ひきこもり克服の全体的な流れ

ひきこもりの克服の最終的にめざす状態

個人・家族・社会の三つのシステム間に成立する「ひきこもりシステム」というものがあります。

これは一種の悪循環のシステムで、こじれればこじれるほど「ひきこもり状態」が安定し慢性化するような働きを持っています。

そこでは個人のみならず、家族も本人を抱え込み、世間体からかくまい通そうと努力します。

家族もまた、ひきこもりシステムへと深く巻き込まれているのです。

例えば三つのシステムの相互関係にも、段階ごとにパターンがあります。

本人も家族を避け、家族も治療に参加していない状態。

家族は相談に通っているが、本人にはそれを知らせていない状態。

家族は相談に通い、本人もそれを知りつつ受診できない(しない)状態。

本人は治療に通っているが、家族は治療を拒否している状態。

こうしたパターンに準じて理解することも、状況を整理するうえでは役に立ちます。

治療相談を通じて、最終的にめざすのは、さしあたり次のような状態です。

家族、本人ともに治療に継続的に参加し、また家庭でも治療について冷静に話し合いができること。

とりあえずここまでの段階にいたることができれば、本人の立ち直りは時間の問題といえます。

少なくとも、事態は改善の方向に向かいはじめ、ひきこもりシステムは解除されていきます。

逆に、ずっと治療努力を続けているのに、なかなか本人の社会参加が難しい場合、治療をめぐるコミュニケーションの流れに、何らかの問題がひそんでいることが多いのです。

家族の誰か一人が、治療に対して消極的であるだけでも、大きな障害となります。

あるいはまた、家族が治療に熱心すぎるのも考えものです。

熱心すぎるぶん焦りも強く、少しでもよい治療を求めてとう東奔西走、病院やカウンセラーをとっかえひっかえしているようなケース。

あるいは家族会の活動や自分自身のカウンセリングに、過度に打ち込んでしまうケース。

いずれの場合でも、本人の意向は完全に置き去りになってしまいます。

本人が従順なのをよいことに、このパターンに陥っている家族は、しばしば「これほど頑張っているのにどうして報われないのか」といった思いを抱きがちです。

しかし、本人との相互的なコミュニケーションの回復なくして、ひきこもりの治療はけっして成功しません。

さきに示した治療目標にいたることは、それほどたやすいことではないのです。

私は悲観論をいっているのではありません。

むしろ一定の方向へ向けた努力をねばり強く続けていけば必ず報われる、という事実を強調したいのです。

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社会的ひきこもりの克服のための二つの段階

こじれきった慢性のひきこもり状態から、どのようにして立ち直りをはかっていくか。

ごく大ざっぱに考えて、これには二つの段階があります。

まず第一段階は、隣り合った二つのシステム同士の接点を回復することです。

すなわち、本人と家族、また家族と社会という、二つの接点が十分に回復されなければなりません。

そして第二段階では、本人と社会との接点をいかに回復するかが、はじめて問題となります。

このように書くと当然のことのようですが、意外にこの順番は守られないのです。

しばしばみられるのは「個人システム」を、いきなり「社会システム」に結びつけようとして失敗するケースです。

例えば、地方の全寮制の学校に本人を強制的に送り込むこと。

強引にアパートを借り、単身生活をはじめさせること。

住み込みの職場をみつけだして、無理に就職させること。

これは初期には軌道に乗るかにみえても、じきに本人が潰れてしまい、家族への深い不信を残すのみの結果におわることが多いのです。

このような失敗を繰り返さないためにも、まず隣接するシステム間の接点を回復する作業からとりかかるほうが確実です。

「家族システム」と「社会システム」との連動は、比較的容易です。

具体的には、両親が治療相談機関に赴いたり、あるいは家族会に参加したりすることです。

「ひきこもり問題」を家族の問題として抱え込むのではなく、社会との連携において考えるような、開かれた態勢を作ることです。

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社会的ひきこもりを克服するためのもっとも大切な両親の関わり

