口数が多くてやかましかったり、攻撃してきたり、さらには依存してくる。

ここでは、彼らに「NO]をいえるヒントを明かしていきましょう。

理性的な判断を捨て怒ってしまう方法から、相手に嫌われてもいい、と思えてしまう考え方まで、説いていきます。

これらは必ずしも言葉で対応するものばかりではありません。

相手に対する態度や反応によって、撃退できるものも含まれています。

素直でいつも笑顔でいるばかりのあなたとは、もう違います。

自己主張を身に付ければ、どんな相手にも振り回されることはなくなることでしょう。

ストレスをもたらす人への対処法

やっかいな人は4種類に分けられる

あなたにストレスをもたらす人というと、どんな人が思い浮びますか。

世の中にはやっかいな人って多いものですが、分類してみるといくつかのパターンに分かれるようです。

もちろん、ほかにも分類のしかたはあると思いますが、やっかいだと思うのは次の4種類です。

これらの人々は日常的にあなたが出くわす確率が高い「やっかいな人々」です。

こんな相手にはどう対処していけばよいのか、「傾向と対策」を練っていきましょう。

やっかいな人とは、

  1. 攻撃してくる人々
  2. 依存してくる人々
  3. おしつけがましい人々
  4. やかましい人々

です。

1から順番にみていきましょう。

敵意むき出しやる気満々-攻撃してくる人々

これは比較的わかりやすい人です。

敵意むき出しの連中が多いので、こちらも身構えるため、比較的対処がしやすいといえるでしょう。

あなたがもしこの連中が苦手だとしたら、なぜ攻撃してくるのかを考えるから、さらにややこしくなってしまうのです。

そうなってしまう理由はいくらでも考えられますが、大切なのはどう対処するかだけです。

そこでまずは「この連中は攻撃型だな」と分類しましょう。

そして対処法は「かわす」。

向き合うとガチンコ勝負になってこちらも被害を被ります。

かわし方は「いい返さない」ことです。

すると相手はドンドン調子に乗っていいたい放題となりますが、そのうち自己矛盾に陥って凹むか、あるいはこの種の連中は誰にでもぶつかっていくので勝ち続けることはありません。

