不寛容な人が寛容力を培うには

人が許せない不寛容とは

不寛容さを表す自分の心の大きさ

もっと「寛容力」がほしい。

「寛容力」があれば、こんなにしんどい思いをしなくていいのに。

こんなふうに思うのは、どんなときでしょうか?

たとえば、職場のあなたの同期の人が、大きな実績を上げたとき。

その同期の人が頑張っていたのは見ていたので、一緒に喜んであげたいけれど、差をつけられてしまったようで悔しいし、自分のふがいなさにもイライラし、素直に喜べない・・・。

また、一緒にいたあなたの友人が、「あなた、若いわね!」「きれいね!」と周囲から褒められたとき。

あなた自身が何か嫌なことをいわれたわけではないけれど、その友人ばかりが注目されることにイライラする・・・。

あるいは、幼いわが子が「自分でやる」といって牛乳をコップに入れようとして、うまくできなくてこぼしてしまったとき。

あなたは、子どもがわざとやったわけではないとわかってはいるけれど、思わず「なんでママを困らせるようなことをするの!」と叱りつけてしまい、そのあと自己嫌悪・・・。

私たちは日々、
「なぜ、そんなことで怒るの?」
「なにもそんなことでイライラしなくても・・・」

というようなことに対して、怒ったり、イライラしたりするものです。

だから、寛容力がほしくなる。

ところで、「寛容」とはそもそもどういう意味でしょうか。

辞書を引くと、
「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。
他の罪や欠点などを厳しく責めないこと。またそのさま」
とあります。

つまり、不寛容とは逆に、心が狭くて、人の言動を受け入れないこと。
他の罪や欠点などを厳しく責めること。です。

誰しもそんな人間になりたくない。

もっとおおらかで、柔軟性があって、ふところが深くて、ささいなことにイラッとしたり、傷ついたりしない人間になりたい―。

そう思うのは当然かもしれません。

何が人を不寛容にさせるのか

ただし、じつは、寛容力を身につけたいという前に、自分を不寛容にさせる「怒り」や「イライラ」がどうして起こったのかを考えることが、とても大切です。

同期の人が手柄を上げたのを喜べなかったり、「若いね」「きれいだね」と注目される友人にイラついたりしたのは、自分の「褒められたい」という欲求が満たされず、自信が小さくしぼんでいくようで苦しかったのかもしれません。

子どもの失敗を許せずに叱りつけてしまったのは、自分が最近、寝不足で疲れていて、手間を増やされ、また睡眠時間が削られるかもしれないことが許せなかったからかもしれません。

