「偽りの自分」を生きる人

人は誰でも、他の人に見せている自分と、「本当の自分」と思っている自分との間にギャップがあります。

そして、多かれ少なかれ「本当の自分」を生ききれていないと感じています。

しかし、それでもやっぱり「自分が」生きているという確かな感覚があります。

ところが、「本当の自分」と現実に生きている自分とのギャップが大きいために、「偽りの自分」を生きているという実感を強く持つ人がいます。

自分ではない自分

いつのころからか、「自分は自分であって、自分ではない」という感覚を持っています。

心の中の「本当の自分」と、外に出て活動している自分とは別の自分という感じです。

勉強したり、サークル活動をやったり、動いている自分は、そのように求められているからそのように動いているに過ぎない。

だから、「偽りの自分」。

人から見れば、明るく学校生活を楽しんでいると見えるのでしょうが、内心はつらいことだらけ。

でも、そのつらい自分は「偽りの自分」であって、「本当の自分」ではないと思うことで救われています。

誠実さとは、自分への誠実さを犠牲にして、他の人が僕に期待することへの誠実さなのです。

誠実さを偽っているのです。

だから、自分を偽善者だと感じることがあります。

じっさい自分のなかに邪悪が住んでいます。

たとえば、他の人にやさしい言葉を発していても、言葉とは裏腹な冷酷な悪気を持ってその人を見ていることがあります。

毎年、夏休みに子どもたちのキャンプのボランティアをしていて、「子どもがかわいい」と言うけれど、「かわいげのないガキ」と思っている心の方が強いかもしれません。

この邪悪さを隠すことが、自分にとっての人つきあいの重要なテーマになっていて、誠実さや優しさは、邪悪さをカモフラージュする隠れ蓑です。

「人はだれでも本当のことは言わないものだ」ということもあります。

ホームルームや道徳の時間に他の人が発言していても、「本当に考えているのは、別なことだ」と思いながら聞いている人もいるでしょう。

Aさんは本当の苦しさや辛さは言わない、というのがこの社会のルール。
この場面ではこう言うべき、あの場面ではああ言うべきと、決まっている。
それに従って、みんな、嬉しいとか、楽しいとか言っているに過ぎないと思うという。

たさんとえば、「近くに来たときは寄ってね」と、人は言うけれど、それは本当に「来てほしい」という気持ちの表われではなく、ただ言うだけ。

物理や化学、進化論や歴史を学んでも、それを現実のものと受け止められなくて、言葉の上だけのバーチャルなものとしか感じられません。

この世界はむしろ非現実なのであって、それぞれの人の心の中の世界こそが真実の世界だと思うんです。

Aさんは高校時代まで、他人は皆こうした二重性で動き、生きているものだと思い込んでいました。

でも、大学に入って、自分は他の人と違っているのかな、という疑惑を持つようになりました。

Aさんはサークルの仲間と接するなかで、他の人となにか調子が合わず、違和感があるんです。

心の奥底のところで、自分はどこかおかしい、なにか欠陥がある、という感じです。

他の人は「本当の自分」と「偽りの自分」とに分裂していなくて、確かな自分として存在しているように感じられます。

自分があり、自分の言葉を言い、だから、自信があって力強く、スケールが大きいようで、圧倒される思いがします。

一流といわれる大学にいるけれど、僕には社会でやっていくための実力がついていないんです。

就職して、やっていく自信が持てないんです。(Aさん21歳男子大学生)

