
回避型愛着スタイルの要因として、当初もっとも重視されたのはネグレクトであった。
しかしその後、過保護な支配といった、まったく正反対に思える状況でも、回避型愛着スタイルの傾向が強まることが知られるようになった。
回避型の子どもが、ふつうの家庭でも急増しているが、その背景に多いのはこのタイプである。
これは従来の愛着理論では説明できない、新たな”発見”であった。
実際、厳格すぎる親や過度に支配し過ぎる親に育てられた子どもは、愛着が不安定になりやすく、しばしば回避型愛着スタイルを示す。
十分すぎるほど子どもの世話をしてきたと、親も周囲も思っているのにもかかわらずである。
この回避型愛着スタイルのタイプは、親の意思が優先し、親の命ずるままにやらされてきた人たちである。
この回避型愛着スタイルのタイプの人の子ども時代は、ある種の”強制収容所体験”と言える。
回避型愛着スタイルは強制収容所で過ごした人が、解放された後も、虚無感や無気力、無感動を特徴とする状態を呈するのは、自由意志を長期にわたって奪われ続けてきた結果である。
回避型愛着スタイルは二、三年の強制収容所体験でさえも、そうである。
ましてや、幼いころから、ずっと監視人のような親に見張られ、罰せられ、意思とは無関係なことを無理強いされてきたとしたら。
その影響が、その人の愛着システムや行動・思考様式に深く組み込まれ、その回避型愛着スタイルの人の人生にさらに持続的な作用を及ぼし続けても不思議はない。
過剰な支配を受けた回避型愛着スタイルの人は、自分の感情や意思があいまいなだけでなく、二面的である。
回避型愛着スタイルの人は人と親密な関わりをもったり、人を心から信頼することができないだけでなく、うわべの態度と本音との乖離がみられやすい。
回避型愛着スタイルの人は親が”安全基地”というよりも”監視人”として機能してしまっていたからであり、親に本心を知られること自体が危険なことであったからだ。
そうした回避型愛着スタイルのケースでは、たいてい親は生真面目で、義務感が強く、「~せねばならない」という思考に囚われがちだ。
回避型愛着スタイルの人の親は自然な情愛や共感よりも、目的を達成したり、ルールや基準を守るということに関心が強い。
関わりの量という点では、十分すぎるほどなのだが、質という点でみると、回避型愛着スタイルという問題がみえてくる。
回避型愛着スタイルの人の親は子どもの気持ちや求めるものに応えるという共感的な応答ではなく、ルールや基準に従って一方的に与えるという傾向が強いのである。
子どもの側からすると、求めてもいないものを無理強いされることは、息苦しい体験になってしまう。
それは、歓びよりも苦役と言えるだろう。
回避型愛着スタイルをここまで考えると、一見、ネグレクトとは正反対の子育てにみえるものの、その実態は、子どもの欲求や感情、意思というものを”無視”するという点において、まさにネグレクト(無視)が起きているということがわかる。
いや、意思とは無関係に強制し、子どもの主体性を侵害しているという点で、ネグレクト以上に過酷な虐待ともなり得る。
それゆえ、問題が深刻な場合もあるのだが、親も子もそれを自覚するどころか”いい親”だと思い込んでいる点で、なかなか質が悪いと言える。
回避型愛着スタイルと正しいことを強要しすぎる親
折り目正しい家庭で育った回避型愛着スタイルのSさんは、母親が神経質で心配性だったため、幼いころ、外で遊ばせてもらったことがなかった。
だから幼稚園に入っても他の子たちになかなか馴染めず、小学校に上がってからも行き渋りがひどかった。
回避型愛着スタイルのSさんにしてみれば、周囲の子どもたちは何をしてくるかわからない恐ろしい存在で、大人の方がずっと安心できたのだ。
母親は、何事も正しいことやルールにこだわる人で、食事のときも、出されたものはすべて残さずたべなければ許されなかった。
好き嫌いがあってはならないのだった。
回避型愛着スタイルのSさんは、毎日の食事が苦痛でならなかった。
食べることは、楽しみではなく、義務であり苦役であった。
それから長い年月が経っても、回避型愛着スタイルのSさんは、味を感じないという症状を抱えていた。
