自分が嫌いな人が自信をもつための心理

自分が嫌いな人とは

自分が嫌いな人とは自信がない人のことである。

自分が嫌いな人は人と比較して弱点ばかりに目がいき、自信を失ってしまった。

そんな自分が嫌いな人が自信をもつための心理を記したい。

自分が嫌いな人は、背伸びして生きている

自分が嫌いな人は自己主張しないからといって主張したいことがないかというと、そうではない。

言いたいことはある。

心の底では普通の人よりも自分が嫌いな人はわがままだから、言いたいことは普通の人よりもたくさんある。

だから、おとなしくしているが、自分が嫌いな人は普通の人よりも心の中は不満でいっぱいである。

しかし、その不満や言いたいことが言えない。

なぜ言いたいことを言えないのか?

それは自分が嫌いな人は皆に気に入られたいからである。

自分が嫌いな人は気に入られるために自己主張ができない。

自分が嫌いな人はそこで不満を感じる。

不満に思うけれども自分が嫌いな人は自己主張はできない。

悪循環になっていく

したがって、気の弱い自分が嫌いな人が黙っているからといって満足しているわけではない。

自分が嫌いな人は八方ふさがりになって黙っているだけである。

不満は日に日に自分が嫌いな人は心の底に蓄えられていく。

自分が嫌いな人はだから不眠症になったりするのである。

自分が嫌いな人は本人がそれに気がついているときもあるし、気がついていないときもある。

しかし普通の人よりも自分が嫌いな人は不満は解消されない。

小さい頃から、自分を抑えることで気に入られようとする習慣が身についてしまっている

そこでいつでも言いたいことを自分が嫌いな人は我慢する。

しかし、自分が嫌いな人は不満であることには変わりない。

たとえば、コンピューターを勉強することが嫌いだったとする。

しかし自分が嫌いな人は「嫌い」と言うと親に嫌われると思い「好き」と言う。

心の優しい子どもは自分が淋しがると親が悲しむと思い、つらい気持ちを抑えて明るくふるまうことも多い。

その不満が抑圧されていることもあるし、意識されていることもある

明るく人あたりのよい人のなかに、自分が嫌いな人はものすごい不満がたまっていることがある。

このような自分が嫌いな人は、ずるい人間にとっては扱いやすい人間である。

自分を抑えることで人に気に入られようとしている自分が嫌いな人は、ずるい人間にとって都合がいい。

そのような利己的な人間が周囲には集まる。

皆にとって都合がいい人間になることで自分が嫌いな人は気に入られようとする。

自分が嫌いな人は「尽くしているのに気に入られない」のはなぜか?

