外向型はどのようにして文化的理想になったか

セールスマンの誕生

1902年。アメリカ中西部のミズーリ州ハーモニーチャーチ。カンザスシティから100マイルも離れた氾濫原にある小さな町だ。若き主人公の名前はデール、善良だが自分に自信が持てない高校生だ。

痩せて運動が不得意で不安を抱えているデールは、養豚業を営むまじめで貧乏な農家に生まれた。

デールは両親を敬愛していたが、家業を継いで貧しい生活をするのを恐れていた。

それ以外にも、雷や地獄、肝心な場面でうまくしゃべれなくなることなど、恐ろしいと思えることはいろいろあった。

将来の自分の結婚式のことを考えると、それにも恐れを感じた。

未来の花嫁の前でうまくしゃべれなかったらどうすればいいのかと、心配でたまらなかったのだ。

そんなある日、<シャトーカ文化教育講座>の講演者が町へやってきた。

シャトーカ運動は1873年にニューヨーク州北部ではじまり、全米各地へ文学・科学・宗教の有能な講演者を送り込んだ。

アメリカの田舎に住む人々は講演者たちが外界から運んでくる新風を賞賛し、心を奪われた。

なかでも、貧しい農場に生まれながら創意工夫してカリスマ的な話し方を身につけ、現在ではシャトーカの演壇に立つまでになったという、ある講演者の立志伝に若いデールは夢中になった。

デールはその講演者の言葉を一言一句逃すまいと熱心に聴いた。

数年後、ふたたび人前で話すことの価値を心に深く刻みつける機会が訪れた。

家族がミズーリ州ウァレンズバーグ郊外の農場へ引っ越したので、デールは下宿代の心配をせずに近くの大学へ通えるようになった。

大学でスピーチコンテストの優勝者がリーダーとしてみんなに認められるのを見て、彼は自分も優勝しようと決意した。

毎晩まっすぐ帰宅して練習に励んだ。

コンテストに片っ端から応募し、挑戦しては失敗した。

努力家だったが雄弁家ではなかったため、なかなか優勝に手が届かなかったのだ。

だが、努力はしだいに好結果をもたらした。

いつしかデールはスピーチの達人に変身し、大学のヒーローになった。

学生たちがスピーチを教えてほしいと集まってくるようになった。

デールは彼らを訓練し、彼らもまたコンテストで優秀な成績をあげるようになった。

デールが大学を卒業した1908年当時、彼の両親は相変わらず貧乏だったが、アメリカは好景気だった。

ヘンリー・フォードが「仕事にレジャーに」という売り文句でT型フォードを大量に売り、<J・C・ペニー><ウールワース><シアーズ・ローバック>などを誰もが知るようになった。

中流家庭にも電灯が普及し、屋内に水道が引かれて夜に外のトイレへ行く必要がなくなった。

新しい経済は、セールスマンという新しい種類の人材を必要とした。

つまり、いつも笑顔で、握手がうまく、同僚と仲良くしながらも出し抜くことができる、社交的で口のうまい人間だ。

デールは増加するセールスマンに仲間入りして、説得力という能力で成功を収めた。

デールの姓はカーネギーだ。

数年間にわたってセールスマンとして忙しい日々を過ごした後、彼は弁論術の講師をはじめる。

最初は、ニューヨークシティ125丁目のYMCAの夜学で講座を持った。

彼は講師料として当時の相場だった生徒ひとりあたり2ドルを要求したが、YMCA側は弁論術の教室はあまり人気がないだろうと考え、その要求を蹴った。

ところが、講座はたちまち評判になり、彼はデール・カーネギー研究所を設立して、若い頃の自分と同じような不安を抱えているビジネスマンを助けることとなった。

1913年、カーネギーは最初の著書である『人前で話し、ビジネスの相手に影響を与えるには』を出版した。

「ピアノや浴室が贅沢品だった当時、しゃべる力は法律家や聖職者や政治家だけが必要とする特殊な能力と考えられていた。

だが、今日では、それは厳しいビジネス競争において着実に前進するために絶対に欠かせない武器だと認識されている」と彼は記している。

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内向型と外向型はどこが違う?
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農家の少年からセールスマンへ、そして弁論術のカリスマへと変身したカーネギーの物語は、外向型人間の理想像の出現を象徴する物語でもある。

