友達がいない人が友達をつくるための心理

友達がいないとは

友達がいない心理

友達がいない人はイエスと言い、そして相手が嫌いになる。

フロムは不安に対する反応として非生産的な活動、あるいは「構え」を挙げている。

その非生産的構えとしての性格類型のひとつに受容的構えというのを挙げている。

それはどういう性格であろうか。

友達がいない人はとにかく自分が自分にとって頼りない。

そこで一人でなければできない行為をするにあたって構えの問題は特に重要であるとフロムは言う。

一人でなければできない行為とは、例えばフロムが挙げているのは「決心をし、責任を取る」ことである。

迎合する友達がいない人は、一人で決心ができなくなる。

友達がいない人は責任転嫁が多くなる。

受容的構えの人は「ノーと言うのが難しい。だからすべての人にイエスと言いたい」とフロムは述べている。

その結果、友達がいない人はNegative Yesを言う人になる。

つまり友達がいない人はどんな犠牲を払っても好かれたい。

「自分を好きになってくれるなら誰でもいい」ということである。

小さい頃から友達がいない人は本当には愛されていないから淋しい。

ボウルビィのいう不安定性愛着の子と同じである。

好かれることが友達がいない人にとって大変重要なことである。

とにかく自分を誉めてくれる人を好きになる

友達がいない人は、接している人が好きであるか好きでないかは関係ない。
相手が自分を誉めてくれるか誉めてくれないかが大切である。

異性でも、同性でも関係ない。

とにかく友達がいない人は自分が良く思われることが重要で、自分が何をしているかが分かっていない。

その結果、好きでないことを友達がいない人は一生懸命して、好きでない人にいい顔をしている。

消耗するのは当たり前である。

それをしたくないのに友達がいない人は「そうします」と言う。

それでことは丸く収まる。

しかし社会的に丸く収まっても、そうしますと不本意ながら言った友達がいない人は、無意識でコストを払っている。

コストは「相手が嫌いになる」ということである

要するに友達がいない人は、心の無意識の領域でどうしても人が嫌いになっている。

人が嫌いになると友達がいない人は生きるエネルギーを失う。

あの人が好きだと言うことで、その人のために働くという気持ちが出てくる。

犬が嫌いな人は、どんなに頑張っても犬のために親身にはなれない。

犬が好きなら犬のために何かをすることは、エネルギーの要ることではない。

好きなことだからそれをしても疲れない。

要するに人が好きなら生きるエネルギーは自然と湧いてくる。

劣等感のある友達がいない人は、人間嫌いである。

劣等感のある人は、どうしても復讐というマイナスなことにしかエネルギーが出てこない。

友達がいない人は真の自己にたどり着けない。

友達がいない人は自分が好きでないことをしているということに気がついていない

自分が嫌いなことをしているのに、友達がいない人は嫌いなことをしていると意識していない。

とにかく友達がいない人は相手にどう思われるかを優先してしまい、嫌いなことをしているのに、嫌いなことをしていると気が付いていない。

人にいい顔をすることに気を奪われて、友達がいない人は自分が自分のしていることを分かっていない。

もちろんこれは意識の上でのことで、無意識で起きていることではない。

無意識の領域では真の自己を裏切っていることの影響は出る。

つまり自己蔑視とか焦りとか不安とかいう心理現象は起きてくる。

生産的構えで生きている人は、試行錯誤しながらも最終的には真の自己にたどり着く。

それに対して友達がいない人はどうしても真の自己にたどり着けない。

その結果、友達がいない人は無意識の領域で焦りが出てくる。

なぜかわからないけど友達がいない人は焦っている。

自分がどうしてもたどり着きたいところにたどり着けない夢を見る

友達がいない人はたどり着けそうでたどり着けない。

真の自己にたどり着けないのは、好きでないことを好きと思ってしているからである。

神経症的な親は、嫌いな家族を好きと思って生活している。