大人になっていろいろと問題を起こす自分が嫌いな人は、そうした付き合い方が身についてしまっている人である。

そこで自分が嫌いな人は心の底には不満が積もりに積もっていく。

自分が嫌いな人は毎日毎日、不満が心の底に堆積していく。

本人が気がつかないうちに、自分が嫌いな人はその不満ははかり知れないほどの量になっている。

それがその自分が嫌いな人の性格に影響を及ぼさないわけがない。

自分が嫌いな人は上司に気に入られようと思って自分を抑える。

自分を抑えて、上司にとって都合のいい存在になる

自分が嫌いな人は部下に気に入られようとして自分を抑える。

自分を抑えることで自分が嫌いな人は部下にとって都合のいい上司になる。

自分が嫌いな人は自分を抑えるといっても、相手のことを思いやって自分を抑えるわけではない。

相手を恐れるから自分が嫌いな人は自分を抑えるのである。

そして心の底では、自分を抑えていない人よりもずっとわがままである。

普通の人よりもひどく自己中心的である

普通の人よりも自分が嫌いな人はずっと利己主義である。

それを気に入られたいがために、自分が嫌いな人は普通の人よりもはるかに思いやりのある態度をとるのである。

このようにして自分が嫌いな人が我慢をしていれば、それが性格に影響を及ぼすのは当然である。

自分が嫌いな人は皆とうちとけない性格になるかもしれない。

自分が嫌いな人は他人の幸福を素直に喜べない性格になるかもしれない。

自分が嫌いな人は親しい人とさえも心をふれあえない性格になるかもしれない。

自分が嫌いな人はなによりも恨みがましい性格になるにちがいない。

人のために行動していながらも、なんとなく人望がないという自分が嫌いな人がいる。

それは、気に入られるために相手にとって都合のいい存在になった人である。

しかし、心の底には自分が嫌いな人ははかり知れない不満が渦巻いている。

その恨みがましい自分が嫌いな人の性格が、人をひきつけないのである。

気に入られたいという気持ちのために、自分が嫌いな人はどれくらい自分を痛めつけているかわからない。

そしてどのくらい自分が嫌いな人は自分の攻撃性を抑圧しているかわからない。

攻撃性を意識できたときに、はずかしさを克服できる第一歩を歩みだしたと言える

そしてはじめて人に対する思いやりというものを持てるようになる。

自分自身の満足よりも、自分が嫌いな人は相手の満足のほうが大事になっていないか

先に「不満は日に日に心の底に蓄えられていく」と書いた。

このような人はどうなるか。

はじめはなんとか取り繕っていても、次第に顔が暗くなる

自分が嫌いな人は性格が暗くなる。

そして暗い人はどうしても人に好かれない。

好かれるために自分が嫌いな人は我慢しながら、結果的には人が親しくなりたくない人間になってしまう。

自分が嫌いな人は自己主張できないから第三者には謙遜と映ることもある。

しかし人に謙遜と映っても、その自分が嫌いな人自身は謙遜したあとで満足しているのではない。

自分が嫌いな人は不満になっているのである。

謙遜と映っても、自分が嫌いな人は暗い顔をしていると人は避ける。

そして暗い自分が嫌いな人は皆が避けるから、結局幸運も訪れない。

「笑う門には福来る」という格言は、実は恐ろしいことを言っているのである

逆に言えば「幸福論」の第一人者タタルキェヴィチが言うように、自分が嫌いな人は犠牲を払うから幸せになれないということである。

暗い自分が嫌いな人は努力しながらも報われない。

我慢に我慢を重ねながらも、自分が嫌いな人はなぜか幸運が逃げていく。

努力しても自分が嫌いな人は結果が悪い。

自分が嫌いな人は努力が無駄になる。

そこで恨みだけが自分が嫌いな人は残る。

仕事一つをとってみても、暗い人は努力しても、その成果は明るい人に持っていかれる

「持っていかれる」といっても、明るい人が持っていこうとして持っていくわけではない。

自分が嫌いな人は自然とそうなってしまうということである。

努力した結果を暗い自分が嫌いな人は強く求める。

努力している人で、かつ暗い自分が嫌いな人は、何よりも結果が大切なのである。

しかしは肝心の結果はいつも望ましくない。

その結果自分が嫌いな人は落ち込む。

不満だから落ち込むのである

多くの人が集まって仕事をする。

周囲の人は、明るい人にその成果を期待してしまうのである。

一時は人の悪口を言うのがおもしろくても、長い間には明るい人と一緒にいるほうが愉快である。

暗い自分が嫌いな人と一緒に人の悪口を言っているのは、結局は愉快なものではない。