演技としての自分

22歳OLの例。

二人の私がいます。

一人は、強がって明るくふるまう私。

もう一人は、誰にも見せない臆病で自信のない私。

内心では、自分はみんなが注目する存在だと思っています。

かなりの美人の部類に入ると。

でも次の瞬間には、「だめだなあ」と思ってしまう。

その気持ちの揺れがとても大きいんです。

子どもの時から親から求められた通りに動いて、自分を演じているんです。

子どもらしい無邪気さや純粋さでさえ、私には演技でした。

22歳の今でも、親の前では無邪気で素直な子どもを演じています。

これは母親の血を引いたんです。

母親は、一人っ子の私に過干渉で、やはり演技ばかりしている人です。

夫婦喧嘩の真っ最中でも、電話が鳴って電話にでると、まったく声が変わって冷静に、何事もない仲睦まじい夫婦であるかのように話せる人です。

子どもの時から、親の言う事が誤り、親の対処の仕方が不適切、そう思っても、親が傷つくと思って黙って耐えてきました。

親を嫌いということはありません。

今でも母親と買い物に一緒に行ったりしますし、むしろ他の人からは仲のよい友達親子と見られています。

それも二人の演技なのかもしれませんけど。

親の目だけでなく、他の人の目をいつでも気にしているのです。

自分がどんなふうにしたいかではなく、「他の人からどんなふうにみられているか」ということで行動してしまいます。

服装も髪型も化粧も、自分が好きだからというんじゃなくって、見られて恥ずかしくないようにということが第一条件です。

感情も演技。

悲しい場面だから「悲しいんだ」と思い、嬉しい場面だから「嬉しいんだ」と感じているみたい。

「好きなことは?」と聞かれると一応答えはするけれど、実際には「別にない」というのが本当の気持ち。

恋愛においてさえ、本当にその人が好きなのか分からないんです。

この人でいいのだろうか、ただ、相手に勝手に自分のイメージを重ねて好きなのだ、と思い込もうとしているんじゃないかって。

「君が25歳になるまでに結婚しよう」と彼が言うので、私もそれに応えてはいるけれど、結婚に至る姿を現実としてはイメージできません。

それに、心のどこかで、本当に愛する人がやがて現れる、とも思っています。

それで、彼の気持ちを裏切っているようで、自分を責めてしまいます。

楽しかったはずのデートの後でも、自己嫌悪に陥ってしまうことが少なくありません。

心に入ってこられるのが恐いんです。

むしろ身体だけの関係の方が安心で落ち着けます。

心も通じ合おうとすると、心が乱されてしまいます。

こんなことでは、結婚しないほうがいいですよね。

両親の結婚は遅く、ようやくできた一人娘の私は大事にされて、私は両親の人生そのものともいえるようなものです。

でも、自分が両親とも、恋人とも、親友とも本当につながっているとは実感できません。

「自分は本当はどこにもいない」という気持ちです。

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認めてもらいたくて

四十代女性の例

介護の仕事をしています。

お年寄りの世話をするのは楽しいのですが、今の状態には疲れを感じてしまって、現在の職場に勤めるのはもう限界かな、と思っています。

自分より少し若い責任者と組んで仕事をしているのですが、この責任者が少し頼りなくて、私が代わりに仕事を引き受けることになってしまうんです。

この責任者がもたついていて、他の部署や、お年寄りに迷惑をかけているのをみると、ついフォローしてしまうんです。

周囲の人もトップの人も、この状態を分かってくれていて、「自分の分担だけをしっかりやって、あとは手を出さないようにすれば」と助言してくれるのですが、ついつい手を出してしまうのです。

口も出してしまうんです。

困った場面に出くわすと、みんなが「頼むわ」と言っているみたいで、ついなんでも引き受けてしまうんです。

それで、「なんで私がしなければならないのよ」って、投げ出したくなることがあります。

考えてみると、ずっとそのような役回りでした。

しっかりした女の子として見られていて、学級委員長や児童会、生徒会の役員などをやっていました。

子どもの頃は、母親がそれを喜んでくれたし、自分も晴れがましく、嬉しいことでした。

妹は屈託のない明るい性格で、甘えるのがとても上手ということもあってか、母親がかわいがるのは妹。

でも、なにかと頼りにするのは私の方なんです。

親として自分でやってよ、と思うことまで、私に頼みました。

いまでも何か困ったことがあると、電話してくる母なんです。

父親は几帳面な性格で、母親は甘えん坊でずぼら。

父の単身赴任の期間が長かったから、離婚しないで済んだ、と言えるかも知れません。

それで、父が帰宅したときには、父にも気を使ってあげなければならないんです。

私は父親が大好きだったので一緒にいたかったのですが、父は自分の殻にこもる人で、あまり家庭にいることを好まない人でした。

子どもと一緒にいても楽しまない人でした。

なんでも引き受けて、がんばってしまう私の傾向は、そんな父母に認めてもらいたいということで作られたものでしょうか。

「ノー」って言えて、もっと怠け者の「本当の自分」でいられたら楽だろうなと思います。