彼の変身の道のりは、20世紀への転換期に頂点に達した文化的変容を反映していた。

この文化的変容は私たちのすべてを変えた。

すなわち、私たちがどんな人間であり、どんな人間を崇拝し、就職の面接でどんな態度をとり、どんな人間を雇い、どのようにして結婚相手をさがし、子どもを育てるか、そういったすべてをすっかり変えたのだ。

著名な文化史学者であるウォレン・サスマンによれば、アメリカは「人格の文化」から「性格の文化」へと変容した―そして、不安というパンドラの箱を開け、もうけっして元には戻れなくなったのだ。

「人格の文化」においては、思慮深く、規律正しく、高潔な人物が理想とされる。

他人にどんな印象を与えるかよりも、自分がどうふるまうかが重要視される。

「性格」という言葉は18世紀まで英語にはなかったし、「性格がいい」という表現は20世紀になってから広まったものだ。

だが、「性格の文化」が広まると、アメリカ人は、他人が自分をどう見るかに注目するようになった。

目立つ人やおもしろい人が人気を得るようになった。

「新しい文化において必要とされた社会的な役割は、パフォーマーとしての役割だった。

すべてのアメリカ人が自己を演技しなければならなくなった」とサスマンは記した。

この文化的進化の背景には、アメリカの工業化があった。

草原に小さな家が点在する農業社会から、「ビジネスこそがアメリカの道である」とする工業社会へと急激に発展したのだ。

初期のアメリカでは、大半の人々はデール・カーネギー一家がそうだったように、農場や小さな町に住んで、幼い頃から知っている人々とだけつきあっていた。

だが、20世紀になると、大きなビジネスや都市化や大量移民の嵐によって、人々は都市へと引き寄せられた。

1790年には都市の住人はアメリカ人のわずか3%、1840年には8%だったが、1920年には全人口の三分の一以上が都市生活者になった。

新聞編集者のホレス・グリーリーは1867年に「私たち全員が都市に住むのは不可能だが、それでもほぼ全員がそうしようと決めているらしい」と書いた。

気付いてみれば、誰もが、隣人たちとではなく、見知らぬ人たちと一緒に働いていた。

「市民」は「雇用者」へと変化し、隣人や家族としてのつながりのない人々に、どうすれば好印象を与えられるかという問題に直面したのだ。

「ある男性が昇進し、ある女性が周囲から冷たくあしらわれる理由は、昔ながらのえこひいきや内輪もめという理由では、しだいに説明がつかなくなってきた。

ビジネスや人間関係の場が広がっている時代では、たとえば第一印象のような、決定的な違いをもたらす要因があるのではないかと考えられるようになったのだろう」と歴史家のローランド・マーチャンドは書いている。

アメリカ人はこうしたプレッシャーに、自社の最新式の機械だけでなく彼ら自身をも売り込めるセールスマンになることによって対処した。

自己啓発の伝統を振り返れば、人格の文化から性格の文化への転換がまさに歴然として見える。

そのなかでデール・カーネギーは非常に重要な役割を果たした。

自己啓発本はアメリカ人の心につねに大きな影響をもたらしてきた。

そのごく初期の一冊といえるのは、1678年に刊行された『天路歴程』だ。

この本は人間が歩むべき道を記した宗教的な寓意物語であり、天国へ迎え入れられたければ自分を律して生きなければならないと読者に警告した。

19世紀になると宗教色は弱まったが、高潔な人格の価値を説く点は変わらなかった。

たとえば、エイブラハム・リンカーンのような歴史的英雄を取り上げて、有能な伝道者としてだけでなく、ラルフ・ウォルド・エマーソンが言うように「高い地位にあっても尊大さを感じさせない」謙虚な人物として絶賛した。

高い道徳意識を持って生きた一般の人々もまた称えられた。

1899年に刊行された小冊子『人格―世界でもっとも重要なもの』は、内気な若い娘が凍えている物乞いになけなしの装身具であるイヤリングを与えて、施しをしている姿を誰にも見られないように走り去ったというエピソードを伝えた。