長い間には、人の悪口ばかり言う人のまわりには、同じように暗い性格の自分が嫌いな人しか残らない。

このような人達のところに、誰がいい話を持ってくるであろう。

どうして人の悪口ばかり言っている自分が嫌いな人の集団に、幸運の女神が訪れるであろう。

幸運の女神は悪口ばかり言う人を避けてとおる

そして、悪口ばかりいう自分が嫌いな人は、満足していないから人にやさしくなれない。

人はやはり優しい人が好きなのである。

やさしい人のそばにいたがる。

その方が結局は、自分も心が温かくなる。

自分の中に”自分が嫌い”が住み始めたら、まわりを見ること

「私は今まで努力してきた、つらい努力を続けてきた、我慢に我慢を重ねてきた、でも何もかもうまくいかなかった」と思っている人は、まず自分のこころを見つめることである

自分が嫌いな人は不満を感じている自分の心を見ていないことが多い。

人の悪口ばかり言う自分の心のなかにあるものは何か、ということである。

自分自身を見つめたら、自分が嫌いな人は次に周囲の人を見ることである。

自分が嫌いな人は自分のまわりにはどのような人が集まっているだろうか。

不運の原因は自分自身の周囲にいる人が原因であるかもしれない。

あなたの周囲にはあなたと同じように自分が嫌いで不満ばかり持って、愚痴を言って、人の悪口を言って、そして時を過ごしている人が多いのではなかろうか。

「うまくいかないときにはまわりをみること!」

自分が人脈と思っている人達こそが自分が嫌いな人の不運の原因かもしれない。

人の悪口ばかり言う集団に自分が嫌いな人はいつまでも属していてはいけない。

あなたの人生は変わらない。

ある教授は、昔はつらいことが多かった。

努力は死ぬほどした。

努力に努力を重ねた。

誰にも負けないほど努力した。

ノイローゼになるほど我慢した。

でも幸せは訪れなかった。

あるときに教授は自分の周囲の人を見た。

驚いたことにその人と同じように自信のない人ばかりであった。

悪口を言う人、人の悪口を言っていないと気が済まない人、そんな人ばかりであった。

人の成功をねたましく思う人間であった。

そんな自分が嫌いな人が幸せになれるはずがない。

人の成功をねたましく思う自分が嫌いな人は、血の出るような努力をしても幸せにはなれない。

自分が嫌いな人はどんなに努力しても幸せになれるはずがない。

自分が嫌いな人は死ぬほど努力しても幸せになれるはずがない。

自己犠牲に自己犠牲を重ねて自分が嫌いな人は人に尽くしても、幸せはこない。

人の悪口ばかり言っている人と離れる

それがその自分が嫌いな人のある時期の生活目標であった。

そして自分も変わった。

幸せをつかむ人、自分が嫌いな、のがしやすい人

努力している人でも駄目な人は駄目である。

自分を偽って努力している自分が嫌いな人は暗い顔をしている。

自分が嫌いな人は恨みがましい顔をしている。

自分が嫌いな人は執念深い顔をしている。

どんなに努力して表面は立派に見えても、そういう自分が嫌いな人は幸せにはなれない。

なぜなら、そういう人は人の幸せを心の底では喜べないからである。

人の幸せを喜べるようになって、自分にも幸せが訪れる

つらいことだが、この逆も真実なのである。

自分が幸せになるきっかけを自分が嫌いな人はつくらなければならない。

ある人は仕事の目標のように、日常生活の目標として明るい人と接するように心がけた。

仕事の時間を割いてでも、明るい人と一緒にいる時間を作ろうとした。

名誉やお金が欲しいときに、仕事もしないで、ただボーっと人といるほうを選択することはつらい。

それが無駄に自分が嫌いな人は思える。

仕事をしているほうが、どうしても有効な時間の過ごし方に思えてしまう。

したがって仕事をしないでいることは自分が嫌いな人にとってつらい。

しかし、無駄としか感じられないその時間が、自分が嫌いな人の歪んだ自分の心をいやしていくのである。

努力しても幸せになれないは、自分の努力が足りないと思ってはいけない

自分が嫌いな人は「もっと努力すれば幸せになれる」と思ってはいけない。

努力する方向がそういう人は間違っているのである。

自分が嫌いな人は接する人が間違っているのである。

相談する相手を自分が嫌いな人は間違っているのである。

人の悪口ばかりいう人に自分が嫌いな人は何かを相談してはならない。

自分が嫌いな彼らはあなたの幸せを祈って相談には乗らない。

自分が嫌いな人は必ずあなたの夢を否定するようなことしか言わない。

たとえあなたの心が高揚していても、そういう人に相談すると気持ちはしぼんでしまう。

