他人は気にせず今の自分よりも前へ進もう

「優越性の追求」というと、他者より優れていようとする欲求、他者を蹴落としてまで上に昇ろうとする欲求のように思われがちです。
人々を押しのけながら階段を昇っていくようなイメージですね。

もちろんアドラーはそんな態度を肯定しているのではありません。
そうではなく、同じ平らな平地に、前を進んでいる人もいれば、その後ろを進んでいる人もいる。
そんな姿をイメージしてください。
進んできた距離や歩くスピードはそれぞれちがうけれども、みんな等しく平らな場所を歩んでいる。「優越性の追求」とは、自らの足を一歩前へ踏み出す意思であって、他者よりも上をめざさんとする競争の意思ではありません。

誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいいのです。

もちろん、他者と自分を比較する必要もありません。

健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較からうまれるものです。

我々は、誰もが違っています。性別、年齢、知識、経験、外見、まったく同じ人間など、どこにもいません。
他者との間に違いがあることは積極的に認めます。
しかし、我々は「同じではないけれど対等」なのです。

人は誰しも違っている。その「違い」を、善悪や優劣と絡めてはいけないのです。
どんな違いがあろうとも、我々は対等なのですから。
対人恐怖症や社交不安障害とそうでない人とも対等なのです。

知識や経験の量、それからとれる責任の量については、違いがあるでしょう。
靴の紐がうまく結べなかったり、複雑な方程式が解けなかったり、あるいは問題を起こしたときに大人ほどの責任がとれないかもしれない。

しかし、そんなもので人間の価値が決まるはずもありません。
すべての人間は「同じではないけれど対等」です。

子どもは、大人扱いするのでもなく、子ども扱いするでもなく、いわば「人間扱い」するのです。

自分と同じひとりの人間として、真摯に向かい合うのです。

関連記事
他人から自分はどう見られているかを考えない
ひきこもり青年のお金の面はどう支えるか
なぜ人は自分でない自分を演じるのか

すべての人は対等である。同じ平地を歩いている。
しかし、前を歩いていようと、後ろを歩いていようと関係ないのです。
いわば縦の軸が存在しない平らな空間を、われわれは歩んでいる。対人恐怖症、社交不安障害を克服したい人も歩いている、われわれが歩くのは、誰かと競争するためではない。

今の自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値があるのです。

対人恐怖症、社交不安障害を克服したい人は、勝ちや負けを競い争う場所から身を引くことです。
自分が自分であろうとするとき、競争は必ず邪魔をしてきます。

もしもライバルがあなたにとって「仲間」と呼べる存在であるなら、自己研鑽につながることもあるかもしれません。
しかし多くの場合、競争相手は仲間にはならないでしょう。