施しをした寛大さだけでなく、匿名を守ろうとした謙虚さを、読者たちは大いなる美徳と受け取った。

だが、1920年までに、自己啓発本は内なる美徳から外面的な魅力へと焦点を移した。

ある本は「話の内容だけでなく、それをいかに話すか」が重要だと指摘した。

「性格の創造はパワーである」と助言した本もある。

「いついかなるときも、相手から『すばらしく感じのいい人間だ』と思われるように準備万端にしていよう。

それこそが、評判の高い性格への第一歩だ」と説いた本もあった。

『サクセス』誌や『サタデー・イブニング・ポスト』誌は会話術に関する記事を載せた。

1899年に前掲の『人格』を書いたオリソン・スウェット・マーデンは、1921年に『すぐれた性格』を出版した。

こうした書籍類はビジネスマンを対象にしていたが、女性たちも「魅力」という謎に満ちた特質について学ばずにはいられなくなった。

1920年代には、ビジネスの世界の競争は祖母の代とは比較できないほど激しくなり、魅力的に見えなければならないと警告する美容本も登場した。

「いかにも頭がよく魅力的に見えなければ、街ですれちがう人々には、あなたの頭のよさも魅力もわからない」というのだ。

外見が人生を向上させるという助言は、それなりに自信を持つ人々をも不安にさせたに違いない。

サスマンは、19世紀に書かれた人格形成をうながす本に頻繁に登場する言葉と、20世紀はじめに書かれた性格指向のアドバイス本に頻繁に登場する言葉とを比較した。

前者は、誰もが努力して向上させられる特質を強調し、つぎのような言葉が使われていた。

市民権
義務
仕事
品行方正
名誉
評判
道徳
礼儀作法
高潔

それに対して、後者が賞賛する特質は―デール・カーネギーはあたかも簡単に得られるかのように書いたが―手に入れるのがより難しく、つぎのような言葉で表現される。

磁力
魅力的な
驚くほどすばらしい
人の心を引き付ける
生き生きした
優位に立つ
説得力のある
エネルギッシュな

1920年代、30年代に、アメリカ人が映画スターに夢中になったのは偶然ではなかった。

魅力的な性格を持つ人物のモデルとして、映画スターは最適な存在だったのだ。

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他人と自分とを比較する劣等感

さらに、私たちは宣伝業界から自己呈示についての助言を否応なく受け取った。

初期の印刷広告が単刀直入に商品を宣伝したのに対して、個性指向の新しい広告は、この商品がなければ舞台にあがれない俳優という役を消費者に与えた。

そうした広告は、他人から否定的に見られるのではという不安をもたらしたのだ。

1922年に<ウッドベリー>の石鹸の広告は、「周囲の誰もが、そっとあなたを値踏みしています」と警告した。

<ウィリアムズ・シェービングクリーム>は「今この瞬間、あなたはだれかに見られている」と助言した。

マディソン街は男性セールスマンや中間管理職に率直に語りかけた。

たとえば、<ドクター・ウェスト>の歯ブラシの広告では、成功者ふうの男性がいかにも自信たっぷりに机の向こうに座って、「自分を自分に売り込んだことはありますか?ビジネスでも人付き合いでも、成功するための最大の要因は、すばらしい第一印象を与えることです」と問いかけた。

<ウィリアムズ・シェービングクリーム>の広告は、髪をきちんと整え、口ひげを生やした男性が「不安そうな表情をせず、自信に満ちた表情を心がけよう!他人は『外見』であなたを判断するのです」と呼びかけた。