このように、相手に不寛容になってしまう原因には、自分の「怒り」や「イライラ」があります。

「寛容力」を高めるためには、その「怒り」や「イライラ」のもとを見つけ、きちんと対処する必要があるのです。

寛容力がなくなると心身に不調が現れる

「自分の怒りやイライラにきちんと対処すれば、寛容力を高めることができる」と述べましたが、ここで、反対のアプローチとして、

「怒りやイライラに対処せずに寛容力が低下すると、どんな不都合が起きるか」ということを考えてみましょう。

とにかく疲れる

人は怒ったり、イライラしたりすると、エネルギーを消耗します。

人の感情や心理状態について考えるときは、原始時代の、本能をむき出しにして生きていた人間をイメージするとわかりやすいと考えています。

原始人が怒ったり、イライラしたりするのは、敵に襲われたり、あるいは「自分を襲ってくる敵はいないか」と神経を尖らせたりするときです。

敵に襲われるというのは命の危機を意味しますから、大きなエネルギーを使います。

だから、人は怒ったり、イライラしたりすると、とにかく疲れるのです。

周囲に敵をつくる

たとえば、怒りっぽくて、すぐに人を怒鳴ったり、人に暴言を吐いたりするような人は、同時に人からの怒りも買いやすくなります。

すると当然、周囲から潰されたり、おとしいれられたり、足を引っ張られたりする危険性が高まります。

孤立する

怒りっぽい人間は、「敵をつくる」だけでなく、ひとりぼっちになるというリスクを抱えています。

何か起こるたびにいつもイライラ、カリカリしている人に積極的に近づきたい人はいません。

周囲からの強力や助けを得られない人は、人生がとても苦しくなっていきます。

■参考記事
怒りの感情コントロールで寛容力を培う
自分を責めない寛容力
他人を許せば心は楽になる
寛容力が無い人が寛容力を育む方法

不寛容は生真面目から始まる

いつでも誰にでも温厚な人などいない

生真面目さは不寛容を生みます。

もっと「寛容力」がほしいと思っている人は、誰かにイラッとするたびに相手のことを責め、それと同時に、無意識のうちにどこかで自分を責めている可能性があります。

そんな人は、「自分はこうあるべき」という理想が高すぎるのではないでしょうか。

たとえば、こんな人を理想に掲げていませんか?

「いつでも、どんなときでもおだやかな人」

「小さなことには一切こだわらない人」

「誰からも好かれる人」

「みんなから尊敬される人」

「どんな人からも信頼される人」

自分もこんな人になりたい―。

ところが、そうはいかないのが現実です。

その結果、「自分はダメだ・・・」と落ち込むのです。

そもそも”仏様”のような人を理想にするから苦しくなるのです。

いつでも、どこでも、誰に対してもおだやかで、みんなから好かれ、尊敬され、信頼されて・・・なんて、絶対に不可能です。

よく、ビジネス誌の記事などで「こんなリーダーになれ」といった特集があり、歴史上の偉人や、カリスマ的な経営者が「理想像」として取り上げられたりします。

もちろん、こういった記事を読み、「こんなふうに人を率いることができるリーダーになりたい!」「こんなふところの深さが人を引きつけるのか。自分も今日から実行しよう!」などとやる気を高めるのはいいのですが、注意しなければいけないのは、こういった記事で取り上げられている人たちは”偶像化”されているということです。

人間ですから、本来ならその人たちにも弱点はあるし、悪い面もあるはずです。

なのに、そこには目をつぶり、完璧な部分だけを取り出してそれを理想とし、追いかけようとする。

しかし、追いつけるはずがありません。

相手はスーパーマンですから、リアルな、生身の人間である自分との差は広がる一方になります。

そして、いつまでたってもその理想像に近づけないことで自信を失ってしまうのです。

寛容力がほしいなら、もっと「生身」の人間について知ることが大切です。

人間というものは、完璧ではない。

一定ではない。

一貫性もない。

その「事実」を知ることがとても大切です。

疲労と環境がイライラを誘発させる

前述のように、自分の不寛容さに悩む人は、「いつでも」「誰にでも」寛容でなければならないと暗黙のうちに考えていることが多いようです。

でも、それははっきりいって、不可能です。

まず、「いつでも」寛容でなければならない、ということについて。

心と体はとてもダイレクトに結びついています。

たとえば、仕事仲間がミスをして自分がフォローしなければならなくなったとき。

普段なら「気にするな、大丈夫だよ」と受け流せる人でも、自分がへとへとに疲れていたりすると、「どうしてそんなに不注意なんだ!」とはらわたが煮えくり返る、というのはよくあることです。

