自我をつくるストローク

ストロークとは、その人の存在を認めて他の人から与えられる、あらゆる働きかけのことです。

名前を呼ばれること、話しかけられること、視線を向けられること、ほほえみかけられること、愛撫されること、それらのすべてが含まれます。

また、当然行われるべきことが、行われないことも含まれます。

たとえば、わざと無視されたり、冷たく拒絶されるなどです。

ストロークには、その人にとり好ましいものと好ましくないものとがあります。

好ましいものを正のストロークと呼びます。

だっこされたり、誉められたり、受容されたりするストロークです。

これに対し、好ましくないストロークは負のストロークと呼ばれます。

馬鹿にされたり、拒否されたり、軽んじられたりすることです。

自分はだめなんだとか、自分は優秀だとか感じて生まれてくる赤ん坊はいません。

自分が何者であるかをいっさい知らずに生まれてきます。

そして、成長の過程で正・負のストロークを何万回、何十万回となく与えられることによって、自分についての意識がつくりあげられていくのです。

正のストロークは、なにも親に与えることができない無力な自分が受け入れられているという事ですから、自分の存在そのものに価値があるという実感を幼児に与えます。

負のストロークは、自分が受け入れられていないということを意味するので、幼児は自分の存在価値に疑惑を持つことになります。

正のストロークをたっぷり与えられた子どもは、自分の存在そのものに価値があるという実感をもとにして、自分の心を発達させていきます。

あるがままの素直な姿で外界に接することにより、自然に諸能力が形成され、健康な心と身体がつくられます。

こうしてのびのびと自立した人間として成長していきます。

正のストロークが与えられる程度は、子どもにより異なります。

両親の深い愛情のもとに生まれてきた赤ん坊は、その一挙手一投足に両親の注目が浴びせられ、両親の喜びの声を受けます。

満ちあふれんばかりの正のストロークが与えられます。

しかし、じっさいには親に歓迎されないで生まれてくる子どももいます。

この子さえいなければ、相手と別れて別な道をあるけるのにと、一度でも考えたことのない親は、決して少なくありません。

こうした場合、子どもは負のストロークを受けがちです。

子ども自身の持つ特性も、どのようなストロークが与えられるかに影響します。

かわいらしい子どもは、正のストロークを多く受けます。

道を歩けば知らない人からほほえみかけられます。

電車に乗れば隣の人に話しかけられ、ときには抱き上げられます。

とりわけ女の子では、容貌により幼い時期から世界が違ってしまうのです。

幼稚園でも、かわいい子には男の子が群がります。

心がまだ十分に形成されていないごく幼い時期から、こうした違いが数かぎりなく繰り返されるのですから、その積み重ねがどれほど大きな心理的影響をおよぼすか、容易に想像できるでしょう。

また、なにか良い点があると、他の点でも良いと見てしまう、ハロー効果という現象もあります。

かわいい顔の子どもは性格も素直でかわいいと見られがちです。

そして、その見方で周囲の人は扱います。

ですから、かわいい女の子にとって、この社会は受容的で楽しい社会と感じられます。

このために、あるがままの素直な自分を出すことができ、明るく好ましい性格がつくられる有利な条件となります。

正のストロークがあまり与えられなかったり、負のストロークを多く与えられる子どもは、ありのままの自分では受け入れられないという感じを抱き、自分の存在自体に価値を実感することができません。

親が認めてくれるのは、賞をもらったり、競争に勝ったりしたときです。

このため、こうした子どもは、人より優れたり、競争で勝ったりして初めて、自分に存在価値ができると感じます。

こうした人にとっては、勉強やスポーツ、習い事などを一生懸命するのは、それ自体が楽しいからとか、自己実現の喜びからするのではありません。

他の人からの評価を得るためにするのです。

これでは、なにをやっても良い意味での自己満足は得られません。

また、自分の存在自体に価値を実感できないのですから、失敗は自己価値の喪失と直結しています。

そのため、なにごとにおいても失敗を必要以上におそれることになります。

ある理系の男子大学院生は、修士論文の審査も通り、就職も決まったというのに、自信が持てず、なにをやっても生き生きした生活の実感が持てない、と言います。

彼の家は地方の名家で、祖父も父親も町長を務めました。

父親は亭主関白で、家族の中に威厳が貫徹しています。

父親より先には誰も風呂に入れませんし、食事を始めることもできません。

父親は子どものレベルに降りてきて、子どもと談笑するというようなことはいっさいありません。

かといって、子どもに厳しいというわけでもありません。

厳しく叱るということもなく、がみがみと小言を言うこともありません。

何も言わないのです。

それでいて父親の権威が確立しているのは、母親が父親をたてているからです。

母親は夫に丁寧語を使います。

とくに忘れられない出来事として、彼は次のことを話しました。

学校の図工で作った本箱を持って帰ったとき、母親は喜んでそれを父親に見せました。

しかし、父親は一瞥しただけ。

また、全国的な展覧会で絵が入選し、学校で表彰され、賞状と賞品を父親に見せた時も、「うん」とうなずいただけでした。

「この父親になんとか認めてもらいたくて努力してきたのが、自分の人生だった」と本人は言います。

どこまでやっても認められたという感じが持てないために、いつでも不全感に悩まされているのです。

このように、ストロークが与えられない状態は苦痛です。

自分の存在自体が空気のように希薄化してしまうのですから。

このような場合、マイナスのストロークでもよいから得ようと努力することがあります。

叱られることが分かっていながら、悪さをする子ども。

みながいやがることをわざと言う嫌われ者。

夏目漱石は『明暗』において、こうした心理を作中の人物・小林を通して次のように述べています。

「奥さん、僕は人に嫌がられる為に生きているんです。わざわざ人の嫌がるような事を云ったりしたりするんです。
そうでもしなければ苦しくって堪らないんです。
生きていられないのです。
僕の存在を人に認めさせることが出来ないんです・・・」