次いでとりかかるべきは、家族システムと個人システムの連動です。

ひきこもっている本人とその家族が、どのような形で接点を回復できるか。

さらに具体的には、本人と家族との会話がまず可能になり、より親密でうちとけたやりとりへ向けた働きかけの段階です。

この段階がもっとも困難で、時間もかかるようです。

こじれ、慢性化したひきこもり事例では、本人が家族と顔を合わせることも避けていたり、いっさい口をきかず、メモだけで意思表示するようなケースもあります。

しかし、いかに断絶が深いようにみえても、この段階を抜きにして治療は進展しません。

逆にいえば、この段階をどれほど手を抜かず丁寧に行うかによって、その後の経過がかなり違ってくるようなのです。

この段階はそれほど重要な意味を持っています。

この段階を全うすることが難しいのは、問題とされるのが本人と家族という関係に限らないからです。

治療の中で、しばしば家族間のさまざまな価値観の相違や摩擦が問題化してきます。

もっとも多くみられるのは、母親だけが治療に熱心で、父親やきょうだいはまったく無関心か、単なる「怠け」として批判的に捉えているようなケースです。

もちろんこの逆の場合もあります。

ここで改めて強調しておきますが、ひきこもりシステムの解消に際して、もっとも重要であるのは両親の関わりです。

死別や離婚といった例外をのぞき、両親間の一致した協力態勢を抜きにして、十分な改善は期待できません。

あるケースでは、ひきこもっている本人の姉が一人で気をもんでおり、両親は叱咤激励にあけくれるのみ、という状況でした。

病院に通うのは必然的に姉一人です。

セラピストは姉に対して「きょうだいが関わりすぎることは、治療の役に立たないばかりか、双方のためにならないことが多い。

あなたはこれ以上、本人の治療相談にタッチすべきではない。

それよりはむしろ、じぶんの将来を考え、それにむけての行動をとるべきではないか」と答えました。

姉はセラピストの指導を受け入れ、以後いっさい本人の治療に協力しなくなりました。

その結果、両親が否応なしに通院をはじめるをえなくなりました。

ささやかではあっても、これは一つの進展です。

治療者は家族とねばり強く交渉しつつ、このような小さな進展を積み重ねていくよりほかないのです。

このように家族間で意見の相違が大きい場合、本人とのコミュニケーションをはかる以前に、まず家族全体の協力態勢をある程度固めておく必要があります。

「ある程度」というのは、最初から万全を望めないためもあります。

また、治療が順調に軌道に乗ることで、はじめて両親の治療意欲が固まってくるという部分がどうしてもあります。

しかし少なくとも、「ひきこもり」が「怠け」とは違うこと、それが治療を必要とする状態であること、家族の協力が必要であるということ、この3点だけはしっかりと踏まえてうえで、対応をはじめることが望ましいのです。

もし両親の間の葛藤が深刻で、どうしても意見がかみ合わないような場合は、本人の治療以前に、夫婦カウンセリングを勧めることもあります。

まず両親が変化を恐れず、困難に立ち向かう姿勢を示すこと。

こうした態度変更は、かならず本人に伝わり、よい影響をもたらします。

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ひきこもりを「怠け」とは考えない

さて、以上のような態勢が整ったものとして、家族の本人への対応を、どうのように進めるべきでしょうか。

実際の事例においては家族の対応を段階的に行うことを勧めてきました。

「ひきこもりシステム」に即していうなら、いきなり接点を持とうとすること、つまりコミュニケーションを強要することは、いたずらに本人を刺激するのみであることが多いためです。

まず家族環境を十分に調整して、本人が張り巡らしている「家族への防護壁」を徐々にやわらげていく必要があります。

家族の対応も、本人の状態の変化にしたがって、やはり段階的にすすめる必要があります。

本人は周囲からの働きかけを、はじめはまったく拒否することが多いからです。

こうした本人の抵抗感を、時間をかけて少しずつ和らげていく作業が、まずなされなければなりません。

ですから、第一の目標は「家庭の中で本人の気持ちを安定させること」になります。

事例のほとんどが友人も少なく、長期間外出もしないような生活をおくっています。

つまり、家庭こそが本人にとって唯一の居場所なのです。

せめて家庭の中では、安心してくつろいでいられること。

まずこのことが、その後の社会復帰を進める上で欠かせない前提となります。

そのためにはまず、本人の状態をけっして「怠け」と考えないことです。

家庭の中では本人の悩みや葛藤は目につきにくく、ただ気楽にぶらぶらしているとみられがちです。

しかし、本人が感じているであろう引け目、挫折感、劣等感などは、しばしば周囲の想像を絶したものです。

叱咤激励が有害であることは、いわゆる「正論」というものも、治療にはあまり役に立ちません。

「二十歳を過ぎれば社会的に責任がある」「働かざる者食うべからず」「親があまやかしたからこうなった、もう甘やかさない」「自分で稼ぐ年齢なのだから、小遣いは渡さない」「厳しく対応しなければ自立できない」。