食べるのが楽しみだという人のことが、ずっとわからなかった。
「あれが美味しかった」などと他の人が語ったりするのを聞くと、Sさんは悲しい気持ちになるという。
どうしてあんなふうに食べることを楽しめるのか。
味も何もしないものをただ義務としてだけ食べている自分を思って、やるせない気持ちになるのだ。
そのことに象徴されるように、回避型愛着スタイルのSさんの子ども時代は「しなければならない」という義務感に縛られたものだった。
義務を怠ると、母親の厳しい叱責が飛んできた。
何かを心から楽しむという経験はなく、自分から何かをしたいとか、自分が何を感じているとかいったこともわからず、ただ、母親が課すルールと母親の顔色だけが、毎日の暮らしの基準だった。
回避型愛着スタイルのSさんの「自分の感覚や感情がよくわからない」という状態は、失感情症(アレキシチミア)とも呼ばれ、回避型の人にしばしばみられるものである。
これは、主体性を尊重されるよりも、義務に縛られ、他者への従属を強要され続け、自分という領域を侵犯され続けたことの結果である。
長年、他の国に占領され、植民地にされ続けてきた国が、自国のアイデンティティや主体性を失い、宗主国の意思に従うことでしか体制を維持できなくなった状態に似ている。
逆の表現をすれば、子どもは自分の主体性を放棄することによって、親に支配されることで現実に適応する道を選んだと言える。
こうした子どもが親に逆らって主体性をもとうとすると、反抗と非行に明け暮れることになる。
親の支配に抵抗し闘うことは、闘わない道を選ぶよりもおおきな代償を必要とする。
回避型愛着スタイルのSさんは、闘わない道の方を選んだ。
神経質で、不安が強く、体も非力だったSさんには、現実問題、そちらの選択肢しかなかったのである。
闘わないことによって回避型愛着スタイルのSさんは、家でも学校でも「良い子」「優等生」として振る舞い、実際成績も良かった。
そして、一流大学に進学し、大企業に就職することもできた。
ただ、同時に回避型愛着スタイルのSさんは、主体的な生き方を失うことになった。
それは、やがて仕事上の困難となって表面化する。
回避型愛着スタイルのSさんは、マニュアル通りの仕事なら完璧にこなすことができるのだが、新しい発想を必要としたり、前例のない仕事を与えられると、まったくのお手上げになってしまった。
与えられたルールや決まり事の中でしか、考えることも行動することもできなくなっていたのだ。
トラウマと回避型愛着スタイル
回避型愛着スタイルの要因としては、ネグレクトや過剰な支配が挙げられるのだが、回避という現象を考える場合、もう一つ重要な背景を考慮しなければならない。
それは、「人は傷ついた状況を回避する習性をもつ」ということだ。
これは、人間に限ったことではなく、生きとし生けるものすべてにみられる生存のための基本的な反応と言えるだろう。
傷ついた状況を避けることによって、自分を守り、生き延びようとするのである。
回避型愛着スタイルも、そういう側面がある。
ネグレクトに対して回避という反応が起きるのは、期待して傷つくことを避けるためである。
また、強い支配を受けて育った人が回避型愛着スタイルになってしまうのも、自分の意思を認めてもらえない状況に対して、本当の感情や意思を消してしまうことによって葛藤や傷つきを免れようとした結果である。
そうした持続的なストレス状況に対して、回避反応が身についてしまうという場合もあるが、一過性のストレスでも、その不快の度合いが強い場合には回避反応が起きる。
怒鳴られたり殴られたりした人や場所を、人は自然に避けるようになる。
失敗したり、叱られたりした場合もしかりだ。
回避のきっかけとして、身近で起きやすいのは、失敗体験や傷つく体験である。
なかでも愛着にダメージを与えるのは、いじめや仲間外れである。
そうした出来事を、心理的に乗り越えられないと、その状況が再現されることを恐れるようになる。
再現の危険のある場所や状況を避けるのである。
不登校やひきこもりの大部分に、そうした心理がみられる。
