自分を知る

自分を完全に理解できる人などいないでしょう。

人は皆、ある曖昧さのままに、日々を送っています。

それでも、自分を知ろうとすることが、自分を生きる出発点になります。

自分を知るとはいかなることであり、どれほど知ればよいのでしょうか。

ここでは、実際に役立つ自分を知る方法を紹介します。

禁止令

「〇〇であれ」という禁止令

禁止令とは成長する過程で、呪文のように心に埋め込まれ、無意識のうちに私たちの心と行動を束縛してしまうものです。

自分がどのような禁止令にとらわれているかを知ると、訳の分からなかった自分の感情や行動が理解されることが少なくありません。

禁止令には二つのタイプがあります。

その一つは、「〇〇してはいけない」という形の禁止令です。

もう一つは、「〇〇であれ」「〇〇せよ」という形のもので、拮抗禁止令と呼ばれます。

期待された役割を生きる人には、拮抗禁止令が強く働いていることが多いので、こちらを先に説明します。

「強くあれ」

この禁止令によって、弱みを見せられない、競り合ってしまう、なんでも一人で耐えてしまう、能力の限界を超えて仕事を請け負ってしまうなどという行動が生じます。

「努力家であれ」

これにとらわれると、過度にがんばってしまう、適当な手抜きができない、がんばってもなおがんばり足りないという自責感にとらわれる、といったことになります。

「完璧であれ」

これにとらわれると、失敗を過度に恐れる、融通が利かない、なにをやっても不全感が残る、といったことになります。

「他の人を喜ばせよ」

他の人がどのように感じているのかを過度に気にしてしまうとか、自分の気持ちをないがしろにして相手の気持ちを優先してしまう、あるいは、自分を犠牲にしている方が安心できるなどという人には、この禁止令が働いています。