そのうち満身創痍になってしまいます。

放っておいても自滅するタイプですから、攻撃型と分類しておけば、あとは気にすることはありません。

そのうえで、こういう人たちはどこにでもいると思うだけで、気が楽になってきませんか。

助けがほしいと近づいてくる-依存してくる人々

こちらは少しやっかいです。

頼ってくる人たちで、助けがほしいと近づいてきます。

明らかな攻撃でないだけにこちらも気づきにくいし、助けると自己充実感もあったりするので、いい気持ちになります。

しかし、それは短期的でなぜか苦しくなってきます。

とはいえ依存してくる人をほっぽりだすのは気が引けるので、苦しくても頑張ってしまいます。

これくらいですめば、まぁ人助けでもあるし、本人がよければぼくが意見する筋合いのものでもありません。

困るのはそのうち依存度がドンドン増してくるようなタイプです。

この種の人々から逃げるのはなかなか容易ではありません。

人に嫌われるのが怖くて悩む方でも、「あなたが苦しいのは相手のせいなんですよ」といっても「いいえ、私の頑張りが足りないから」と否定する人が多いんです。

人にはそれぞれ許容量というのがあって、依存してくる人々に対して余裕の部分で助けてあげるのは大事なのですが、自分が潰れてしまうほどというのは感心しません。

依存の人々に対しては無限に依存を許容するのではなく、自立を促すことが大事です。

特に注意しておきたいのは、人の相談をよく受ける方です。

相談を受けやすい人は自己犠牲的でどんなにしんどくても頑張ってしまいます。

また、相談を仕事にしている人も注意が必要です。

無限に依存してくるやっかいな人々にとって、こんなに楽な相手はありません。

まるで、鴨がネギを背負ってやってくるようなものなんです。

いえいえ、助けてはいけないといっているのではありません。

無限依存は底なしですから、一人そういう人を抱え込むと、他の人はほったらかしになるといいたいのです。

『ドクトル・ビュルゲルの運命』という古い小説があるのですが、ここでもこのテーマが描かれています。

医師のビュルゲル先生はとてもいい先生として慕われていました。

患者さんに優しいし、患者さんの苦しみを我が身の苦しみと感じます。

ある日若い女性が入院してくるのですが、ビュルゲル先生は献身的に治療に専念します。

彼女の容態がよくなると天にも昇る気持ちになるし、悪くなると自分を責めます。

先生の必死の治療にもかかわらず彼女の病気は徐々に悪化していきます。

すると、ビュルゲル先生も病に侵されてしまいます。

文学だから美化しているといえばそれまでなのですが、よく考えてみるとビュルゲル先生はよい医師ではありません。

これは極端な例ですが、献身というのも過剰になるとハタ迷惑になるし、一方で献身というのは気持ちがいいものでもあるので、ついつい過剰になりがちなのでご注意くださいね。

愛情、友情で迫ってくる-おしつけがましい人

実はこの種の人々が一番やっかいかもしれません。

なぜなら、向こうは愛情や友情で迫ってきますから、正義は我にありみたいな顔しています。

むげに「私その愛情はいらないんだけど」なんて拒否すると、こちらが非難されかねません。

たとえば母親との関係で悩んでいる娘さんって、このケースが多いんです。

「あなたのためにしてあげたのに」という母親の言葉の裏には、「恩義をかけているのだから返しなさい」という毒が含まれています。

「ただ、あなたが好きだから」という言葉の裏には、「こんなに私はあなたを愛してきたのだから、あなたも私を愛する義務があるのよ」という、なんとも辛い押し付けがましさが潜んでいるのです。