これは、単純に「疲れるとストレス耐性が落ちる」というメカニズムのためです。

自衛隊がイラクに派遣されたときにも、同じようなことがありました。

ある初対面の二人組が現地で共に行動することになり、最初のうちは、にこやかにやっていました。

ところが二ヵ月ほど経過し、疲労がたまってくると、互いに相手のちょっとした言動や癖が気に障るようになりました。

「あいつが左利きなのがイラッとくる」「くしゃみのしかたが嫌だ」と、そんなささいなことにまでストレスを感じるようになってしまったのです。

それくらい「疲労」は不寛容の直接的な原因となります。

それまで喧嘩ひとつしたことのない大の親友同士なのに、一緒に海外旅行に行ったとき、互いに途中からイライラしてきて「ああ、もう顔も見たくない!」という状態に。

ところが帰国したあとは嘘のようにまた仲良しに戻った―。

そんな経験がある人もいるかもしれませんが、これも旅の疲れやストレスが原因です。

夫婦間に亀裂が生じることが多いのも、子育て期や子どもの反抗期。受験期、親の介護が必要になったときなどです。

いずれも、互いの疲労やストレスが蓄積する時期です。

では、次に、「誰にでも」寛容でなければならない、ということについて。

これも非常に難しい。

たとえば、あなたの部下が何か大きなミスをして、あなたがその後始末に追いまくられた経験があったとします。

そんな、あなたに嫌な記憶を植え付けた人間というのは、あなたにとっての”要注意人物”となります。

すると、他の部下が「お先に失礼します」と自分より早く退社することにはなんとも思わないのに、そのミスをした部下が同じように自分より早く退社しようとすると、とたんにイラッとして、「ちゃんと仕事は終えたのか?」と、いいたくなる。

またミスをして、私の手間を増やすのではないか・・・と、どうしても気にかかるからです。

このように、人は「いつでも」寛容であることも、「誰にでも」寛容であることも、難しいのです。

このことを、よく理解することが大切です。

そうすれば、たとえば自分がへとへとに疲れていたり、大きなストレスを抱えていたりするのに、「いや、私はいつでも、誰にでも寛容でいなきゃ」と自らを窮地に追い込むようなことはしなくなるでしょう。

他人にも自分へも厳しい

私たちは、子どもの頃から、「人はいつでも真面目に努力しなければならない」という道徳的価値観を教え込まれています。

人はどんなときも一貫してこうあるべき、と教えたほうが、たしかに教える側としては、シンプルでやりやすいのでしょうが、実際の人間はそんなに単純なものではありません。

次のように思考を変化させてみてはいかがでしょうか。

「いつでも真面目に努力しよう。
でも、たとえば風邪を引いていて体調が悪いときは、頑張れないときもあるよね。
そんなときは頑張れない自分を認めてあげよう」

じつは、子どもの頃からずっと「真面目ないい子」で勉強を頑張ってきて、いい大学に入り、いい会社に入って一見偉そうに見える人でも、心の調子を崩す人は案外多いのです。

たとえば、そんな「真面目ないい子」は、少々体調が悪いくらいで会社を休むような「不真面目な人」が許せません。

また、自分の体調が悪くても「今日は大事な仕事があるから絶対に休まない」と、「不真面目な自分」を許さず、這うようにして会社に行きます。

つまり、「真面目ないい子」は、他人にも自分にも厳しいのです。

そして激しくエネルギーを消耗させ、心のバランスを崩していくのです。

そんな人に対しては、

「人には必ず弱い部分があります。
それをなくすことは不可能です。
大切なのは、その現実を受け入れたうえで、上手に自分の弱点をフォローしていくことです」と伝えます。

ですが、「真面目ないい子」タイプの人は、子どもの頃に教えられた「いつでも、どんなときでも真面目に努力しなさい」ということを実践してきたからこそ受験戦争にも勝ち、これまで成功してきたという思い込みが強いため、「弱い自分」をなかなか受け入れられないのです。