素敵な恋人を手に入れるのには容姿だけでなく個性も大切だと、女性に訴える広告もあった。

1921年、<ウッドベリー>の石鹸の広告は、夜の外出が残念な結果に終わっても自宅で寂しげにうなだれている若い女性を登場させた。

彼女は「堂々として、陽気で、楽しくふるまいたかった」と広告には書いてあった。

けれど、ちゃんとした石鹸の助けがなかったせいで失敗した、というわけだ。

10年後、<ラックス>の洗剤の広告は、新聞の人生相談で有名なドロシー・ディックスへの哀れな手紙という設定だった。

「親愛なるミス・ディックスへ。いったいどうすれば、人気者になれるでしょうか?私はそれなりに美人で、頭も悪くありません。

ですが、臆病で人前に出るのが苦手なんです。

きっと、だれも私のことなんか好きになってはくれないと思ってしまいます・・・。

ジョーン・Gより」

ミス・ディックスの回答はじつに明快だった。

<ラックス>の洗剤で肌着やカーテンやクッションを洗えば、すぐに自分が魅力的だと心の底から自信が持てるようになる」というのだ。

こうした広告に見られる男女の関係の描き方は、新しい性格の文化の考えを反映していた。

人格の文化の限定的な(一部では抑圧的な)社会規範のもとでは、男女の求愛のダンスにはある程度の慎みが求められた。

しゃべりすぎたり、見知らぬ人に対するアイコンタクトが不適切だったりする女性は、ずうずうしいとみなされた。

上流階級の女性は比較的多くの会話を許され、当意即妙なやりとりをすれば賢いと判断されたりもしたが、それでも、顔を赤らめたり、伏し目がちに相手を見るよう心がけたりしなければならなかった。

「冷たいよそよそしさ」は「男性が妻にしたいと考える女性として望ましい姿であり、なれなれしい態度はもってのほか」とされたのだ。

男性は物静かな態度によって冷静な性質を示すことができ、力をひけらかす必要はなかった。

臆病さは嫌われたが、慎みは育ちのよさの証明だった。 

ところが、性格の文化が重要視されるようになると、男女を問わず儀礼の価値が壊れはじめた。

男性は女性に対して形式的な訪問を重ねて自分の意思を正式に伝えるかわりに、洗練された言葉による求愛をして、「一連の」手の込んだやりとりを求められるようになった。

女性と一緒にいるときに静かすぎる男性は、ホモセクシュアルだとみなされかねなかった。

1926年に刊行された本には、「ホモセクシュアルの男性はおしなべて臆病で、内気で、引っ込み思案だ」と書かれている。

女性もまた、礼儀正しさと大胆さとのあいだで微妙な舵取りをするように期待された。

ロマンティックな申し出に対して反応が内気すぎると、「温かみがない」と言われた。

心理学の研究者たちも、自信を示さなければいけないという考えに取り組みはじめた。

1920年代に、著名な心理学者ゴードン・オールポートが、社会的優位性を測るための「支配―従属」に関する診断テストをつくりだした。

「現代の文明は、積極的な『やり手』の人間を重要視しているようだ」と指摘したオールポート自身は、内向的で引っ込み思案だった。

1921年、カール・ユングが内向的な人々が置かれた不安定な状況について指摘した。

ユング自身は、内向的な人々は「私たちの文明において強く必要とされている内的生活」の価値を示す「教師であり、文化の推進者」とみなしていたが、彼らが「寡黙さや、あきらかに根拠のない気後れのせいで偏見を持たれている」ことも認めていた。

とはいえ、物怖じしないように見えることをとりわけ重要視したのは、「劣等感」と呼ばれる心理学の新しい概念だった。

今では一般によく知られているこの概念は、1920年代にウィーン出身の心理学者アルフレッド・アドラーが、自分が劣っているという感覚と、それがもたらす結果を表現するために命名したものだ。

アドラーはベストセラーとなった著書『人間の本質を理解する』の表紙で、「あなたは不安を感じますか?」「あなたは臆病ですか?あなたは服従的ですか?」と問いかけた。

子どもはみな、大人や年長のきょうだいに囲まれて暮らしながら、自分が劣っていると感じているのだとアドラーは説明した。

通常の成長の過程で、子どもはそうした感情を目標達成へと方向転換することを学ぶ。

ところが、成長する途中でなにか問題が生じると、強い劣等感を負ってしまう例がある―競争が激しさを増す社会において、これは絶対的な不利になる。

多くのアメリカ人が、社会的な不安を心理学的な概念で説明することを受け入れた。

劣等感は、愛から仕事にいたるまで人生のあらゆる分野の問題に対応する、万能の説明になった。

1924年、『コリアーズ』誌は、愛する男性が劣等感を持っていて成功しないだろうという理由で、結婚をためらう女性の話を載せた。

また、別の雑誌は、「あなたの子どもと最新のコンプレックス」と題した母親向けの記事で、子どもが劣等感を持つ原因とそれを防いだり直したりする方法について記した。

当時は、程度の差こそあれ、劣等感は多くの人の心配事となっていた。

リンカーン、ナポレオン、シオドア・ルーズベルト、エジソン、シェイクスピア―1939年の『コリア―ズ』誌の記事によれば、この全員が劣等感を抱えているとしたら、それはあなたの精神を鍛えてくれるのだから、このうえなく幸運なことだ」と、その記事は締めくくられていた。