ただ、小さいころは母親の毒には気づかず、ただ苦しいので反抗を繰り返している人が多いのも事実です。

そして自分が母親を愛せないのは、自分に欠陥があるせいと真剣に悩む人もいます。

真綿で首を絞めてきて、窒息しそうになっている人も実際多いんですよ。

だからこういった人たちは、まずは「おしつけ型」とタイプ分類して傾向と対策を練りましょう。

この種の人々の本質は自己中心的なんです。

でも自分ほど愛情深い人間はいないと思っているし、基本的に正しい人間だと思っています。

一番の対処法は悪人呼ばわりされてもへこたれないことかもしれません。

愛情の押し売りに対して自分が返せないのは、自分の責任ではあありません。

「あなたには、どうして私の愛情がわからないの!」と金切り声をあげられてもゴメンナサイをしないこと。

「あなたは最低!人間のクズ!欠陥品!悪人!」といわれてもへこたれないこと。

だって相手のほうがよほど悪人だもの。

動揺をみせるとこの種の人々はつけあがります。

「平然としている」ことが肝心です。

口数多しからクレイマーまで-やかましい人々

やかましい人々とはどんな人々かというと文字どおり、口数の多い人・文句の多い人・クレイマーなどです。

おしつけがましい人々とかぶっていることもありますが、その場合は2倍やっかいな人々ということになります。

さて、やかましい人がなぜやっかいな人になってしまうのかというと、やかましいだけなのに聞く側が真剣に聞こうとするからです。

内容は空虚なのですがこの種の人はエネルギーがすごいので、圧倒されるし疲れてしまいます。

それでも真剣に聞いていると追い詰められた気分になって、ひどいと人付き合いが怖くなってしまいます。

ようするに聞き方の問題なのです。

真剣にではなく「いいかげんに聞く」というやり方を学習しなければなりません。

聞いているふりをして、意識はほかで遊ばせるような。

そんな器用なことはできないとおっしゃる?だから学習なんです。

トレーニングする必要があります。

まずは名人の技を紹介しましょう。

たとえばどこかの役所の苦情処理のエキスパート。

この人たちはほとんど、何も聞いていません。

これはこれで問題なのですが、学ぶべきところはあります。

ただのやかましい人々に対しては、真剣に聞くことは危険ですらあります。

エキスパートをよく観察していると、きちんと相づちを打ってはいるのですが、自分から積極的な提案はなにもしません。

やかましいだけの人々は唾を飛ばしながらエネルギッシュにしゃべりつづけていますが、なにも提案されないことには気づきません。

ひたすら文句をいいつづけます。

エキスパートは少しうつむき加減で聞いたことのメモをとるふりをしていますが、本当はどの時点で切り上げるかを見計らっています。

そしてときどき、目を上げてやかまし屋と視線を合わせます。

これは「聞いてますよ」という合図です。

あまり早く切り上げるのは危ないので、やかまし屋のしゃべるペースが落ちるのを待ちます。

ペースが落ちたら頃合いを見計らって、「貴重なご意見ありがとうございました。次の方がお待ちですので、すみません」とペコリと頭を下げます。

でもエキスパートは心を込めて頭を下げているわけではありません。

単純な筋肉運動にすぎません。

それでも納得して帰るやかまし屋は少なく、「納得したわけじゃねえぞ、また来るからな」と捨て台詞をつぶやきながら帰ります。

エキスパートはここでニッコリ「またのおいでをお待ちしています」。

誰もがエキスパートほどうまく対処できるわけではありませんが、やかまし屋に対してはないかを提案するのは無駄に終わるだけです。

ひたすら聞くフリが大事です。

ひとしきり話しさせることも大事です。

いつまでも聞いている必要はありません。

ときにはぶつかってもいいんです。

エキスパートみたいな絶妙の呼吸の取り方は上級者向きです。

時間がきたら終わってもかまいません。

威嚇してきたら、こちらもしかるべき方法で対処すればいいだけです。

警察を呼んでもいいですね。

でも現実的にはひとしきり話をさせると素直になる軟弱なやかまし屋も相当いますから、それほど心配しなくていいんです。

嫌われるのが怖いから脱出する道は必ず見つかる

寂しい人生になってしまう?

他人から嫌われるのが怖いから抜け出す基本戦略として距離感を遠くもつことや、相手の言葉が自分のこころの内側まで届かないような技法を提案してきました。

たしかにこの方法はやっかいな人々からは逃げられるかもしれないけれど、親密さや人のぬくもりからは遠ざかるし、ひょっとして寂しい人生になってしっまうのではないかと心配になった方もおられるかもしれません。

実は、絶対大丈夫という自信はないんです。

人から嫌われるのが怖い人には、夏目漱石の『草枕』をおすすめしています。

参考になるかもしれないので、ここで冒頭の数行から引用してみましょう。

「山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。

情に棹させば流される。

意地を通せば窮屈だ。

兎角にこの世は住みにくい。

住みなくさが高じると、安いところに引っ越したくなる。

どこへ越してみても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。

やはり向う三軒両隣にちらちらするのは唯の人である。

唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。

あれば人でなしの国へ行くばかりだ。

人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛げて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」

こころを対象から離す

この後「だから芸術が助けとなる」という記述が続くのですが、それはまたの機会にして、この数行を考えてみましょう。

「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ」とはうまくいったものです。

理屈(智)で相手を論破すると、相手もムキになって感情的になります。

だからといって相手の感情を大事にしていると、自分を見失ってしまいます。

意地になって頑張ると、こころの自由さが失われてストレスだらけになって、窮屈な思いをしなければなりません。

一体全体どうしたらいいのか?

もうこんな生活は嫌だと引っ越したって、どこでも人間関係のストレスがないところなんてあり得ません。

漱石は人の世が住みにくいのだったら、人でなしの国しか行くところはないだろうし、人でなしの国ならもっと辛いに決まってる。

とすれば、ここで踏みとどまって、なんらかの工夫で自分のこころを寛がせるしかあるまいといっています。

そうなんです、ぼくらは踏みとどまって工夫するしかないんですころその工夫とは「こころを対象から離してしまう」こと。

視点を遠くにとると深刻になることがありません。

喜劇王のチャップリンがうまいことを言っています。

たとえば、バナナの皮で滑って転んでしまったとき、自分だったら痛いやら恥ずかしいやらで悲劇なのですが、他人が見事にスッテンコロリと転ぶとそれは喜劇になる。

でも最高なのは、「自分が転んだ時、視点を遠くにやって他人事のようにみること」。

「アッハッハ」と自分を笑って喜劇にしてしまうこと。

視点を遠くにとれば多くの事柄は取るに足らないもの、もっと工夫すれば喜劇になります。

自虐的ではなく自分を笑えるようになれば、あなたのこころはかなり自由度が高くなったといえます。

孤独への思い込みをはずす

本能に近い習性だった!