特に十代、二十代は、恥をかいたりプライドを傷つけられることに敏感なので、その体験が尾を引き、チャレンジしたり人に接近することに二の足を踏むようになってしまう。
こうした回避反応は、本来一過性のものであるが、その程度が深刻で、長期化した場合には、影響が対人関係や社会生活全般にも及び、ひきこもってしまうというところまで至ってしまう。
また愛着スタイルにも影響し、安定型だった愛着スタイルが、回避型愛着スタイルに変化するという場合もある。
もともと回避型愛着スタイルをもつ人の場合は、そこに回避反応が加わることによって、回避的な傾向がいっそう強まり、社会生活や対人関係がさらにダメージを受けることになる。
横暴な親と本音を言えない子ども回避型愛着スタイル
トラウマと結びついた回避型愛着スタイルを生む典型的な状況の一つは、横暴な親に支配され、虐待を受けたというものである。
この場合、本人の気持ちや意思が無視されるという意味で、主体性の侵害も伴っており、本音が言えないという特徴を示す。
それは、ありのままの気持ちを吐露することが許されない状況におかれてきた結果である。
善意による過剰な支配のケースよりも、当然、愛着はさらに不安定なものとなり、恐れ・回避型愛着スタイルの傾向を示しやすい。
恐れ・回避型愛着スタイルは人を求めながら、人を素直に信じることができず、社会不適応や生きづらさを抱えることにつながるのである。
恐れ・回避型愛着スタイルのある男性は、人の顔色を絶えずうかがい、信じているはずの存在が言ったことに対しても、悪い方悪い方に受け止めてしまうという症状に苦しんでいた。
恐れ・回避型愛着スタイルの彼は、恋人に「別れる」と言い出しては、またやり直すということを繰り返していたのである。
恐れ・回避型愛着スタイルの彼は周りに気持ちを許せないため、しだいに社会に適応することが困難になって、仕事も続かず、引きこもりがちの生活に陥っていた。
そうした対人関係の困難は、育ってきた境遇と無関係ではなかった。
恐れ・回避型愛着スタイルの彼の父親はアルコール依存症で、気に障ることがあると、すぐに手が出た。
「ニ十四時間空襲警報が鳴っている状態」と語るように、父親からいつ鉄拳が飛んでくるかわからない状況だったのだ。
だから、自分の本音を言うことなど、とてもできなかったのである。
やがて恐れ・回避型愛着障の彼は、家の中でだけでなく、人前でも黙っているようになった。
「判断の材料が会話ではなく顔色になってしまった」と言うように、人生の重要な決定も、周囲の期待を敏感に感じ取り、それに合わせるようになったのだ。
これでは、自分の人生であって、自分の人生ではない。
彼は気力を失い、しだいに引きこもるようになっていった。
この男性の場合、単なる回避型愛着スタイルではなく、人から否定されたり、見放されたりすることに敏感な「不安型愛着スタイル」も同居していた。
「恐れ・回避型愛着スタイル」というタイプである。
このタイプは、愛着がより不安定で、人に認められたいが、人を信じられないというジレンマを抱えやすい。
両親の不和に傷つく子どもと回避型愛着スタイル
回避型愛着スタイルを引き起こすトラウマ的状況で、もう一つ頻度の高いのは、両親の不和である。
子どもは母親だけでなく、父親に対しても愛着する。
それゆえに、両親が諍い、争う事は、子どもにとって身を引き裂かれるような苦痛である。
子どもが何よりもみたくないものは、両親が争う姿なのである。
両親の葛藤や離婚は、当然、子どもの愛着に傷を生み、その子の愛着スタイルに長く影響することになる。
両親が争った末に離婚する様をみて、深く傷ついた子どもは、恋愛や結婚に対して積極的になれない。
回避型愛着スタイルは異性と親密な関係をもとうとしなくなることもある。
回避型愛着スタイルは愛情というものを、持続性をもったものとして信じることができないのである。
回避型愛着スタイルのきっかけとして父親か母親のどちらかが、片方の親の悪口をいつも口にしているような場合も、同様である。
子どもは、非難されている親に対しても、非難している親に対しても、心から信頼することができない。
