話として引き受ける必要はありません。

これは実は、「すり抜け述」ではなく、核心を突いた話です。

そもそも評価とは何か、ということを考えれば、評価は単に「相手が下した評価」として扱うのが妥当なのです。

評価は、私たち人間に備わった一つの防御能力のようなものです。

何かを見たときに、自分が知っていることに基づいてそれがどのようなものであるかを位置づけ、危険を避けようとする機能です。

十分な情報はまだ得られていなくても、自分のデータベースに照合してとりあえず位置づけるのです。

そして、「怪しい」と思えば距離を置き警戒し、「安全だ」と思えば近寄る、という具合に、自分が下した評価に基づいて相手との関係を決めていきます。

もちろん、追加情報が得られる中で評価が変わってくることもあるでしょう。

評価をすること自体は、安全に生きていくために、生物としての私たちに備わった自己防御能力のようなものなので、特に悪いことではありません。

ただし、それが「自分自身の現時点での評価」だということを忘れなければ、です。

評価というのは、今の自分が、自分の性格や価値観、生育環境、ここまでの経験、今の体調などの結果として下すもの。

機嫌がよい日には「まあ許容範囲」と思えるものでも、機嫌が悪い日には「我慢ならないもの」になる場合もあるでしょう。

また、かつての自分には「受け入れられなかったもの」が、今の自分にとっては日常の一部になっている、ということもあります。

自分の中でもそのように一定しない評価ですが、これが別の人間となると、ますます違ってきます。

ある人にとっては「常識」であることでも、他の人にとっては「神経質過ぎる」ことだったり、逆に「無神経」ということになったりします。

自信のある人にとっては「まあ、大丈夫なんじゃない?」ということでも、自信のない人にとっては「そんなのあり得ない!」ということにもなるのです。

そもそも、何らかの評価を下す際のもとになる情報量にも偏りがあることが多く、ある人に対して「〇〇なんじゃない?」と評価を下すときには、あくまでも「自分が知っている情報に基づけば」という条件がつくのです。

ですから、評価については常に「自分自身の」現時点での評価、という意識を持っていることが必要で、それを忘れて真実であるかのように相手に押し付けてしまうと、暴力的にすらなるのです。

「相手の評価」は「相手の評価」としてお返ししよう

そして実際に嫌なことを言われるとき、というのは、相手がそれを真実のように押しつけてくるときですから、評価とは本来なんであるかを思い出させてあげればよいのです。

つまり、「あなたはそういう評価を下したということですね」と言ってあげればよいのです。

どれほど体型を気にしていても、「君、意外とぽっちゃりしているんだね」と言われたときに、その内容を「やっぱり」と引き取って傷つく必要はありません。

自分が何を気にしていようと、相手が自らの評価を押しつけてきているというのは事実です。

ですから、「ああ、そう思う?」と言えばよいだけなのです。

こんなふうに、何を言われても「ああ、そう思う?」「へぇ、そう思うんだ」と返せばよいということを知っていれば、「何か言われたらどうしよう」と不安になって自分についての感じ方を損ねることもなくなるはずです。

