勝者の脚本・敗者の脚本

勝者の脚本・敗者の脚本とは

勝者の心理、敗者の心理は、一生を通じてその人の人生を無意識のうちに支配してしまいます。

勝者は勝者の心理特性をもとにした自分の人生の脚本を描きます。

敗者は敗者の心理特性をもとにした人生脚本を描きます。

そして、日常生活という舞台において、日々、無意識のうちにこの脚本に添った行動をしてしまい、結局、その人の人生はこの人生脚本を現実化したものとなるのです。

勝者の人生脚本は楽天的で率直です。

不必要な遠慮はありません。

意固地なこだわりもありません。

自由に自分の能力を高める事に挑戦し、失敗すれば改めます。

相手のすばらしさに自分の価値をくらべてみることなどしません。

ですから、恋愛においても相手の人間的なすばらしさを率直に認め、惹かれます。

現在の自分を受容しつつ自分の価値を高め、明るく積極的な人生を謳歌することになります。

これに対し、敗者の人生脚本は否定的で屈折しています。

あんな素敵な人が、なんであんな下らない人と付き合うのか分からない、と友達が思うような男性を選んでしまう女性がいます。

「あんな人と付き合うのはやめなさい。あなたが傷つくだけだから」と忠告しても、「本当は優しい人なの。彼には私が必要なの」などと、付き合いを続けます。

そして、最後には、心も体もぼろぼろにされて、別れることになります。

今度こそ彼女にふさわしい人と付き合ってほしいと思うのに、また、同じような信用のおけない男性を選んでしまいます。

こうした人は、敗者としての人生脚本にとらわれてしまっているのです。

敗者の人は、敗者の脚本を演じさせてくれる相手を探し出します。

そして、ゲームと呼ばれる行為にふけり、幸せを自ら葬り去る行動をします。

ゲームとは、見かけ上はそのようなことはないが、じっさいには自分に割り当てた配役を演じるためのやりとりのことであり、多くの場合、感情を害したり、関係が悪化するなど最初から予定されている否定的な結末にいたるものです。

ゲームの登場人物は「加害者、被害者、救助者」の三人であることが多いとされています。

そして、しばしば本人は被害者と救助者を演じがちです。

ちょっとわかりにくい概念なので、E・バーンのあげる例(南博訳『人生ゲーム入門』河出書房新社 一九七六)を参考にしながら説明してみましょう。

追いつめの例

妻が夫に「婚約記念日だから、今晩は外食しよう」と誘い、夫は賛成します。

ところが外出の用意をしながら、妻はついお金のことを口にしてしまいます。

今月は出費がかさんでお金がないので、できるだけ出費をおさえようと相談したばかりでした。

そこでお金のないことを妻が言ったので、それを一時忘れて素敵な気分に浸ろうと同意していた夫は、気分を害してしまいます。

その夫の様子に妻のほうも気分を悪くして、「そんなら、外食やめよう」とケンカになってしまいます。

結局、夫は怒って一人でパチンコに行ってしまい、妻はさびしい婚約記念日を泣いて過ごすことになります。

実際には妻は、夫を外食に誘った時点から、この結末の脚本を無意識に描いていたのです。

妻はいじめられたように見えながら、内心は勝利感にひたっているのです。

なぜなら、このゲームでは、妻は夫に加害者の役割を与え、自分に被害者の役割を与えています。

そして、分からず屋の夫を持った自分の不幸を嘆いているのですが、じつはこの不幸な状態こそ、妻にとっては自分に「しっくりする」ものだからです。

この例のように、自分に被害者の役割を割り当てた人は、たとえ幸福を与えてくれる男性と誤って(?)結婚した場合でも、善良な夫を加害者に仕立て上げることにより、被害者の役割を実現してしまうのです。

小さなゲームは日常ひんぱんに起こります。

女の子3人組がファーストフード店に入ってきました。

まず彼女たちは空いた席を見つけ、座る席を決めました。

1人が、「なににする?」と聞きますと、後の二人が「私、〇〇にする」「私も」と注文が決まりました。

「なににする?」と聞いた女の子がレジに並び、三人分をトレイに載せて持ってきました。

待っていた二人が「いくら?」と聞きます。

ところが、なぜか「五百六十円」と素直に言えなくて、つい「いいわよ」と言ってしまいました。

「悪いわよ、払うわよ。いくら?」

ところが彼女は、本当はお金がないのに、「いいの。私、バイトのお金もらったばかりだから」と嘘までついてしまいます。

こうして、なぜか成り行き上、彼女のおごりになってしまいました。

実際には、彼女はおごってやることを喜んでいるわけではありません。

むしろ、そんな場面で変に気を回して本当の気持ちと裏腹なことを言ってしまった自分に、自己嫌悪を感じてしまいます。

心が不安定のとき、あるいはさびしくなったとき、恋人に話を聞いてもらいたい。

しかし、いざ会うと、傷つけると分かっていながらつい悪態をついてしまう。

それで相手が気分を害し、ケンカになってしまう。

本当は甘えたいのに。

こんな行動もゲームの一種といえるでしょう。

このように、いつのまにか私達は、自分に被害者の役割を割り当てていることはないでしょうか。

それによって、自分で勝手に傷ついていることはないでしょうか。

自分が演じがちなゲームを分析してみることは、敗者の脚本を脱し、勝者の脚本を生き直すために必要なことです。

若い時分には、自分の本当の人生は、いつか未来のあるときから始まるのであり、現在はかりそめの人生にすぎない、という感じを多かれ少なかれ持っています。

しかし、そうではありません。

先に述べたような、ささいなひとこまひとこまが人生そのものなのです。

今日、あなたが人と接するその在り方が、人生そのものにほかならないのです。