もうひとつ、こうした「真面目ないい子」タイプの人は、「正解は自分の中にない」と思い込んでいるのではないか、ということです。

たとえば、アメリカの学校で、生徒の誰かが「今日の授業では、こんなことをやりたい。どうですか?」と教師に提案したとします。

すると教師は、「それはいいアイデアだね。みんなに話して、同意が得られたらやろう」と答えます。

そしてその子がみんなにプレゼンをして「やろう、やろう」となるのです。

こういったプロセスはすばらしいと思います。

一方、日本の学校で、生徒が同じような提案をしても、ほとんどの教師は、「決められたカリキュラムがあるからできない」と答えるでしょう。

それを聞いた子どもは、「正解はすべて先生、あるいはカリキュラムの中にある」という価値観を自分の中に植えつけていくのです。

自分の中の欲求や発想に対して自信を持って育ってきたかどうか、ということも、「寛容力」と大いに関係しています。

みなさんが「真面目ないい子」タイプの人かどうかはわかりません。

しかし、大事なのは、知らず知らずのうちに凝り固まり、自らを苦しめている価値観がもしあるとすれば、それをリセットしてみることです。

自分が不寛容だと感じたときは、ひとつのチャンスです。

自分の中の「こうあるべき」という価値観を見直し、それを少し検討してみることに挑戦してみましょう。

「こうあるべき」という思い込みを手放すことによって、世の中の見え方が変わります。

世の中の見え方が変われば、もっと柔軟に物事に対処することができるようになります。

自分に向き合う姿勢の違いで寛容力が薄れる

我慢をしすぎない

人にもっと寛容でありたい、と思った人が実践しがちなのは「我慢」ではないでしょうか。

腹が立つ。

けれども寛容でありたい。

ならばここは我慢してグッと飲み込もう・・・と。

我慢はすばらしい対処法です。

我慢をすれば無用なトラブルを避けることができます。

だから大人は子どもに我慢することの大切さを教えます。

「我慢強い子だね。偉いね」は、最大の褒め言葉です。

ところが、我慢には毒の部分もあるのです。

なぜなら、我慢は「被害者意識」をどんどん増幅させ、あなたから「エネルギー」を奪っていくからです。

たとえば、職場でこれまで何かと面倒を見てきた後輩がいたとします。

しかし、あるときその後輩があなたを差し置いて、新たなプロジェクトを取り仕切るチームリーダーに抜擢されました。

とたんにその後輩の態度が尊大になり、あなたに、もっと下の立場の人がやるような雑用を振ってきたとします。

あなたは、「私がいままであんなに面倒を見てきたのに、なんだ、その態度は。許せない!」と、はらわたが煮えくり返りました。

でもあなたはグッとそれを我慢しました―。

まず覚えておいてほしいのは、「我慢」はいい対処だが、我慢だけだと破綻しやすい、ということです。

我慢の総量が少ない場合は、問題ありません。

ところがこのケースのように、大きな怒りや、長びく怒りの場合、我慢の総量が増えすぎてしまいます。

我慢にはとても大きなエネルギーを使うので、結局、そのことに疲れ果て、自分の怒りを制御できなくなりやすいのです。

我慢以外にもさまざまな方法があります。

相手の失礼な態度に対して、はっきりガツンともの申すのもいいでしょう。

また、「他の仕事を抱えているから、いまは引き受けられない」と、きっぱり拒否するのも方策です。

もし引き受けざるをえないのであれば、そのあと、親しい人に「あぁ、恩知らずの後輩にこき使われたよ!」と愚痴を吐き出すのもひとつの手です。

いずれにしても、とにかく自分の「我慢の総量」を少なくする、ということを心がけるようにするのです。

共働き夫婦の間でも、どっちがゴミ出しをするか、風呂掃除をするかという、客観的に見ればささいなことで諍いが増えたりしますが、これは小さい我慢が長引くことで制御不能になるケースです。

このような、「この仕事は自分の仕事ではない」という「役割を担う我慢」のなすりつけあいでエネルギーの消耗戦をしている状況を、「役割の戦場」と呼んでいます。

ちなみに最近、「家事というのは『夫婦協同で行なう仕事』なのだから、『手伝う』という言葉を使うのはおかしい」という論調があるようです。

しかし、私はこのように、言葉尻だけをとらえてわざわざ喧嘩モードになるのはあまり得策ではないと思うのです。

なぜなら、「手伝うよ」であろうとなんであろうと、夫が実際に働いてくれるのであれば、結果的に大きな問題にする必要はないからです。

にもかかわらず、「『手伝うよ』って言い方は、なによ!」という価値観を強く持つことで、結局、毎日イライラしているなら、その価値観は正しいかもしれないが、不必要に「役割の戦場」をつくり出し、自分を疲れさせ自信を失わせている、ということに気付くべきです。

