川端康成の作品のなかで、ことに幅広い人に親しまれている『伊豆の踊子』は、川端が抱えていた愛着障害の観点からすると、まさに傷ついた愛着を癒やす物語だとも言えるだろう。

当時、愛着障害だった川端は上京して一高に入学したものの、周囲になじめずに苦悩していた。

自己憐憫と自己嫌悪の狭間で傷つきやすいプライドを抱えながら、そんな自分が嫌で、誰にも心を開くことができないという状況にあったのである。

愛着障害だった川端は、愛着する相手を失い、安全基地となる居場所も見いだせないまま、孤立感や疎外感に悩んでいたと言えるだろう。

そんな愛着障害の川端はある日、寮の誰にも行先を告げず、突破口を求めるように伊豆への旅に出た。

そこで出会ったのが旅芸人の一行で、愛着障害だった川端はそのなかの踊子に恋をするのである。

一行と旅路をともにしながら、主人公は、心弾む、どこか童心に戻ったような体験を通して、自分が次第に受け入れられているのを感じる。

たとえばそれを象徴するやり取りは、次の有名な一節である。

踊子が、主人公のことを連れに話す場面である。

「いい人ね」
「それはそう、いい人らしい」
「ほんとにいい人ね。いい人はいいね」

この物言いは単純で明けっ放しな響きを持っていた。

感情の傾きをポイと幼く投げ出して見せた声だった。

私自身にも自分をいい人だと素直に感じる事が出来た。

晴々と眼を上げて明るい山々を眺めた。

瞼の裏が微かに痛んだ。

二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。

だから、世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言いようなく有難いのだった。

山々の明るいのは下田の海が近づいたからだった。(川端康成『伊豆の踊子』)

愛着不安を抱えているにせよ、それを愛着回避によって守っているにせよ、愛着障害の人は、「自分が他人から受け入れてもらえる」と信じることができない。

自分のようなものは誰にも愛してはもらえないだろう。

自分のことさえ嫌っている自分など嫌われて当然だという、根源的な自己否定を抱えやすいのである。

人を信じることができるためには、自らの価値を肯定してもらえるという体験が重要なのである。

「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね」という純粋で、企まざる肯定ほど、愛着障害だった川端が抱えている愛着の傷を癒やしてくれるものはないのである。

それは、彼の自己否定が根源的なものであるのと同じくらい、無条件の根源的な肯定であるからだ。

伊豆の旅から戻った川端は、それまでの悶々とした生活に終止符を打ち、積極的に交友するようになり、社会的体験を広げていく。

受け入れられ、価値を認められる体験が、回避的なスタイルの修正に寄与し、愛着障害だった川端の脱皮の一つのきっかけとなったと言えるだろう。

そして、八年後、『湯ヶ島での思い出』として綴られていた文章のなかから、踊子との部分を結晶化させ、『伊豆の踊子』として完成させるのである。

ジャン・ジュネのような深刻な問題を抱えた人物の回復においても、このことは同じに思える。

盗むことを自分のアイデンティティとしていたジャン・ジュネは、なぜ泥棒稼業から足を洗い、マイノリティのために戦う道に、彼の衝動を昇華することができたのか。

二十年以上にもわたる常習的な窃盗癖を克服することは容易ではない。

ジュネの天才を最初に見出したジャン・コクトーも、たび重なる逮捕と入獄に、次第に愛想を尽かしていく。

しかし、それでもジュネのことを見捨てない仲間もいた。

彼らはラディカルな政治活動や同性愛者だったが、ジュネに振り回されながらも、彼の全てを受け入れ、支え続けようとした。

彼らが、ジュネの安全基地となっていたのである。

泥棒をやめてからも、ジュネはときどき、そうした親しい人から盗んだ。奇妙に思えるかもしれないが、ジュネは物欲をほとんどもたない人であった。

彼は私腹を肥やすために、盗んでいたのではないのだ。

仲間は、一種のコミュニケーションのようなものとして、それを受け止めた。

盗癖さえ、彼を拒否する理由にはならなくなったとき、ジュネは泥棒をやめた。

盗むという以外の関わりをもつことができるようになったとき、その必要性は薄らいでいったのである。

もう少しくだけた例を挙げれば『タイガーマスク』というアニメの主人公伊達直人と孤児院「ちびっこハウス」の子どもたちの関係にも、それはあてはまるだろう。

自分も「ちびっこハウス」で育った伊達直人は、強くなりたいという一念で、悪役覆面レスラー「タイガーマスク」となるが、ちびっこハウスの子どもたちの前では、弱いのが気の優しいお兄さんとして振る舞う。

そして、子ども達の夢を叶えるために、掟を破って、正義のレスラーとして生きていく試練の道を選ぶ。

それは、子どもたちが寄せてくれる純粋な愛着が、守るべき絶対の価値となったからである。

言い換えれば、誰も愛することも、信じることもなかった青年が、子どもたちとの関わり合いのなかで癒され、再び人を信じることができるようになったからである。

それは、まさに愛着の修復が行われたという事に他ならない。