では、良い安全基地となるためには、何が大事なのだろう。

一つは、安全感を保証するということである。

これが最も重要なのは言うまでもない。

愛着の問題を抱える人にとって、一緒にいても傷つけられることがないというのが、最優先されるべき安全基地の条件なのだ。

二つ目は、感受性である。

共感性と言ってもいいだろう。

愛着の問題を抱える人が何を感じ、何を求めているのかを察し、それに共感することである。

感受性が乏しいと、相手の気持ちがわからないばかりか、無神経なことを口にして逆に相手を傷つけたり、頓珍漢な対応ばかりしてしまい、有難迷惑な状況を招いてしまうことにもなりかねない。

三つ目は、応答性である。

相手が求めているときに、応じてあげることである。

それは、いざというときに「相談できる」「守ってもらえる」という安心感につながる。

相手が求めていないことや、求めていないときに余計なことをするのも、応答性から外れている。

相手の主体性と同時に、責任を侵害しないことも大事だ。

相手がするべきことまで、肩代わりすることは極力さけねばばらない。

安全基地は「怠け者の楽園」ではないのだ。

ただ、相手が傷つき、弱っているときに、一時的に甘えを許すということはあっていいだろう。

感受性も応答性も、基本は受け身である。

主役は本人であり、支える側ではないのだ。

自分の方がすぐに主役になってしまうような人は、良い安全基地にはなりにくい。

もちろん、本人が心の中で求めていることを言い出せないというときに、それを察して、さりげなく手を差し伸べるということは必要である。

四番目は、安定性である。

相手の求めに応じたり応じなかったりと、その場の気分や都合で対応が変わるのではなく、できるだけ一貫した対応をとることである。

そして最後は、何でも話せることである。

相手が隠し事をしたり、遠慮したりせずに、心に抱えていることをさらけ出すことができることである。

最後の条件は、それまでの四つの条件がクリアされて初めて達成できると言えるかもしれない。

つまり、「何でも話せる」という状態が維持されているかどうかが、良い安全基地となっているかどうかの目安だとも言える。

何でも話せる人をもつことが、心身の健康を守るためにも、愛着障害の克服にも必要なのである。

家族、友人、恋人、パートナー、教師、宗教指導者、カウンセラーなどの専門家など誰でもいい。

傷つけられたり、説教されたり、秘密をもらされたりする心配なく、何でも話せる人をもつことが、それを媒介として、変化を生み出す第一歩なのである。

手近に安全基地となる存在をまったくもたないという人もいるだろう。

そうした人にとって、本やネットの世界が、仮の安全基地となっているという事も多い。

自分を表現し、それに対して応答してもらえるブログやチャットは、安全基地となる要素を備えている。

ただ、そこで傷つけられるという危険も抱えている。

自分のことを何でも話せる人との出会いというものが、愛着障害の克服において、極めて重要になる。

そういう人が安全基地として機能しているならば、語ること自体から、大きな癒やしが生じるだけでなく、語ることによって、それまで断片的にバラバラだったものが、統合され、傷や歪みが修復されていくプロセスが始まるのである。

しかし、相手が十分安全基地となっていなかったり、愛着の傷が深い場合、自分のことを打ち明けることは、相手に対する不安や疑念をかき立て、逆に不安定になったり、再び殻を閉じてしまうことにつながりかねない。

愛着不安の強い人は、一度に何もかも話さずにはいられないような衝動に駆られ、性急な告白をしてしまいがちである。

しかし、それは自分の恥部だけを相手に見せるようなもので、相手を面食らわせ、対等な関係を築くのを妨げてしまう。

逆に回避型愛着スタイルの人は、自分を開示することに慎重になり過ぎ、すっかりお膳立てが整っているのに、足を踏み出せないということになりやすい。

そんな態度から、相手のことなど求めていないと解釈され、すれ違いに終わってしまうことも起きる。

しかし、気長に寄り添い続けることで、回避型愛着スタイルの人も、いつの間にか、安全基地として受け入れているということも多い。

安全基地となり続けるように努めることが、何よりも大事なのである。