「さっさとせよ」

この禁止令は、いつでもせき立てられているように感じるとか、安心して休憩を取ることができない、やりかけの仕事がひどくきになるなどの心理と行動に作用しています。

「(自分のことは)自分でやれ」

この禁止令が働いている人は、何事も自分でやらなければならないと感じたり、他の人に依存したり、甘えたりすることができなかったり、孤立無援という感じがしたりします。

「〇〇してはいけない」という禁止令

この形の禁止令のなかで、期待された役割を生きる自分を形成した人がとらわれがちな禁止令をいくつかあげておきます。

「自分で決めてはいけない」

この禁止令が働いていると、言いつけられたことは安心してできるけれども、自分から進んで行動すると不安を感じてしまいます。

あるいは、自分で決断しなければならないときや、独力でやらなければならないときには、大きなプレッシャーを感じてしまいます。

また、決まりきった作業をするときは有能なのに、自分なりの工夫が求められる仕事では力が発揮できません。

「楽しんではいけない」

この禁止令があると、遊びや楽しむことが罪悪であるかのように感じられます。

また、なにをしていてもどこか気がかりで、つい、せかせかと動き回ってしまいます。

「成長してはいけない」

これが働いていると、自分がひどく頼りなく感じられ、社会に出て行くことに対して大きなプレッシャーを感じます。

また、上司や年長者と接するときに圧迫感を持ってしまいます。

「重要な人物になってはいけない」

この禁止令があると、(人から賞賛はされたいのですが)注目されたり、意見を求められたりすることが不安です。

リーダー的な立場や責任ある立場がひどく苦痛です。

「みんなの仲間入りをしてはならない」

これにとらわれている人は、「どうして自分はみんなと同じようにできないんだろう?」

とか「自分は他の人とどこか違う」などと感じます。

また、みんなと同じように楽しんでいても、どこか醒めた意識で見ています。

人のなかに入ることや、人のなかにいることが負担に感じられることにもなります。

「健康であってはいけない」

これにとらわれている人は、大事な出来事の前になると体調や気分が悪くなるとか、いつでもどこか調子が悪いといった状態になります。

あるいは、身体的不調を口実にしがちです。

禁止令を意識する

自分を束縛する禁止令を知ることは、自分自身をより意識的に生きていくために大いに役立ちます。

上記にあげたような禁止令以外にも、自分を束縛している禁止令があるかもしれません。

ぜひ、考えてみて下さい。

こうした禁止令が強固に埋め込まれている場合、完全に抜け出すことは容易なことではありません。

短期間で脱却できるものではありません。

ですから、必死になってこれから抜け出す努力をするのは必ずしも賢明なことではありません。

自分がどの禁止令にとらわれているか、そして、どの心理と行動がそれにあたるかを、意識していればよいのです。

たとえば、集団に参加しきれない自分を感じたとき、「『みんなの仲間入りをしてはいけない』という禁止令にとらわれているな」などというように。

これによって、心に余裕ができて、他の人をうらやんだり、自分を責めたりすることから免れることができます。

自分のマイナスの感覚や感情が禁止令によるものだと知っただけで、ずいぶん気持ちが楽になるものです。

自分を知るための性格のルーツ

自分を生きていないという感覚が生じるのは、自分の性格の由来が分からないことにも一因があります。

自分の心のルーツを知ると、そうした浮き草のような頼りなさの感覚が軽減します。

サリバンという精神分析学者は、子どもが生育する過程で大きな影響が与えられる人をシグニフィカント・アザーズ(重要な他者)と呼んでいます。

自分が重要な他者からどのような影響を受けたかを知るために、以下のような図解をしてみると有効です。

1.B4ないしそれ以上の大きな白紙を用意します。
2.自分にとっての重要な他者をあげます。

真ん中に自分と書いて、性格形成に影響を与えたと思われる人を周囲に配置します。

通常は、母親、父親、兄弟姉妹。

人によっては、祖母や祖父、親戚、教師、親友などもあげられるでしょう。

これらそれぞれの人について、性格特性や口癖、その人との印象的な出来事を書き入れます。

なお、いつも支えになってくれた親友とか、自分を認めてくれた先生など、プラスの影響を与えた人も忘れずあげることです。

さらに、自分が影響を受けたと思われる家庭の雰囲気なども書きます。

たとえば、開放的な雰囲気、禁欲的な雰囲気、家族がバラバラである等々。

家庭外の出来事で性格形成に影響したものがあれば書いておきます。

小学校の担任教師から徹底的に嫌われたとか、中学の時に自分の本当の気持ちを言ったためにクラスから孤立した等々。

3.周囲の人や雰囲気、出来事などから受けた影響を矢印で示します。

影響が大きいほど、太い矢印で表現します。

そして、それぞれから、どのような自分の性格特性や特徴的行動が影響を受けたかを書き込んでいきます。

たとえば、支配的な母親に適応するために、「内面は反感、表面だけ服従」する傾向が身についたとか、批判的に見やすい親のために「たえず周囲に気を配る」傾向が身についたなど。