神経症的な親は、「人生は名誉ではない、権力ではない、富ではない、家族の愛がすべてだ」と言いながら、じつは名誉が欲しい。

「富も名誉も意味がない、家族が最高の価値だ」という防衛的価値観が、その親の心を破滅に追い込んでいる。

友達がいない人は外で八方美人、内で要求ばかりの人になる

さらにフロムは、受容的構えの人は自分たちに必要な指示を自分で少しも努力せずに、誰かを捜して授けてもらおうとするという。

宗教ならば、すべてを神に期待する。

これが八方美人である。

友達がいない人は八方美人になって何でもよく働こうとするが、騙されないで生きていくのは無理である。

八方美人は働き者だからずるい人には利用価値がある。

有能でかつ友達がいない人の周囲にはずるい人が集まってくる。

幼児が百万円をもって歩いていたら、騙す人がよってくるのは当たり前である

非生産的いい人が働けばいいが、友達がいない人は働かないですねることもある。

友達がいない人にとって、愛は常に愛されることだから、大人になればいつも不満である。

それは大人になったら友達がいない人は誰も幼児のようには愛してくれないからである。

遠い人に対しては八方美人になるが、近い人には要求ばかりの人になる。

「家ではオオカミ、外では子羊」という言葉通りである。

友達がいない人は愛されることしか眼中にないから騙される

受容的構えの人は前向きのエネルギーがない

友達がいない人は愛されることが大切で、愛することは眼中にない。

愛の問題はいつも愛されることであって愛することではない。

つまりいつも人に友達がいない人は何かをしてもらおうとしている。

だから友達がいない人は騙されるのである。

ずるい人にとって、自分から何かをしようとしている人は騙しにくい。

絶えず何かをしてもらおうとしている友達がいない人には「これをしてあげますよ」と近づけばよい。

「これをしてあげますよ」と言えば友達がいない人はすぐに喜んでしまう。

ずるい人にとってこれほど騙し易いことはないだろう。

「買ってきてあげますよ」と言えば友達がいない人は「ありがとうございます」になる。

一万円のものを二万円で買ってきてあげても「ありがとうございます」になる

友達がいない人にとって人間関係は、「人に何かをしてあげようではなく、人から何かをしてもらおう」である。

そこで騙す人は「私がこれをしてあげましょう」と言ってくる。

すぐに友達がいない人は窮地に陥る。

ノイローゼ気味の友達がいない人は、「誰かが助けてくれること」を待っている。

そこに「私が助けてあげましょう」と言ってくる人がいる

そこで友達がいない人はコロリと騙される。

自分に友達がいない人は、「楽をしよう」として何かを人に任せないことである。

自分で動くと相手が見える。

人任せにしておくと友達がいない人はずるい人にいいように扱われる。

とにかく非生産的構えの友達がいない人は人間関係が悪い。

「楽をしよう」として人に任せると、相手が見えない。

自分で動くと、周りにいる多くの人の中で誰がずるい人か、誰が誠実な人かが分かる。

ずるい人は本性を見せないから、騙されているときには騙されているということが分からない

友達がいない人は「楽をしよう」とか、「威張れる」とか、そういうことで動いているからずるい人に騙されるのである。

「自分のことは自分でする」、そうした態度がするい人から自分を守る方法である。

ずるい人は困った友達がいない人を狙う。

だから困って友達がいない人は「守ってくれ!」と言ったら、カモになる。

そういうことを逆手に取る人が搾取タイプの人である。

友達がいない人は愛を求めている

フロムのいうもう一つの非生産的構えに「搾取的構え」がある。

ヒステリー性格などがこれに近いと思われる。

また非抑制型の子どもで親が無関心なときに搾取的構えの人になると思っている。

小さい子でも友達がいない子は、人の玩具も取ろうとする。

その玩具を楽しむわけではない。

取ることに意味がある。

愛を求めている。

他人から力と策略を用いて奪い取る人たちであるとフロムは言うが、ウェイトリーのいう自己評価の低い詐欺師と同じである。