どんな状況でも動じずに、「ああ、そう思う?」「へえ、そう思うんだ」という秘密兵器でやっていける自分、というのは「そこはかとない安心感」を抱かせます。

これは職場などでも同じことです。

上司や同僚など、いちいち批判的な人もいます。

そんな人が身近にいると、どうしても自信を感じにくくなってしまいます。

自分についていつもダメ出しをされるわけですから、よい感じ方ができなくなるのも当然です。

しかし、そんなときにも今述べたこととは同じです。

「君は何をやらせてもダメだね」などと言われても、「そうですか、すみません」と言えば十分です。

相手が上司の場合、さすがに「ああ、そう思う?というわけにもいかないでしょうから、言い方は「そうですか、すみません」にしておいた方が無難でしょう。

ここでの「すみません」は、謝罪ではありませんし、自分がダメな人間だと認めたという意味でもありません。

自信がない相手にお見舞いの一言として「すみません」を言ってあげるのです。

そんな余裕の一言が言える自分については、よい感じが持てるものですから、自信が損なわれることはありません。

ポイント:お見舞いの一言「すみません」もつける

心配してくれてありがとうと伝える

そうは言っても、肉親など、単に「へえ、そう思うんだ」で済ませたくない相手もいます。

自信がなく不安であるために批判的なことを言ってきているのであれば、少しは安心させてあげたい、ということもあるでしょう。

例:何を言っても親に否定されるので、すぐに自信がなくなってしまう。

親は全般に心配性なものです。

我が子に苦労や危険を味わわせたくないので、何かに評価を下す際、「安全が確保されていない要素」には特に敏感になってしまうのです。

否定的な親が多いのは、とにかく「我が子が心配」だからなのです。

もちろん、どんな親も我が子の安全を願っているのですが、自信のある親は、ある程度のリスクを受け入れることができます。

特に、子どもが成人した大人なのであれば、「子どもには子どもの人生がある」と思えるでしょう。

仮に子どもの人生に自分が望まないようなことが起こったとしても、「まあ、あの子がそれを選んだのだから」と受け入れる努力ができるのです。

自分とは違う人格である子どもを認めるというのはそういうことですし、そういう姿勢でいれば自分についてよい感じ方ができますので、自信を感じることもできます。

子どもが大人になってもなお「なんでも否定」という親は、それだけ自信がない人なのだと考えればよいでしょう。

一般に、子離れができない親は、自信がない人なのです。

そして、ここでの「何を言っても否定」という現象を、単なる否定ととるのではなく、「頼むから不安にさせないでくれ」と子どもに頼んでいるようなものだと見れば、その構造がよくわかるはずです。

自信のない親が求めているものは、安心。

しかし、話す内容を親が望むものに変える必要はありません。

ただ、「心配してくれてありがとう。でもここでやらないと後悔すると思うから、がんばってやってみるね」などと自分がそうしたい「内容」を、できるだけ安心させるような「トーン」で言えば、不毛なケンカに陥らずにすむでしょう。

自分に対して否定的な相手に向けて、ただ感情的になってケンカになる、という以外の「大人のやり方」ができる自分には、よい感じ方ができますね。

実はこれは、自信のない親に対しても「今はこれでよい」と認めていることになります。

親には親の事情があって、現在のような「自信がない人」になっているのでしょう。

ですから、「親のくせに、もっと子どもを信頼できないのか」などと親の現状を否定するのではなく、親に対しても「今はこれでよい」と言ってあげられる自分については、よい感じ方ができるはずです。

誰に対しても「今はこれでよい」と思うのは、自信を支える重要な「BE」の状態の一つです。

ポイント:他人にも「今はこれでよい」と言う

相手の不安に巻き込まれない

こちらの自信を脅かしてくるのは、批判的な人だけではありません。

過剰な期待を押しつけてプレッシャーをかけてくる人もそうです。

例:「君ならもちろんノルマを達成できるよね」と上司からプレッシャーをかけられて、自信がない。

ノルマが達成できるかどうかは未来の結果についての話。

その安全は確保されていませんから、常に不安があります。

そこを刺激されると、不安が強まり、それが「自信のなさ」として感じられてしまいます。

この手の不安が「なりすましの自信のなさ」です。

しかし、このケースでは、「なりすまし」の加害者は上司です。

常に未確定な要素がある未来の結果を、「自信がある君ならもちろんなんとかしてくれるよね」と、確定することを強制してきているのです。

この構造を明確にするために、相手が本当に言いたいことに翻訳してみましょう。

それは、「君がノルマを達成してくれないと私は困るから、不安だ。助けてくれ」ということなのです。

困るのも、不安なのも、助けてほしいのも、実はすべては上司の事情です。

自分の事情を自分の事情として引き受けることができない人は、相手にプレッシャーをかけたりするのです。

本当に言いたいこと、つまり、「君がノルマを達成してくれないと私は困るから、不安なんだ。助けてくれ」と言ってくれれば、こちらはプレッシャーから自信をなくしてしまうどころか、「上司のためにがんばってみよう」と思える自分についてよい感じ方をすることができるでしょう。

同じ、ノルマ達成の仕事であっても、「自信がない」と思いながらするのと、「よし、上司のためにがんばるぞ」と自信を感じながらするのとでは、気分も、そしておそらく「成果」も、違ってくるでしょう。

プレッシャーをかけられたときには、頭の中の「翻訳機」を通して、「相手の不安」として見るようにしましょう。

そうすれば、自信を感じながら仕事に取り組めます。

この例は、我が身を振り返る際にも参考になる視点です。

自信のない人は、人が「不安だ」などと言うと、まるで自分がプレッシャーをかけられたかのように感じてしまうのです。

しかし相手は単に自分の気持ちを話しているだけで、プレッシャーをかけているつもりなどない、という場合もあります。

ですから、人が「不安だ」と言ったときには、「この人が不安なんだな」と、相手のこととして位置づける習慣をつけるようにしましょう。

もちろん、相手の不安を和らげてあげるのは親切なことですし、「相手のためにがんばってあげよう」という気持ちになっているときは、「自分」に目が向かなくなりますから、自分についての感じ方もよくなるでしょう。

つまり、「相手の不安」として引き受ければ、自信にもつながるのです。

ポイント:プレッシャーを「相手の不安」と受け止める