「自分は自分」と割り切れば嫉妬から自由になれる

人は自分にあるものには鈍感で、ないものばかりを欲しがり、勝手に不満を募らせたりしている。

「会社の後輩に対して、嫉妬してしまう自分がみじめだ」と訴える女性がいる。

自分は一般的なサラリーマン家庭に生まれ、取り立てて美人でもないし、すごい特技があるわけでもない。

ところが、入社してきた後輩は、モデルのような容姿をしているだけでなく、帰国子女で英語もペラペラだ。

自分と彼女を比べても意味のないこととはわかっていても、つい嫉妬し、うらやましい感情を抱いてしまうのだ。

男でも嫉妬心の強い人間はいる。

たとえば、同期が自分より先に出世すると妬ましく思う。

そのことを悟られたらみっともないから隠してはいるが、「何とか、こいつ失敗しないか」などと相手のミスを願ったりする。

これは、これで情けない。

他人に対して尊敬や憧れを抱くのはいいが、嫉妬や羨望はできるだけ持たないことだ。

ある三十代男性は会社の上司に尊敬している人が何人かいる。

彼らの言動を観察して参考にさせてもらったし、何かあったときなど相談にも乗ってもらった。

しかし、その男性なりの距離感は保っていた。

相手の立場に立てば、あまり近づきすぎるのも失礼だと思ったからだ。

それに、どれほど尊敬して憧れようとも、男性は彼らに替わることはできない。

自分は自分、人は人。

この大前提を見失ってはならないのだ。

嫉妬や羨望は、「自分もあんな人になってみたい」と思うところから始まる。

ほとんどの嫉妬や羨望は、距離の近い人に対して抱く。

テレビ画面の向こうにいる美人女優や会ったこともない成功者には、憧れこそすれ嫉妬はしない。

ところが、友人とか同僚など自分との距離が近いと違ってくる。

かけ離れた存在ではないだけに、「もしかしたら、自分もこの人のようになれるのではないか」と考えてしまう。

しかし、実際にはなれない。

なれたとしても二番煎じだ。

別人なのだから、どうしてもその人に替わることはできない。

絶対に替わることができない別人になろうとして、「できない」という当たり前の現実にイライラする。

それが嫉妬の正体ではないだろうか。

そう考えると、嫉妬や羨望はいかに意味のない感情かがわかるはず。

「自分を幸福だと思う人が、幸福な人なのだ」とは、ペルシャの国王プリウス・サイラスの言葉だ。

自分にないものを、人が持っていようといなかろうと、そんなことは関係ない。

要は、自分がどうなのかを評価するのがすべてなのだ。

しかし、なかなかその真理にたどり着けず、人は悩んだりする。

モンテスキューは著書の中で述べている。

「われわれが幸福になりたいと望むだけなら簡単だ。

しかし、人は他人になりたがるので、幸福になるのは困難だ。

われわれは、みんな実際以上に幸福だと思っているからだ」

先の女性は「嫉妬してしまう自分がみじめだ」といった。

そこには「この後輩が自分のそばにいるから、みじめになってしまう」という思いがあるはず。

原因は後輩のほうにあると思ってしまう。

しかし、本当は、後輩は関係ないのだ。

絶対に替われない他人に、自分がなろうとしているのだと気づかなければ、たとえその後輩がいなくなっても、また別の嫉妬の対象が生まれるだけだ。

自分は自分、人は人-スパッとそう割り切り、その大前提に立つことで、嫉妬や羨望から自由になれる。

裏切りにあったら、相手を許すことを学習する

「幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、不幸人とはその反対を記憶している人々である」

といったのは萩原朔太郎だ。

その通りだとすると、世の中には、幸福人よりも不幸人のほうがはるかに多いのかもしれない。

私たちにあるのは、いまと未来だけだ。

過去はすでにない。

どんなことがあったとしても、それはすんだこと。

嬉しかったことを思い出してみても、それによって新しく何かをつくり出せるわけではない。

しかし、いい気分で過ごすことにつながるなら、過去に浸るのもいいだろう。

問題は、いつまでもマイナスの記憶に引きずられることだ。

四十代の主婦は、十年以上も前の夫の裏切りをいまでも許せないでいる。

当時、最初の子どもを妊娠していた彼女は、つわりがひどく実家に帰っていた。

そんな時期に夫が浮気をしていたのだ。

子どもが生まれてからその事実を知り、大きなショックを受けた。

夫にしてみたら、ほんの気の迷い。

もちろん悪いことはわかっている。

妻を大事に思っているし、家庭を壊す気などまったくない。

ただ、一人でいる気楽さから同級生だった女性と飲みに行き、お酒の勢いもあって一線を越えてしまった。

妻は激怒した。

夫を信じきっていたからこそ怒りは深かった。

それでも夫を愛していたし、子どももいるから別れることはしなかった。

その後も夫は、妻を再び傷つけることがないように気を使っている。

妻もそのことをわかっていて「忘れよう」と思う。

だが、ふとした瞬間に思い出して、感情的になって夫を責める。

夫は、それをいわれると、どうしようもない。

お手上げだ-。

とかく女は、男が忘れている遠い昔の話を、突然、持ち出したりして男を責める。

古今東西問わず、よくある不幸なケースなのではないか。

たしかに、妻に「過去のことは忘れなさい」というのは、男の身勝手に聞こえるだろう。

しかし、それしかないのではないか。

時計の針は元には戻らない。

過去のことを責めてみても、夫はその時点に立ち戻ってやり直すことはできない。

「許すことで過去を変えることはできない。しかし、間違いなく未来を変えることはできる」という、アメリカの弁護士バーナード・メルツァーの言葉がある。

いまと将来にフォーカスし、過去との距離感を捨て去ることが、女性にとって最良の道ではないか。

この妻の場合も同じである。

ある二十代後半のビジネスマンは、信じていた同期に裏切られた。

自分が温めていた企画を、その同期が先に会社に提出し、高い評価を得てプロジェクトリーダーの座を射止めたのだ。

飲み屋でおしゃべりしていた話だから、こちらが先に思いついたという証拠はない。

騒いでみても自分の評価が下がるだけだ。

煮え湯を飲まされたような思いでいる。

そんな重要なアイデアを話したのは、相手を心の底から信じきっていたからだ。

「こいつは危ない」と思っていたら最初から話しはしない。

もし、そんな相手にしゃべっていたなら「俺はバカだ」とあきらめもつく。

裏切りというのは、信じていない人との間には起こらない。

「こいつだけは裏切らない」と思っているから、裏切られるのだ。

どれほど信頼し合っていても、「ここで裏切ったほうが、絶対、自分にメリットがある」と思ったとき、人は裏切ることがある。

逆の立場だったら、自分だってそうするかもしれない。

その後、先の彼はなかなか立ち直れないでいる。

会社に行けば怒りがぶり返し、なかなか仕事が手につかない。

しかし、それではますます自分が損をする。

たしかに悔しいだろうが、ここは「人間学」を一つ勉強したと思うことだ。

自分の将来のために、過去の出来事として捨て去るしかない。

キェルケゴールは「死に至る病とは絶望のことである」といった。

過去という、すでに存在しないもののために自分を絶望の中に置いてはいけない。