いずれも、しごくまっとうな意見ばかりです。

一つ一つは、けっして間違った意見ではない。

しかし、これらの正し過ぎる言葉は、実際には本人を恥ずかしめ、傷つけるだけです。

中井久夫氏も指摘しているように、思春期の事例ではとくに「本人にをかかせない」ということを心掛ける必要があります。

「怠け」や「正論」の視点からは、本人を追いつめる発想しか出てきません。

「甘え」「わがまま」「自己中心的」という見方も同様です。

しかし追いつめるだけでは治療にならないことは、いうまでもありません。

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一番不安なのはひきこもりの本人

しかしそうはいっても、家族の不安の種はなかなか尽きません。

例えば「あまり家庭の居心地が良くなっては、外の世界に出ていけないのではないか」という心配が、しばしば聞かれます。

しごくもっともな疑問ですが、実はこのような意見は、本人の気持ちを十分に理解していれば、まず出てこないはずのものなのです。

ひきこもったままになることを恐れているのは、誰よりもまず、本人自身であるということ。

これは、ほとんどすべての社会的ひきこもり事例についていえることではないでしょうか。

家庭の居心地がどんなによくても、この不安がすっかり解消することは、けっしてないでしょう。

つまり家族の心配はそのまま、本人の心配でもあるのです。

家族は「親の心子知らず」のように感じていても、本人はむしろ普通以上に、家族と同じ価値観を共有していることが多いのです。

親のお説教や「正論」が通用しないのは、一つにはこのためでもあります。

身に染みて判っていることをことさらに諭されるのは、誰であれ不愉快ですし、反発したくもなるでしょう。

本人もまた、将来の不安を感じ、自分の状態を情けなく思い、しかしどうしていいかわからないのです。

けっして気楽な身分でのんびり気ままに過ごしているわけではなく、不本意な思いを強く抱きながらも、社会に出て行けないのです。

こうした辛さは、まず家族が共感的に理解しておくべきでしょう。

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家族との信頼関係の修復

第二段階では、本人との会話の機会を徐々に増やし、これを通じて家族との信頼関係を取り戻すことが、主な課題となります。

ひきこもり事例では、本人と家族との会話が、しばしば極端に貧しいものになりがちです。

たまにお説教する以外には、何を話していいかすら判らない、という家族も少なくありません。

しかし、会話が乏しいままに長期化すれば、家族関係が一層ぎくしゃくしたものになり、克服への糸口もつけにくくなります。

家族に、普段からまめに(ただし、くどくならないように)声をかけることを勧めます。

無言でも返事を強要したりせず、あきらめずに何度でも、根気よくはたらきかけること。

日常の挨拶や、ちょっとした声掛けからはじめて、本人が応ずるようなら、少しずつ話題をふくらませます。

話題としてはたわいない世間話や、趣味の話などがよいようです。

仕事や学校、同年代の友人や結婚の話などは、本人の引け目や劣等感を刺激することになるだけなので、避けたほうが無難です。

ただし、本人のほうからそうした話題をもち出してきた時は、その限りではありません。

本人からの話しかけは大きなチャンスでもありますので、どのような話題でも、まずしっかりと耳を傾けることからはじめます。

話しかけるに当たっては、話す時の表情や口調にも注意が必要です。

どんなに本人を気遣う言葉であっても、苦虫を噛み潰した顔で、切り口上でいわれたのではなんにもなりません。

言葉と態度がうらはらにならないように、できるだけ判りやすい態度を心掛けることが大切です。

いいたいことを態度や行動で悟らせようとするのではなく、言葉で伝えていくこと。

もちろん「皮肉」や「あてこすり」も禁物です。

対応の基本は、あくまでも誠実な「正攻法」です。

回りくどく、搦手から攻めるような方法は、治療上はほとんど役に立ちません。

これはかえって無用な「勘ぐり」を増やすのみで、家族関係は不安定なものになるでしょう。

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恨みや非難をどのように受け止めるか

両親からの働きかけに対しては、当初まったく反応がないか、むしろ幾分のとまどいで迎えられるのが普通です。

しかし、時間をかけて粘り強く接していけば、徐々に返事が返ってくるようになり、態度も柔らかく変わってきます。

それにつれて、会話もだんだんと豊かなものになっていくでしょう。

会話が増えてくる当初は、いろいろな思いがけない話題が出て来て、戸惑わされることもしばしばあります。

例えば、ひきこもり事例では両親に対して秘かに「恨み」を持っていることがあります。

例えば「こんな惨めな自分が今あるのは、育てた親の責任である」「本当は行きたくない学校に、無理に行かされた」「あの時無理にでも学習塾に入れてくれれば、皆に遅れることはなかった」「いじめられて苦しんでいる時に、気づいてくれなかった」「近所の環境が悪かったのに、引っ越しをしてくれなかった」「中学生からやり直したい。時間を元に戻して欲しい」などのような。