これまではやっかいな人々への対策について申し上げてきましたが、今度は自分のこころに目を向けてみましょう。

それではなぜ人は寂しいと感じるのか?

理由はヒトという種が元来は群居性の動物で、オラウータンやトラのように単独生活ができない動物だからなんです。

つまり孤独が辛いのは本能に近い習性です。

だから寂しい気持ちを恥ずかしく思う必要なんてこれっぽっちもありません。

でも、だからって無理して、好きでもない連中とつるんでいるのは、よけい孤独感が増してしまいます。

なぜなら、自分と違う感性のなかにポツンといるのですから、孤独感が強くなるのは当たり前です。

ワイワイガヤガヤと、お互いにお互いを見張って縛り合っているんです。

少しでも仲間と違った色をみせるや、仲間はずれやイジメがはじまります。

たしかに微妙に変化をつけてみんなとまったく同じにならないように気をつけているみたいですけど、ある範囲があってそこから逸脱してしまうと、集団から疎外されたり、はじき出されたりですもんね。

女の子ばかりではなくて中年も老人もそうなのです。

たとえばミズタマ族という部族がいて、みんな水玉模様の服を着ているとします。

でも、そのなかでもオシャレをして自分らしさを演出します。

水玉の大きさを工夫したり、水玉の色を変えたり、水玉の形を楕円にしたり菱型にしたり三角にしたり、ありとあらゆるバリエーションが工夫されます。

そしてお互いにセンスがいいとか悪いとかいっています。

その集団に、ある日突然ストライプの服で現れた子が出てきました。

とたんに周囲の反応が変化します。

「なにあれ?なんか変よね」「あれはあり得ないわよ」「変わってるわよね、あの子。ま、少なくとも私たちとは同類じゃないよね」

ストライプの子は自分ではストライプはカッコいいと思っています。

しかし、周囲は冷ややかで、だんだん自信を失ってストライプはあきらめて無難な水玉模様を装うのですが、本当は自分らしくないので苦しいけれど、孤独も辛いし我慢して生きている子。

あなたはこのような経験がありませんでしたか?

たいていの場合、「そんなミズタマ族ぬけちゃえば」ということになります。

「そんなことしたら一人ぼっちになっちゃうよ。

そしたら辛いもの。

お弁当だって一人で食べるなんて、恥ずかしいじゃない。

みっともないじゃない」

と泣き出しそうな顔がいくつも浮かんできます。

そのうえでこういいました。

「でも、恥ずかしいとかみっともないと感じるのは、あなたが自分に正直でないからかもしれない。ストライプがカッコいいと思ったら、ミズタマ族とサヨナラするしかないんじゃないかなあ。