悩んだ時には相談する相手を間違えてはいけない

悪口を言っている人は、自分が嫌いなあなたの悩みが消えることを望んではいない。

いつも悪口を言っている自分が嫌いな人は他人の不幸が楽しいのである。

努力しながらも、この人生で悪いことばかりしかなかった人は、接する人を変えることである。

そして、その人たちの明るさをもらって自分も明るくなることである。

仕事や勉強の努力よりも自分が嫌いな人はそのほうが大切である。

努力しながらも、この人生で悪いことばかりしかなかった自分が嫌いな人は、仕事で成功することによって幸せになろうとしてはいけない。

また人生の皮肉であるが、表面だけ立派な人間になることによって幸せになれるものでもない。

自分が嫌いな人も「その人らしさ」に人は魅かれる

人は明るい性格になることでしか幸せにはなれない

明るい性格というと誤解する人がいるかもしれないが、素直な性格という意味である。

何も、無暗に笑ったり大きな声を出したりしているという意味ではない。

その人らしい明るさという意味である。

明るい性格になるためには、悪口集団、愚痴集団から抜けることが大切である。

自分の気持ちが復讐的になっているときには、明るい集団よりも悪口集団のほうが居心地がよい。

心の中が不満でどろどろしているときに自分が嫌いな人は悪口を言うのは、何か気分がいい。

痛快である。

そうなってくると、自分が嫌いな人はやさしい人と接するよりも、悪口を言う人と接しているほうが気がまぎれる。

だから、

自分のまわりにやさしい人がいるのに、意地の悪い人とつきあってしまうのである

そして、どうしても冷たい人との付き合いの方に自分が嫌いな人は重きがおかれる。

そのほうが快適なのである。

しかしこれは自分が嫌いな人にとって麻薬と同じ快適さである。

悪口集団に自分が嫌いな人が属してしまうのは、目先の心理的安楽を求めるからである。

心の中がどろどろしているときには、自分と一緒になって悪口を言ってくれる人が慰めになる。

しかしこのツケは大きい。

こういう生活を自分が嫌いな人はしていると、いざ自分に幸運がめぐってきても、その幸運をつかめない。

チャンスがまわってきても、チャンスをつかめない

自分が嫌いな人は晴れ舞台が恐ろしくなっている。

大きな仕事が自分が嫌いな人は怖くなっている。

日々の生活の垢が出たのである。

したいことはある。

しかしいざ出番がまわってくると自分が嫌いな人は怖くて出られない。

しかし出たい。

下積みをしていれば、誰だって人の悪口を言いたくなると思うかもしれない

それはそのとおりである。

しかし下積みの時期に、その人がどのような態度でいるかが問題なのである。

下積みの時期に自分が嫌いな人は文句ばかり言うから助けてくれる人が現れないのである。

「この下積みで自分の願いがかなう」と思う人と、「私がこんなにしているのに」と不平不満で文句ばかり言っている人とでは顔がまったく違ってくる。

自分が嫌いな人が苦労を明るく笑える時を迎えるには

下積みの時期には誰だって脚光を浴びている人の悪口を言いたくなる。

しかしそのときに自分が嫌いな人は悪口ばかり言う人間になるか、明るい顔で下積みの時期をすごすかで、後の人生は違ってくるのではなかろうか。

仕事で大をなした人で下積みの時期がなかったなどという人がいるだろうか。

この下積みが、自分の願いを叶えるためのステップと思うことができれば笑える。

しかしそう思えなければ、自分が嫌いな人は心の中はどろどろとした不満が渦巻くことになる。

下積みをステップと考えて明るく笑っているひとと、「自分はこんなにやっているのに」と不満で暗い顔をしている自分が嫌いな人と、どちらに幸運が訪れるであろうか。

下積みは無駄ではない

そこで人間が鍛えられ、人の痛みがわかる人間になれる。

下積みの時期を自分が嫌いな人が無駄にしてしまうのは、その人の生きる姿勢なのである。

もう一つある。

「私は苦労した苦労した」と言う自分が嫌いな人がいる。

確かに苦労している。

しかし、

はたから見ると、「何もそんなに苦労しなくてもいいのではないですか?」と言いたくなることもある

それは、その自分が嫌いな人の苦労の原因が、人を押しのけてでも自分が偉くなりたいからだと見えることがあるからである。

あまり「苦労した苦労した」と言われると、「苦労はあなたがしたいからしているだけでしょう」と言いたくなるのである。

そういう自分が嫌いな人は下積み時代に「誰も私を助けてくれなかった」のではなく、「私自身が歪んでいたから、皆が私を助ける気にならなかった」と言ったほうが正確なのである。