あるいは、姉が活発でよく叱られていたので、自分は「控えめで、おとなしく振る舞う」ようになったなど。

ところで、影響についても、二面性があることを忘れないことが大事です。

たとえば、支配的な母親は、しばしば「愛情過多な母親」でもあります。

「愛情過多な母親」という面から、「人の為になにかしてあげる」姿勢が身についたということもあるかもしれません。

著名な骨董鑑定士の中島誠之助氏は、意地の悪い養父に育てられたそうです。

その意地の悪い養父を見返したくて徹底的に骨董の勉強をして、私たちが驚嘆する造詣の深さを得たということです。

ある人に否定的な感情があると、その人から受けた肯定的な影響を見落としてしまいます。

既存の感情を満たそうとするのではなく、冷静に、できるだけ客観的に、受けた影響を分析することです。

この作業が順番通りスムーズに進むことは少ないかもしれません。

それは、心を対象化して見ることに慣れていないことと、認知を歪める種々の防衛機制が働くからです。

したがって、最初から完全なものができると考えずに、ともかく思いついたものをどんどん書き込んでいくことです。

その後さらに思いついたものがあれば、次々と書き加えていけばよいのです。

また、最初から深い分析ができるものではありません。

じっくりと時間をかけて、焦らず、恐れず、作業を進めていけば、相当深いレベルの分析にまで到達することが可能です。

こうした作業をしてみるだけで、曖昧模糊としていた自分の心のかなりの部分が整理できます。

それまで漠然と感じていた自分についての理解が、一歩深まったという実感をもてます。

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自分を知ることは許すこと

上記の作業は、自分を理解するだけでなく、周囲の人へのより深い理解をもたらしてくれます。

それにより、今まではただ拒否感だけで見ていたその人を、その人自身がまた人間的な葛藤と苦悩を秘めた人であるということが分かり、いとおしく感じられるようになります。

自分を苦しめているこの性格は、親をはじめとした周囲の人々に対応してできた性格でした。

だとしたら、自分だけの責任ではありません。

自分だけを責めることはありません。

といって、親を責めても仕方ありません。

親もまた、その親の被害者なのですから。

ところが、親への怨念を持ち続けてしまう人がいます。

親を責めることは、過去への逃避です。

自分で自分に責任を負うことを回避するための口実に親を責めているのです。

完璧な親に育てられる人などいないのです。

結局、誰を責めてもしかたがないのです。

自分の人生を誰かが代わって生きてくれるものではありませんから。

自分の人生を作れるのは、ただ自分だけなのですから。

親を責め続けることは、自分の人生が、親の呪縛に取り込まれてしまっていることです。

ですから、許すことです。

フランスには、「すべてを知ることは、すべてを許すことである」ということわざがあるそうです。

自分を知るための作業は、許すための作業でもあるのです。

英語の許す(forgive)には、与える(give)ことが含まれています。

許すとは、見返り無しに自分を与えることなのかもしれません。

許すことが難しいなら、忘れようとすることです。

忘れる(forget)には、得る(get)ことが含まれています。

忘れることは、心の安らぎという大きなものを得ることにつながるのです。

それも難しいなら、もうそのことには関わらないと決意することです。

許す、忘れる、あるいは関わらないということができると、親との地位が逆転します。

自分が一段と成長した大人になったように感じられるのに、親の方はいまだ幼いままにとどまっているかのようです。

許す、忘れる、関わらないということは、外的なものにいたずらに煩わされないということであり、超越への道です。

過去は取り戻せません。

これからの人生をより納得できるものにすることに心を向け、エネルギーを注ぐことです。

批判や怨念ではなく、つくることです。

嘆くのではなく、前進することです。

過去を感謝をもって受け入れ、自分の人生をつくることに専念することです。

親の被害者として自分を嘆くのではなく、ヒーローとしての自分を賞賛することです。

「両親とも家庭を放棄してしまったので、私は、父親の姉である養母の家で育ちました。

養母は、私にいつも私の父と母の悪口を言っていました。

『親に捨てられた子』と、あざ笑うこともありました。

すごく厳しい人で、食事中、ご飯茶碗をしっかりとつかんでいないと、突然、手で払いのけたりするんです。

ご飯茶碗が飛び、こぼれ散ったご飯を、泣きながら拾わされるということが何度もありました。

子どもの頃はなにかあると殴られ、泣かない日は無かったというぐらいです。

今で言えば、児童虐待にあたるような面もあったと思います。

それで、親戚の人が、養護施設にあずけた方がよいのではないかと、言ってきたこともあるほどでした。

養母の実母である祖母は、『自分の子どもだと思って育ててくれればいいのに』と、いつも涙を流してくれました。

近所のおばさんも、泣いている私を優しく慰めてくれました。

そんなことが、『自分を思ってくれている人がいるんだ』と、孤立無援の心細さの中で救いになっていました。

大人になってからは、養母の気持ちが分かる気がします。

父にも母にも、他に兄弟姉妹がいたのですから、私の養育を押しつけられる理不尽さを、なかなか納得できなかったんだと思います。

それに、自分の弟の子を預かることで夫に迷惑をかけているので、夫に対して申し訳ないという気持ちもあったのだと思います。

そんなことで、ついつい、厳しくあたったのだと思います。

それでも、私を育ててくれたのですから、養父にも養母にも本当に感謝しています。

それに、厳しく育てられたことで、つらくても耐えて、粘り強くがんばれるという私の取り柄と、家庭生活を大事にしたいという私の思いが培われたと思っています。

その点でも、今があるのは、養父母のおかげだと感謝しています。」(60代男性)