こうした理不尽とも思える非難の矛先を向けられた時、それでも冷静でいられる親は少ないでしょう。

「それは事実ではない」とか「そんな理屈は通らない」といった、「正しい反論」をつい、したくなってしまうかもしれません。

しかし、ここでも「正しさ」は、さして重要なことがらではありません。

とにかくいいたいことはさえぎらずに、最後までいわせ、耳を傾けること。

すぐに遮って反論したり、無理に話をそらしたりすべきではないのです。

たとえ本人の記憶が不正確で、明らかな事実誤認があったとしても、本人がどのような思いで苦しんできたか、まずそれを丁寧に聞き取ることに意味があるのです。

もちろん「いつも同じことを、くどくど聞かされるので参ってしまう」とこぼす家族も、少なくありません。

しかし、そのような家族は、しばしば本人にいいたいことを十分にいわせていません。

本人が最後の言葉を言い終わるまで、じっと聞き役に回り続けることは、かなり困難なことです。

「何が正しいか」ではなくて、本人が「どう感じてきたか」を十分に理解すること。

それが誤った記憶であっても、「記憶の供養」をするような気持ちでつきあうこと。

これは本当のコミュニケーションに入る手前で、どうしても必要とされる儀式のようなものなのです。

ただし、注意すべきなのは、「耳を傾けること」と、「いいなりになること」はまったく異なる、という点です。

当たり前のようですが、しばしば混同されがちなことです。

例えば、本人が腹立ちのあまり、謝罪や賠償を要求してくることがあります。

こうした要求に対しては、原則として応ずるべきではありません。

推測では、こうした要求は、訴えに対して十分にとりあわなかった家族に向けられがちのようです。

訴えを家族に届かせるために、より強烈な表現が選ばれた結果の、謝罪・賠償請求なのです。

ですから、やはり大切なことは、本人がほんとうに「自分の気持ちを聞き取ってもらえた」と感ずることです。

そのように感ずることで、格別のことは何もしなくても、恨みや要求は次第に鎮まっていくものです。

ひきこもりに真に受容的であるということ

本人からの批判に対して反発するだけの両親がいる一方で、あまりにも批判を深刻に受け止めてしまう両親もいます。

自分たちの育てかたや養育環境がまずかったのだと、深い悔恨にとらわれてしまうのです。

しかし、こちらもまた問題があります。

養育や進学のことについて後悔すべき点があったとしても、過ぎた後悔は治療の妨げになります。

私はこうした家族に対してはいつも、「後悔ではなく、反省だけしてください」と指示しています。

「反省」であれば、今後の適切な対応に結びつけられるからです。

過度の後悔がまずいのは、堂々として応ずべき時に、どうしても及び腰になってしまうからです。

その結果両親が、まるで大罪人のように、何度も不毛な謝罪や償いの行為を繰り返させられることになります。

こうなると両親、本人ともに次第に混乱していきます。

本当に「受容的」であるためには、その枠組みがきちんと示されなければなりません。

受容のための器が「底抜け」では、受容の意味をなさないでしょう。

さらにまた、制限なし、底なしの受容は、むしろ相手に「呑み込まれる恐怖」を与えかねません。

受容には「底」や「枠組み」が必要ですし、それが破られようとする時は、むしろ堂々としてそれを拒む態度も必要です。

繰り返しますが、親は必ず「受容の姿勢」と同時に「受容の枠組み」を判りやすく本人に示すべきなのです。

もう一つ重要なことは、一度はじめた働きかけはかならず続けるということです。

はじめのころは、どの家族も熱心にちりょうに取り組みます。

頻繁に通院し、医師の指示をきちんと実行し、家族会にも参加し、本人にも懸命に働きかけます。

しかし、治療が長期間に及び、本人の状態がなかなか変わらずにいると、家族もだんだん無気力になってしまいます。

せっかくはじめたよい対応が、だんだん行われなくなってしまうことも少なくありません。