幸運体質―自分が嫌いな人が幸せを呼び込む人になるには

アメリカの鉄鋼王A・カーネギーが「俺のまわりには俺より頭のいいのがたくさんいる」と言ったそうである

だから彼は成功したと言うのである。

そのとおりであろう。

個人の力など知れたものだ。

しかし、やはりカーネギーの力であると思う。

それは彼の明るさ、素直さである。

自分のまわりに自分より優秀な人がいることを嫌う人だっている。

自分の部下が自分より優秀であることを喜ばない上司だっている。

社長を長く務めるコツは会長より有名にならないことだという人もいる。

カーネギーをして鉄鋼王たらしめたのは、自分より優秀な人が自分の周囲にいることを喜んだ、彼のその懐の深さなのである

彼がもし、自分の部下が自分より優秀であることを嬉しく思わなければ、彼は鉄鋼王にはなれなかった。

彼のその大きさ、明るさが彼に幸運を運んできた。

幸運とは、毎日の積み重ねなのである。

彼が素直で、部下の才能を伸ばすことを喜んだからこそ、優秀な人が集まり、そして優秀な人が逃げていかなかった。

やはり明るい人には福が来るのである。

不満を持って生きている自分が嫌いな人は、幸福とか幸運は毎日の積み重ねであることを理解しようとしない。

悪口を言う人は、自分で自分の世界を狭くしているのである

自分が嫌いな人は質の悪い人ばかりを自分の周囲に集めてしまう。

それが不運のはじまりである。

悪口を言っている仲間の外でも、自分が嫌いな人はその仲間内で通用する顔で出て行く。

仲間の中での顔で自分が嫌いな人は仲間の外に出て行く。

それは人々にとって愉快なものではない。

人は友人知人に明るさを求めているからである

人は暗い自分が嫌いな人と一緒にいると「何かこの人、気になる人だなあ、何かこの人と一緒にいると気分がふさぐなあ」と思う。

その自分が嫌いな人と接したあと、理由はわからないけど気持ちがよくない。

別れたあと後味が悪い。

もう一度会いたいとは思わない。

人は去り、情報も去り、幸運も去る

悪口を言っている間に自分が嫌いな人は幸運も去っていくのである。

悪口を言っている、その一時は気持ちがいいかもしれない。

しかしその代償は自分が嫌いな人には大きい。

悪口を言っている間に自分が嫌いな人は「なぜあの人が幸せになれるのか、なぜあの能力のない人が成功できるのか」を真剣に考えたほうがいい。

自分が悪口を言っているその人がなぜ伸びるのか?

それを考えてみるのである。

「あいつはずるい、あいつは厚かましい」と悪口を言っている間に自分が嫌いな人は「なぜその厚かましい人が伸びるのか」を考えるほうが生産的である。

おそらくそこに、自分が嫌っている人間の長所が見えてくるのではなかろうか。

あるいは、自分が気がついていない自分の弱点を見つけるのではないか。

「今がチャンスだ!」という言葉を聞き逃さないために

自分が嫌いな人は悔しいなら、悪口をいいながらでもいいから、真剣に自分もその人のように伸びてみようとしてみることである。

恨んでいる間に自分が嫌いな人は、その人の生き方を学んでしまったほうが生産的である。

恨んでいるよりもそのほうがはるかに生きている。

世の中なんてくだらないと自分が嫌いな人が未練たらたら言っているよりもはるかに、心理的に成熟した生き方である

その、何かものごとがうまく回転しているような幸運な人の周りには、やはり明るい人が集まっていないだろうか。

その人達の周囲には悪口が絶えないのではなく、明るい笑い声が絶えないのではなかろうか

悪口集団、愚痴集団に自分が嫌いな人は属していると、いつまでも自分達の弱点には気がつかない。

皆、自分達の弱点を認めることを拒否している集団であるから気がつくわけがない。

また、そのような悪口集団は弱点も隠すし、失敗も隠す。

それらを屁理屈を自分が嫌いな人は言って認めない。

その集団の中では自分が嫌いな人はそのような言動が通用するが、外では通用しない。

外の人はなんとなく不快感を持つ

そこで運が逃げる。

そこでまた悪口を言うことに自分が嫌いな人は逃げるという悪循環が繰り返される。

優しい人には人が「今がチャンスだ!」と教えてくれる。

だから優しい人には幸運が微笑む。

しかし人の悪口集団では自分が嫌いな人は仲間に「今がチャンスだ!」とは教えない。

自分が嫌いな人は一緒に悪口を言うが、仲間で足を引っ張り合っている。

「どう思われるか」ばかり気にしていると自分が嫌いな人は相手の本質を見抜けない

社会的な力というのは複合的なものである

コンピューターができる、語学ができる、経理の知識がある、数学に強い、体力がある等というものだけではない。

それなのに、悪口を言っている自分が嫌いな人は力とは技術的なものだけだと勘違いしている。

決してそんなことはない。

まず性格が明るいか暗いか、服装のセンスはどうか、どの人のかもし出す雰囲気は、人格は、なんとなく話しやすい人か、話しにくい人か、それらが一緒になって力になるのである。