この人たち「盗んだ果実が一番うまい」。

この構えの人と友達がいない人が接して、付き合うことになると、徹底的に搾取される。

まさに「騙される人」と「騙す人」との関係の成立である

友達がいない人は話のできないハイエナに向かって「俺を守ってくれ」と叫んでいるようなものである。

自身が強くなる以外に友達がいない人は救いの道はない。

あるいは友達がいない本人が自分の強さに気が付く以外に救いの道はない。

周囲の人からいいように利用され、搾取されながらも、とにかくいままで生きてこられたのである。

それはものすごく強いことでもある。

搾取的構えの人よりも、はるかに社会的能力を持っている。

やさしさも、素直さもある。

「自分はすごいなー」と思えれば、解決する。

強さとは、自信とか生きるエネルギーとか自分が必要なものを自分の中から生み出せる人である。

弱さとは逆である。

自分が生きるのに必要なものをすべて外に頼る

友達がいない人は自信とか生きるエネルギーとか自分が必要なものは、自分の外にある。

つまり人に気に入られるとか、人から高い評価を得るとか、とにかく友達がいない人は自分の人生の重心が人にあって、自分にはない。

自分が必要なものを自分が作り出せる。

それが生産的と言う。

自分が必要なものを見つける力を、自分の中に見つけられないのが非生産的という。

自分が必要なものを自分が作り出せないで、他人に頼るから、友達がいない人はどうしても「他人が自分をどう思うか」が生きるか死ぬかほど重要になってしまう。

友達がいない人はいかにつくられるか

フロムは非生産的構えの一つとして受容的構えを挙げている。

この非生産的構えの人が、友達がいない人になっていく。

友達がいないことから脱却するためには生きる構えを直す必要がある。

友達がいない人は何か責められるのではないかと、いつも見えないものに怯えている

小さい頃、なにも悪いことをしていない。

しかし親のイライラの感情を友達がいない人は「お前のために」と自分の責任にされた。

親の心の外化である。

外化とは、自分の心の中で起きていることを外で起きていることと見なすことである。

例えば自分が望むような自分でないことに、自分が怒りを感じている。

もちろん自分への怒りである。

自分が望むような自分になれなくてイライラしているのに、「お前のためにイライラする」と、イライラの原因を相手にして、相手を責める。

カレン・ホルナイによると自分に対する怒りは、第一にイライラとなって表れる

その結果、欲求不満な親のイライラに、子どもが怯える。

親に怯えた人は、今度は親ばかりではなく、怯えはもっと広い範囲になっていく。

つまり皆に怯え、友達がいなくなっていく。

そうして誰かに責められないかと友達がいない人はいつもビクビク、ビクビクしながら生きるようになった。

そうした外化や投影から生じる不当な非難であるのに、友達がいない人は他人の不快な感情はすべて自分に責任があると感じるようになる。

小さい頃からそのように責められて生きていれば、友達がいない人はそう感じるのは当たり前であろう。

あるいは親からの不当なプレッシャーである。

親が自分の不安な緊張に耐えられなくて、子どもにプレッシャーをかけることで、自分を癒す。

その結果子どもは何かあると、たいしたことではないのに、すぐにストレスを感じるような人間になる。

親の心の外化や投影の犠牲になった

投影とは、その人の心にありながらも、その人が認められない感情などを、相手にあると見なして相手を責めることである。

自分がケチなのに、ある人をケチとみなして、その人を「ケチね、どうしてそんなにあなたはケチなの」と相手を責めることである。

養育者の外化や投影の犠牲になって、他人に怯えながら生きている友達がいない人は多い。

そういう人は、友達がいない自分の心はつくられたのだということをはっきりと意識することである。

そう意識できれば、今度は自分を再創造していく道が見えてくる。

その再創造の心の姿勢がないと、友達がいない人は生きる道をどんどんと間違える。