あなたが胸を張ってストライプを着てたら、いつかミズタマ族からストライプっていいかもという人がでてくるんじゃないかな」。

すると彼女たちはホッとした顔でうなずいてくれました。

パニックそれ自体に危険はない

実は、孤独は工夫次第ではそんなに辛いものではないんです。

「孤独は怖い」という思い込みのほうが、よほど大問題です。

序章でも出てきた「予期不安」という言葉があります。

パニック障害の患者さんはパニック発作そのものより、パニック発作が起こるのではないかという不安に苛まれて日々を過ごしています。

実はパニックそのものはそれほど危険ではありません。

絶対に生命に別状はないし、パニック発作は必ず静まります。

でも患者さんは、パニック発作が起きそうな状況を徹底的に避けながら、ビクビクして暮らしています。

「孤独」も予期不安のほうが実は強くて、実際に孤独になってしまうとあっけないくらい楽なことに逆に驚いてしまう人が多いんです。

予期不安をつぶすには、開き直りが大切です。

あなたの場合、なにが怖くて一人になれないのかシラミつぶしてみてください。

仲間はずれ?結構じゃないですか、どうせその集団にいても苦痛がひどくなるだけですもの。

いじめ?すがりつくとさらにいじめはひどくなります。

そしていじめ集団はおもしろがるだけです。

胸を張って離れていけば、あくどい連中ももう手の出しようがありません。

寂しさ?代わりに清々しい自由が手に入りますよ。

あとはないですか?一人ではレストランに行きにくい?レストランは商売ですから一人で来た客でも快く迎えてくれます。

嫌われてもいいと思えてしまう考え方

本当は相手のことをどう思っている?

あなたがNOといえないのは孤独になってしまうからという理由があったのですが、これは解決しましたか?

「孤独もまた楽し」という境地になっていただけたら、ぼくの治療はいまのところ成功していることになるのですが。

実はもう一つ問題を解決しなければなりません。

それはあなたが、「人から嫌われたくない」という人としては至極まっとうな気遣い、でも過剰な気遣いをしているということ。

このことが人間関係に余計な緊張を生み、かえって嫌われることがあるのならば本末転倒というべきでしょう。

そして、残念なことにそんな例はあちこちでみかけます。

「あの人はいい人なんだけど、堅苦しくてね。一緒にいると肩が凝るのよ」「あの人には遊びがないのよねえ」、などと平気で悪口をいう口の悪い連中もいます。

しかし、残念ながら若干の真実も含まれているんです。

生まれつきだもの仕方ない、とあきらめるのは早計というものです。

もしあなたが気遣いしすぎると感じているのならば、それは相手の顔色をみすぎるから。

結局のところあなたは相手のことをどう思っているのでしょうか?好きですか?嫌いですか?もっと近づきたいのですか?遠ざかりたいですか?

どちらの派閥にもいい顔をしていた結果

幼稚園児のお母さんの会というのは、とてもたいへんな場のようです。

場所柄もあるのでしょうけれど、Aさん(30歳)の子どもたちが通っている幼稚園は、なんでもPTAが協力してやらねばならないのだろうです。

運動会、お遊戯会、クリスマスといろいろな行事があり、そのつど、母親が駆り出されるのだそうです。

そんななか、人のよいAさんはPTA会長に選ばれてしまいました。

みんなで仲良く行事を片づけていきたいと考えていたAさんでしたが、PTAには2つの派閥があってこれが犬猿の仲。

PTAの集まりでもお互い一歩も譲りません。

Aさんは中立でいようとするのですが、2つの派閥はどちらもAさんを自分の側に取り込もうとします。

そのために相手の派閥の悪口を散々Aさんに聞かせてから、「あなたもそう思うわよね」と強くおしてきます。

あまり気の強くないAさんは、「いえ、私は。まあ、そういう面もあるかもねえ」と煮えきらない返事を返してしまいます。

すると、「そうでしょ。あなたよく物事をみてるわね、それでこそ私たちの友達」と肩を叩いてきます。

翌日は、もう一方の派閥から同じような相手への悪口を聞かされます。

こちらも強く、「と思うわよね、あなた」とにらんできます。

思わずAさんは、「あ、はい」と答えてしまいました。

つまりはどちらの派閥にもいい顔をしてしまったのです。

それからは針のむしろです。

2つの派閥の両方に気を使い過ぎたのか、ある日胃が痛くなり夫に連れられて病院に行き胃カメラをすると、胃粘膜が真っ赤になって出血性胃潰瘍で入院ということになってしまいました。

