「許せない存在」を受け入れる練習

愛着障害の人に共通する特徴は、「許せない」と思うと、そのことにとらわれ、全部を否定してしまい、相手のいいところさえ見なくなってしまうことである。

どんなに素晴らしい存在であれ、長く接するうちには期待外れな面も出てくる。

そこを寛容に受け入れられないと、次第に「許せない存在」へとかわっていく。

許せないことは、その人からすると、絶対に譲歩できないとても大事なことなのだが、もっと大きな視点で見ると、本人自身の世界を狭め、他の対人関係にも影を落として、適応力をそいでしまっている。

傷つけられた思いに執着することで、自分の存在価値を守ろうとしているのだが、客観的に見ると、自分を苦しめ、大きな損を蒙っている。

では、どうすれば、それをうまく克服できるのか。

「許せない」と思ってしまう原因は、一部分にすぎない点を、すべて悪いと全否定にすり替えてしまう思考パターンにある。

その根底にあるのは、物事を「良い」と「悪い」の二つに分けて考える二分法的思考であり、良い悪いで評価してしまうクセだ。

この二分法で評価するクセは、親の期待に沿えば「良い子」、期待に反すれば「悪い子」とみなされ、罰を受けてきたことに由来していることが多い。

かつて自分がそうされたように、「悪い子」だとみなした人を、許せないと全否定してしまうのである。

本当は、親の基準で評価するのではなく、その子の求めているものやその子の気持ちを汲み取って共感してもらえていたら、そうした二分法的評価に染まらなかったのだが。

さらに、この思考パターンは、物事の原因を説明するためにも使われる。

うまくいかないことや思いに反することがあると、それは、相手が「悪い子」「悪い人」だからそうなってしまうのだと考えるのだ。

つまり、うまくいかないことや嫌なことは、誰か「悪い人」のせいだという思考パターンが出来上がっているのである。

「上手くいかないこと」は、イコール「悪いこと」ではない

客観的に考えれば、「すべてが悪い存在」もいなければ、「すべてが良い存在」もいない。

うまくいかないことが「誰か悪い人のせい」であるということも、ほとんど思い込みであることが多い。

人は失敗や過失を犯すこともあるが、「すべてが悪い」と考えることは、事実というよりも、その人の心が生み出す思い込みに過ぎないのである。

そもそも、こうした受け止め方の根底には、「嫌なこと、上手くいかないこと=悪いこと」とみなす思考パターンがある。

実際は、嫌なことやうまくいかないことというのは、たとえば荒天のように、避けられないことである。

それは「悪い」と感情的に反応すべきことではない。

人間の思惑とは関係なく生じる、自然現象のようなものなのである。

嫌なこと、うまくいかないことがあっても、それは偶発的な出来事であり、それに感情的に反応するのをやめれば、うまくいかないことが起きても、それが非難すべき悪いことだとか、誰か悪い人のせいでそうなったのだという発想をやめることができる。

そんなふうに考えることは、「ナチスと同じ発想だ」と言い聞かせるのだ。

また、たとえ相手に原因があるように思えることで、嫌なことがおきたとしても、その「嫌なこと」と「相手」とを同一視しない。

たとえば、そそっかしい子どもがジュースの入ったコップを倒して、せっかくの洋服をよごしてしまったとする。

この状況を見た時、「その子がそそっかしい『悪い子』だから、洋服を台無しにするという『嫌なこと』が起きてしまった」と受け止めてしまうと、「いやなことをした悪い子を懲らしめなければ」という気になってしまう。

しかし、別の見方をすれば、その子はコップを倒してしまったが、それは故意にやったわけではなく、慌ててしまったため、そうなったのである。

その子も「自分の失敗で叱られる」と思って、つらい気持ちになっているに違いない。

その子は「悪い子」などではなく、ただ、不運なアクシデントで失敗をしただけである。

人間は誰しも失敗をすることがあるし、失敗をしたからといって、その人が「悪い人」だということにはならない。

失敗をしたことを根拠に、悪いという価値判断を下すのは、困っている人を鞭打つようなものではないか。

それよりも、失敗をして落胆している可哀想な子として受け止め、「大丈夫だよ」と慰めた方がいいのではないか。

その子の失敗を、「嫌なこと」と受け止めず、「たまたま起きた不運な出来事」だとか、「誰にでもありがちなこと」と受け止めて、大騒ぎせず、むしろ、「大丈夫だよ」とその子を安心させてあげることで、その子自身も、「アクシデントが起きても大丈夫、冷静に乗り越えていける」ということを学ぶ機会にできる。