成長の過程で守ってもらった感覚がない

そこで友達がいない人はいつも人から守ってもらおうとする。

その結果さらに友達がいない人は道を間違える。

友達がいない彼らが心理的に安定するためには援助者が必要である。

この構えの友達がいない人は「安定を感ずるためには多くの援助者が必要であるから、多くの人々に対して忠誠をつくさなければならない」。

これが八方美人である。

援助者を必要とするから、友達がいない人は相手の言葉に弱い。

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友達がいない人は搾取する者にさえ感謝する

受容的構えの人は「愛の対象を選ぶのに無分別でありやすい」とフロムは述べている

受容的構えの人は大人になってもその幼児的願望で動いているのである。

だから友達がいない人は「魔法の援助者」を求める。

「特別の性質の忠誠心を抱く」というが、これは幼児が母親に特別の性質の忠誠心を抱くということである。

権威主義の親に対する忠誠心、ヤクザの親分に対する子分の忠誠心、それはさらに仲間に対する忠誠心になる。

すべてが自分にとって特別な仲間になってしまう。

時にはちょっと接しただけの人にまで特別の性質の忠誠心を抱くようになる

そして、友達がいない人はそれらの忠誠心が相互に矛盾するときにはストレスに苦しむ。

極端な場合にはカルト集団のメンバーと教祖との関係だろう。

受容的構えの人は搾取する者にさえ感謝する。

友達がいない彼らは心理的に安定するためには援助者が必要である。

相手が神経症的要求を持っていると大変なトラブルに巻き込まれる。

神経症的要求とは非現実的な要求をすることである

例えば親が神経症である。

そして子どもに神経症的要求をする。

つまり非現実的なほど高い要求をする。

子どもは親の要求に応える必要がある。

子どもは親に特別の性質の忠誠心を抱いている。

子どもの心の中には親が独裁者として居座っている。

子どもはその独裁者のいうことを聞かなければならない

しかしそれに応える能力はない。

そこで神経症者になるとか、社会的な犯罪に走るとかになる。

「子どもは家族に対して適応することによって性格を獲得し、それが後になって、社会生活で果たさなければならない課題に適応させるのである」

親が権威主義者で支配欲が強い場合には、子どもは権威に従順な人間になっていく。

生き延びるためにはそうなる以外に方法はない。

「自分に頼って生きられない人たち」

この友達がいない人こそ、いわゆる非生産的いい人である。

「受容的構えにあっては、人は『あらゆる善の源泉』が自分の外にあると感じる」

「自分の外」である他人は価値がある。

友達がいない人はその自分の外の他人から好かれることで安心する。

したがってこの友達がいない人たちには、幸せは心の中にあるという考え方はない。

つまり幸せを友達がいない自分の心の中に見つけ出そうとする心の姿勢はない。

誰かに幸せにしてもらおうとしているし、それが当たり前と思っている。

自分が幸せになろうとする意志はない

友達がいない人は心理的な成長をしようとする姿勢はない。

自分を見つめて、そこから成長しようとする意志はない。

これは生産的構えの特徴の一つである「自分に頼って生きる」ことと正反対である。

生産的構えで生きている人は自分自身の人生を生きる

ここで記している友達がいない人は、正反対である。

生産的構えのポイントの一つは自分に頼ることである

生産的構えで生きている人は逆境に強いが、友達がいない人は逆境に弱い。

生産的構えで生きている人が逆境に強いのは、自分に頼る心の姿勢があるからである。

その心の姿勢が外側の影響を最小限に食い止める。

自分に頼る人には二つの確かな特徴があるとジョージ・ウェインバーグは言う。

一つは自分を信じることであり、次は生きるエネルギーである。

生産的構えで生きている人は、外からの刺激に対して心の防壁がある。

生産的構えで生きている人を特徴づけるのは行動ではなく、心の姿勢である。

結果ではなく過程である。