これは実際のところ、何もしないよりもまだ悪いことです。

ひきこもっている本人は、表面からはわからなくても、家族の動静には非常に敏感になっているものです。

家族が何か、以前とは異なった対応をはじめれば、本人は必ずそれに気付いています。

しかし本人も、家族の変化に合わせて、すぐに変わることはできません。

むしろ家族がどの程度真剣に取り組んでいるか、気まぐれな変化ではないかどうか、かなり冷静に眺めているものです。

そんななかで、せっかくはじめた働きかけを中断されることは、本人にしてみれば、家族からあらためて「おまえを見捨てる」と宣言されることに等しいのです。

好ましい対応を継続するためには、まず無理のないペース配分を考えることと、いったんはじめたら半年や一年ではあきらめない、という覚悟が必要です。

最終的な目標は、本人と家族との間に健全なコミュニケーション回路が開かれることです。

これは具体的にはどういうことでしょうか。

いくつかの家族の中でその指標の一つに「両親と本人が冗談をいい合えること」を考えています。

軽く相手をからかうような言葉が日常的に、自然に交わされるような関係。

ある程度家族間の調整が成功したケースでは、このような関係が次第に可能になってきます。

このような関係は、ほどほどの親密さと同時に、ほどほどの距離感が保たれていなければ成り立ちません。

とりわけ、距離が十分とれない段階では、冗談が通用せず、すぐ「勘ぐり」や家庭内暴力につながったりしがちです。

また双方が互いに遠慮しすぎる関係であれば、それこそ冗談どころではありません。

ほどほどの距離感が維持されていれば、「社会的ひきこもりの治療」という問題意識が共有され、ともに治療に取り組むという理想的な関係が達成しやすくなります。

家族の中の犯人捜しの理屈

ひきこもり事例の治療に当たっては、家族の全面的な協力が必要になります。

ほかの疾患と比べても、家族の重要性は段違いに大きい。

他の疾患の場合、家族の協力が不十分でも、薬物や個人精神療法などで、あるレベルまでは治療できます。

しかしひきこもり事例の場合、家族の協力が得られなければ、その治療はほとんど完全に不可能です。

そもそも本人に治療意欲がまったくないか、きわめて不安定である以上、家族が協力せずして治療にならないのは当然ともいえます。

ここでは「家族」とは事実上、両親のことです。

両親が全面的に関わることが、治療上不可欠であるということ。

さらにいえば、両親以外の家族あるいは親戚の関与は、不要であるか、あるいは有害です。

父親の無関心も問題で、しばしば治療は母親に任せきりになりがちです。

本当に任せきりならまだましですが、父親本人は、気まぐれに本人を叱りつけたり激励したり、それで責務を果たしたつもりでいることが多い。

しかしそのような関わりは、治療の足を引っ張るものでしかありません。

もちろん父親には仕事がある関係で、治療の中で母親の比重が大きくなることは避けられません。

しかし経験的には、父親が熱心なケースほど、治療も進展しやすいのです。

やはり両親がひきこもりへの理解を共有し、力を合わせて事に当たるほうが望ましい。

定期的に通院するなどは無理でも、時には両親そろって家族会や勉強会に参加するなどして、本人への対応や心構えを十分に一致させておくことです。

残念ながら、こじれたひきこもりのケースでは、両親の関係もしばしばぎくしゃくしたものになっていることがほとんどです。

父親は「母親の養育方針が間違いだった」と主張し、母親は「父親の無関心が原因だ」とゆずらない。

しかしこれは、もっとも避けるべき「犯人捜し」の論理です。

そう、犯人捜しはつまるところ、答えのない問いであり、治療上は害の多い考え方です。

何よりもひきこもっている本人が、一番そういう考え方に陥りやすい。

「自分がこうなったのは親のせい」という発想は、両親のそうしたいさかいからも影響を受け、いっそう強化されてしまいます。