自分の行動の理由を理解する

人の反応や態度、行動には必ず「理由」があります。

たとえば、夫婦間でこんなことがあったとします。

わがままをいった子どもをガミガミ叱っていた奥さんが、その様子を見ていた夫から、「そんなにあれこれいっても本人には伝わらないよ」といわれた。

さらに、「この子がわがままをいったのは、君に甘えたいからだよ。
最近、仕事が忙しいからといって、ろくにかまってやっていない君にも原因があるんじゃないのか?」ともいわれた―。

どちらも「正論」だとは思ったけれど、素直に受け入れられない奥さんは黙り込んでしまい、すると夫もムッとして、場の空気が最悪に・・・。

ありがちなシーンではないでしょうか。

通常で考えれば、正しいことをいわれたのにそれを受け入れられない奥さんがよくない、という評価になるかもしれません。

しかし、もしカウンセラーがこの奥さんから「私は寛容力がなくてダメな人間です」という悩みを聞いたら、こう言うかもしれません。

「そうですか。ご主人の意見は正論なのに、それを素直に受け入れられなかった。
それで自分を責めてしまうところがあるんですね。
それは本当につらかったですね。
あなたはあなたなりに、仕事と家庭を両立させようと必死に頑張ってきた。
それでも疲れて子どもに優しくできないときだってありますよね。
そして自分でも、そんな母親はダメだって思っていたところに、夫から客観的すぎる言葉をもらったものだから、どうしても素直に受け入れられなかった。
誰だってそんなときは自分の心を守ろうとしてそうなってしまうと思いますよ」

人の反応や態度、行動には必ずなんらかの理由があります。

カウンセラーはまずそれを感じ取り、クライアント自身にも気づいてもらうように努めます。

クライアントが自分で自分のイライラの理由を納得すると、まず自分に対する怒りが消え、結果的に心全体が落ち着いてくるのです。

考える角度を変えてみる

この記事を読んでくださっているあなたは、もしかしたらこれまでに、人の根本的な考え方や物事のとらえ方を変える「認知行動療法」をベースにしたメンタル・スキルの本などを手に取ったことがあるかもしれませんね。

考え方を変えたい、そうすれば小さなことを気にしたり、ささいなことに傷ついたりしない寛容な人間になれるのではないか―と。

これは、半分は正解で、もう半分は不正解といえます。

「認知行動療法」というのは、もともと欧米で生まれた心理療法です。

自分の考え方、物事のとらえ方の歪みを知り、それを正すことで思考の習慣を変え、行動を変えるというメソッドで、合理主義の欧米人には合っています。

しかし、「考え方を変える」「物事のとらえ方を変える」というのは、本来、大変なエネルギーを必要とするのです。

ですから、心身ともに調子がよくエネルギーが満ちあふれているときは別として、元気をなくしているときにこの療法にトライすると、懸命に実行してみたけれどなかなかうまくいかない、ということになりがちです。

すると、自分がダメだから、自分に能力がないからうまくいかないのだ、とますます自信を失ってしまいます。

また、もともと日本人は自分に厳しく、自分を否定しやすい傾向があります。

そんな日本人が、自分の考え方や、物事のとらえ方を「それは認知の偏りです」などと指摘されると、まるでこれまでの人生全体が否定されたような気持ちになることもあります。

「認知行動療法」を用いたカウンセリングの場で、うわべでは「先生のいうとおりですね。私、とても偏った考えをしていました」といって笑うクライアントが、内心ではとても深く傷ついているということが少なくないのです。

そもそも、自分の考え方や物事のとらえ方を180度変える必要などありません。

ボールを投げるときに少しだけ「角度」を変えればボールの行き着く先はずいぶん変わっていくように、たとえば、誰かを、何かを「許せない!」と不寛容になってしまっているときも、その考える角度をなるべく「自分が疲れない」「自分を傷つけない」方向に変えればいいのです。