技術的な力を力と思い込んでいる人は、たとえば根回しを馬鹿にする。

しかし根回しの才能は重要である。

なぜなら、人を見抜く力があるかないかで、根回しの成功失敗は決まるからだ。

人を間違えて自分が嫌いな人が根回しをすれば、黙っていても成功するものまで失敗する。

人を見抜く力は、その人が本物か偽物かのリトマス紙でもある

自分が嫌いな人は、自分が傷つかないように自分のことばかりに執着している相手を見抜けない。

防衛的性格の人は相手を見抜けない。

相手からよく思われることにばかりに自分が嫌いな人は気をとられて、相手を見ていないかあらである。

悪口集団を抜ける努力を自分が嫌いな人はすることのほかにも、いろいろとすることはある。

自分が嫌いな人は自分の雰囲気を変える。

自分が嫌いな人は服装を変えてみる。

今まで「そんなことくだらない」と言っていたことは、実は大切なことなのである

「そんなことはくだらない」と言っていたのは、大切と認めることが怖かったからである。

とにかく自分が嫌いな人は、悪口を言っている間にこつこつと地道な努力をすることなのである。

その姿勢が、その人に幸運をもたらす。

人を嫌う前に、まずすべきこと

ある人は悪口集団の家庭に育った

ある人の父は口を開けば人の悪口を言っていた。

親戚の偉い人から、新聞に出る偉い人に対してまで、のべつまくなしに悪口を言っていた。

それがその人の性格をずいぶん歪めたと思う。

楽しいことを話すことが、こんなに素晴らしいことかと知ったのはもう三十歳をすぎてからであった。

本当は、親というのは子どもの前で楽しい話をしてあげるものである

それが子どもの心理的成長にとって、どれほど助けになるかわからない。

そしてそれは、それ以後の子どもの人生の財産である。

子どもの人生で、お金を与えるよりも、楽しい話をしてあげることのほうがどれくらい大切なことであるかわからない。

子どもの頃に楽しい話をしてあげる親は、悪口ばかり言って遺産を残す親よりも、子どもに人生の財産を残したことになる。

お金持ちの子どもが幸せな人生を送るとは限らないのである

子どもと一緒に悪口を言う自分が嫌いな親がいる。

あるいは子どもが親の悪口に同意して「そうだそうだ」とうなずかないと不機嫌になる自分が嫌いな親もいる。

悪口を言って、それでどうなるというものでもない。

でも悪口を言わないではいられない。

恥ずかしがり屋の人にとっては、誰でもが潜在的に宗教裁判長である、とジンバルドーは言う

自分が嫌いな人は母親でさえ、裁判官であるという。

自分が嫌いな人はこれでは生きていてたまらない。

自分が嫌いな人は生きていて楽しくない。

自分は、皆から、母親からでさえも裁かれる身なのである。

誰も自分を守ってくれない。

この感覚は小さな子どもにとってはたまらない。

この世に生きることが怖くなって当たり前である。

おびえるのが当たり前である。

自分が嫌いな人は悪口を恐れる

皆から悪口を言われるのではないかと自分が嫌いな人はいつも恐れている。

そして人から陰で自分は悪口を言われているのではないかと不安になる。

それは、いつも人の悪口を自分が嫌いな自分が言っているからである。

つまり、自分が嫌いな人は母親でさえも心の底で悪く思っているということでもある。

自分がいつも悪口を言っているから、人の悪口を恐れるのである

人を悪く言う時に、非難というより悪口と表現したほうがよいことがある。

あいつはお金ばかり欲しがっていると悪口を言う自分が嫌いな人は、その人自身が、お金ばかり欲しがっているのである。

悪口を言うのは相手が自分と同じことをしているからである。

だから、悪口ばかり言う自分が嫌いな人には反省がない。

自分の非は認めたくない

だから自分が嫌いな人は自分の非と同じ非を持っている人の悪口を言うのである。

しかし、このような人は努力が無駄になる。

先に記したように、悪口ばかり言っている自分が嫌いな人からは幸運が逃げていくからである。

人の悪口ばかり言う人は狭い世界で生きることになる。

改めて自分が嫌いな人は、周りの人は悪口集団か、ほんとうに優しい人達か見回してみることである。