これを防ぐには、回り道のようでも、両親の夫婦関係から見直す必要があります。

話し合いで解決ですこともあれば、カウンセリングが必要になることもあるでしょう。

ともかく、両親が夫婦として仲良くなれること、そのことの治療的効果は、絶大なものがあります。

両親がみずから葛藤の解決に取り組み、それを乗り越える姿は、本人にも確実に希望をもたらすでしょう。

また、しばしば密室的な母子関係が生まれて、治療の妨げになることはみてきたとおりですが、母親が父親と親密な関係にあることで、このような密室化は防ぎうるでしょう。

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長期のひきこもりの克服のために

事態が深刻であっても、いやむしろ深刻であるほど、絶対に関わろうとしない親もいます。

とりわけ父親にはこのタイプが多いのです。

どんなに母親が促しても話し合いに応じないばかりか、「お前がなんとかしろ、俺は知らん」の一点張り。

当の本人は仕事に没頭するかのようで、実はもっとも大きな困難を避け、仕事へと逃避しているのです。

つまり、これもまた「ひきこもり」なのです。

このような態度は、やはり想像力の欠如として批判されなければなりません。

問題なのは、誰が悪いかというような瑣末な事柄ではなく、これからどうあるべきか、ということなのです。

もし今すぐに手を打たなければ、十年後、二十年後には、三十代ないし四十代に至ったわが子を養い続けなければなりません。

そう、もちろん定年後もずっと、です。

事態を漫然と放置しつつ、目前の状況から目をそらし続けることの結果は、それほど歴然としています。

専門家がこのようにあえて将来の不安をあおりますと、一部の親は「子どもが立ち直れるなら何でもする、どんな犠牲でも払う」といった、過剰反応に陥ってしまいます。

これはこれで困ったものです。

両親に、本気で治療に取り組んでもらいたいと考えていますが、何も「すべてを投げうって治療だけに専念せよ」と主張したいわけではないのです。

治療自体は、生活の一部をそのために割くだけで、十分に可能なのですから。

それでもかなりの数の、とくに母親が、なかば償いの気持ちから、本当に何もかもなげうって本人の世話に当たろうと試みます。

このような密着した母子関係は、むしろ治療の妨げになります。

それにもかかわらず、そのような関係がしばしば生まれてしまうのは、なぜでしょうか。

それが、本人も、また母親自身も、そのような関係をどこかで望んでいるためと考えています。

自分を犠牲にすることの甘美さもまた、こうした関係を強めるでしょう。

こうなってくると、犠牲も献身も、一種の中毒のようなものになってしまいます。

本人は「僕は母親なしでは生きていけない」と感じ、母親も「この子は私なしでは生きていけない」と確信する。

もちろんそれは錯覚に過ぎないのですが、この中毒作用はそれほど強烈なのです。

もう一度いいますが、克服を考えるのなら、このような「愛情」は禁欲されるべきです。

むしろ、ひきこもり治療という長期戦、それもかなりの消耗戦をやり遂げるには、両親それぞれが自分の世界を、しっかりと確保する必要があります。

父親には仕事やつきあいがありますから、この点は主に母親について強調しておきます。

24時間、本人と向き合って過ごすようなやり方は、まったく好ましくありません。

母親もまた、パートなどの仕事や趣味、習い事などの時間を十分に確保すべきですし、人付き合いも欠かせません。

そのような場面で、母親が自分のための時間を確保することは、母親自身の精神的バランスの維持に役立つでしょう。

母親が外に出かけることを非常に嫌がる事例もありますが、あえて振り切ってでも出かけて行くことで、本人の中にも「母親という個人」があらためて認識されるでしょう。

自分とは異なる個人としての母親を認め、その事実を受け入れること。

こうした変化は、ひきこもり治療の中ではきわめて重要な意味を持ちます。