入院して最初のうちはまだ心労でうつうつとしていましたが、環境が変化して自分を振り返る時間ができました。

すると自分の気持ちがみえてきました。

「私は人の顔色ばかりうかがって、自分の気持ちがどこにあるのかわからなくなっていたのだわね。

よく考えてみると、私はどちらの派閥も嫌いなのよ」

退院したAさんは、PTAの席でぶちまけました。

「あんたたち、こそこそと裏工作ばかりしてんじゃないわよ!あんたたちの喧嘩のせいでPTAの行事企画が全く進まないのよ。

私は辞めるからね、こんな馬鹿なPTA」。

みんな唖然とした顔でAさんを見上げていました。

その後、突然思い出したように轟々たる非難の嵐がAさんに降りかかりました。

しかしAさんはたじろぎもせず、「勝手に嫌えばいい」と言い残して、胸を張って立ち去りました。

その後、PTAは収拾がつかず、結局2つの派閥は両方がAさんに謝り会長を続けてと頼んできました。

Aさんはその後、会長を続投しました。

そしてその幼稚園はじまって以来のすばらしいクリスマス会ができたのだそうです。

このように、ときには嫌われることも怖れず、怒ることが問題を解決することもあるのです。

あえて理性的な判断をしなくてもよいとき

問題の解決法

ここで一つ質問があります。

(問)Aは200ドルのカバンをもっている。

Bはそのカバンを欲しがっている。

Bがカバンを盗めば、Aは告訴するかどうか決めねばならない。

告訴すればAは出廷しなければならない。

これは不合理なので、Aは告訴しない。

するとBはカバンを盗むということになる。

一体Aはどうすればいいのか?

さてこの問題、どう考えればいいのでしょうか?

理性的な判断から考えてみます。

告訴すれば200ドルのカバンは戻ってくるのですが、そのためには裁判所に出廷しなければなりません。

Aは一日300ドル稼ぐ男なので、出廷することによって、その300ドルは入ってきません。

つまり200ドルは戻ってきて、300ドルが入ってこないのだから、理屈からいけば告訴をしないほうが得です。

しかし、告訴しなければBはAから、今度は300ドル以下のものなら、なんでも盗んでいきます。

これは困った事態です。

どうすればいいのか?

答えは、「理性的な判断をしない」ことなんです。

Aは怒って、「100ドルの損失を被ろうともBをブタ箱にぶちこんでやる」と告訴することです。

するとBは、「Aは怖い。怒ると理性的な判断ができなくなる奴だ。

奴からは、もう盗まないことにしよう」となり問題は解決します。

つまり、ときには理性的な判断を捨てて怒ってしまうことが、問題を解決することもあります。

フランクという経済学者が『オデッセウスの鎖』(サイエンス社)という本で、怒りなど理性的でない感情が事態を打開することもあるということを理論的に説明しています。

もちろん、いつも怒ることが問題を解決するわけではないのは当たり前のことではありますが、こういった方法もときには有効であることをぜひ覚えておいてくださいね。

大切なことは心の声に耳を傾けること

自分の感情を押し殺していると起きること

ある40歳のサラリーマンです。

彼は会社では上司からも部下からも絶大な信頼を受けています。

そして家庭を持ち、休みの日には家族と出かけたりと尽くしています。

彼はなんでも我慢するタイプの人で、ストレス性の胃潰瘍になったときも、最初は病院で薬を貰っていたのですが、何度も再発するのと仕事が忙しくなったので病院に行かなくなりました。

でも胃潰瘍は治ったわけではありません。

ときおり強い腹痛があるのですが、放置しました。

ずっと我慢しているうちに痛みを感じなくなったとAさんはいいます。

そして胃に穴が開いてしまったのです。

彼のような性格を「アレキシシミア」といいます。

日本語にすると「失感情症」、つまり自分の感情をいつもいつも抑制しているうちに、幸い感情を言葉であらわせなくなってしまったのです。

そのうち痛みなど不快な体感すら抑制してしまうことがあります。

ここまでくるとアレキシソミア(失体感症)の状態といいます。

彼の場合は胃潰瘍の痛みすら抑制してしまったため、痛みという大事な信号を見落として、胃に穴が開くというたいへんな事態に至ってしまったのです。

この話からもわかるように、なんでも我慢している状態はとても危険です。

適度にズルをするとか、いい加減であることも命にとってもとても大事なことなんです。

そうすることで人に振り回されることも減り、自分のペースで歩んでいくことができます。