そして、ネガティブで攻撃的な感情にさらされ続けることにより、親密で情緒的な関係をもつことに対して希望や関心よりも不安や抵抗を覚えるようになる。
その結果、情緒的なもののからまない、距離をおいた関係を安全だと感じる。
それも回避性を強める方向に働いてしまうのである。
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「うつ」になるのを避ける回避型愛着スタイル
ネグレクトや過剰な支配から生じた回避であれ、虐待や両親の不和などのトラウマから生じた回避であれ、どちらも「再び傷つくかもしれない状況を避ける」という意味をもっている。
それは、言い換えると、うつになることを避けるということでもある。
人は傷つくと、苦痛を感じるだけでなく、無力感や自己否定に囚われ、しばしば落ち込むという反応をする。
傷つけた相手に反発や抵抗をすることで自分を守ろうとしても、傷ついた思いが拭い去られるわけではなく、時間とともに心に浸透してくることも多い。
こうしてしだいに落ち込みや憂鬱が、その人の心を侵すことになるのである。
そうした経験から、人は自然に、自分が落ち込むかもしれない状況を避けるようになる。
プライドを傷つけられる場所や状況は、その最たるものだ。
そこが学校であれ、会社であれ、行きたくないと思うようになる。
体も心も拒否するようになる。
本来、安全基地として、子どもを支えてくれるはずの親が、子どものプライドや自信を傷つけ、足を引っ張ることもある。
そうした場合には、親との関係を避けるしか、身を守る手立てがない。
親に対して回避型愛着を示すということは、過去の失望から、親に近づかないことがもっとも安全だということを学んだ結果とも言える。
『車輪の下』などの作品で知られるドイツの作家ヘルマン・ヘッセは、母親が死の病床にあっても、見舞いに行くのを極力避け、母親が亡くなったときですら、葬式に行こうとしなかった。
母親は、常に義務感や自分の基準といったものから息子をしつけ、自分の宗教的信念を押し付け続けた人であった。
回避型愛着スタイルのヘッセは、そんな母親の支配にずっと苦しめられられたのである。
母親は、回避型愛着スタイルのヘッセに対して否定的な評価しか与えなかったが、回避型愛着スタイルのヘッセは、誰よりも母親に認められたいという気持ちを抱き続けていた。
母親が死の床にあったときは、彼の処女長編小説が間もなく出版されるという時期に当たっていた。
それでも見舞いに行かなかったのは、自分がかろうじて守っている世界が、死にゆく母親の姿という生々しい現実に触れたり、臨終の母親から否定の言葉を投げつけられることによって、再びバランスを崩し、崩壊してしまうのではないかという危惧があったからである。
それは、言い換えれば、再び自分がうつになり、乗り越えようとしている過去の傷や葛藤に再び飲み込まれてしまうのではないかという危惧でもあった。
母親の死後、ヘッセは重石がとれたかのように、次々と作品を発表し、作家として成功していく。
母親が決して認めようとしなかった回避型愛着スタイルの作家ヘルマン・ヘッセは、多くの読者から熱狂的に受け入れられ、支持されたのである。
ある意味、それは母親にそっぽを向き、母親を拒否したからこそ手に入った成功だとも言えた。
回避型愛着スタイルの彼の作品には、まさに回避型愛着スタイルのヘッセの苦しみと生き方が描かれていた。
母親の死によってさえも自分の領分が侵されないことを自ら示すことで、ヘッセは自分の文学を打ち立てることができたのだ。
ただし、この時点でヘッセは、母親との問題をそれほど自覚していたわけではない。
自分の抱える苦しみは、自分の生きづらさや青年期特有の問題、あるいは、その時代や社会の問題として受け止めていたのである。
自らの生きづらさの正体について、回避型愛着スタイルのヘッセがはっきり自覚をもつようになるのは、中年になって再びうつに苦しみ、ユングの分析を受けるようになってからである。
母親を拒否しながらも、ヘッセは母親から完全に自由になったわけではなかった。
母親に対する罪悪感が、彼を無意識のうちに苛み、母親から投げつけられた言葉を、自分に向かって投げつけるようになっていたのである。