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内向型と外向型、対照的な二つの性質
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内向型は生まれつきなのか

外向性と内向性の結末

『コリアーズ』誌の記事の希望に満ちた論調にもかかわらず、1920年代の子育ての専門家たちは、子どもに勝利者の個性を持たせるようにうながしはじめた。

それ以前には、性的に早熟すぎる少女や非行に走る少年がおもに問題とされていたのだが、心理学者やソーシャルワーカーや医師たちが、「環境に適応できない個性」を持つ普通の子どもたちに注目するようになったのだ。

とくに、内気な子どもが問題にされるようになった。

外向性は円滑な人間関係や経済的な成功をもたらすのに対して、内向性はアルコール依存症やうつ病といった悲惨な結末を導きかねないと、彼らは警告した。

そして、子どもを社交的に育てるよう親に助言し、学校では知識を詰め込むよりも「性格を育む手助け」をすべきだと主張した。

教育者たちは、この助言を熱狂的に受け入れた。

1950年に開催された<子どもと若者に関するホワイトハウス会議>のスローガンは、「すべての子どもに健全な個性を」だった。

20世紀半ばの善意の親たちは、沈黙は許されないものであり、男の子にとっても女の子にとっても社交的であることが理想なのだと考えた。

クラシック音楽のような地味で孤独になりがちな趣味は人気者になれないから好ましくないと、子どもに指導する親もいた。

親は社交性を身につけさせるのをおもな目的として、子どもが小さいうちから教育の場へ送りだすようになった。

内向的な子どもは問題があるとみなされるようになった(現在では、内向的な子どもを持つ親にとってよくある状況だ)。

社会学者のウィリアム・ホワイトは1956年のベストセラー『組織のなかの人間』で、親や教師がどのようにして内気な子どもを矯正しようとしたかについて述べている。

「Jさんは学校にうまくなじめません。担任の先生が言うには、勉強のほうはまあまあなのに、社交性の面がはかばかしくないとのことです。友達はひとりか二人だけで、どちらかといえばひとりでいるのがすきだそうです」ある母親がホワイトにそう話した。

そうした教師の干渉を親は歓迎するとホワイトは書いた。

「少数の変わった親を別にすれば、たいていの親は学校が子どもの内向的な傾向など偏狭な異常を直そうとすることを歓迎している」

親がそういう価値観を持つのは、思いやりがないせいでも鈍感なせいでもなかった。

たんにわが子に「現実の世界」と向き合う準備をさせようとしただけだ。

成長して大学に入ったり職に就いたりすれば、わが子は集団のなかで上手に立ちまわらなければならないのだ。

大学の入試担当官が求めているのは、特別な学生ではなく、外向的な学生だった。

1940年代後半に、ハーバード大学のポール・バック学長は、「繊細で神経質」や「頭でっかちな」学生よりも「健康的で外向的な」学生を入学させるべきだと言明した。

1950年には、エール大学のアルフレッド・ウィットニー・グリスウォルド総長が、理想のエール大生は「しかめ面の専門家ではなく、円満な人間だ」とした。

さらに、ホワイトがある学長から聞いた話は印象的だ。

「学生たちの推薦状を読んでいると、大学がなにを望んでいるかだけでなく、四年後に企業の採用担当者がなにを望むかまで考慮するのが常識になっているのを感じると学長は語った。

『外向的で活動的なタイプが好まれる』そうだ。

『つまり理想的なのは、平均して80点から85点の成績を取り、課外活動に熱心な学生』である。

『抜群の成績』でも性格が内向的な学生はあまり好まれないという」

この学長は二十世紀半ばの理想的な従業員は―企業の研究室に勤務する科学者など、めったに人前に出ない職種も含めて―沈思黙考型ではなく、セールスマン的な性格を持った根っからの外向型であることを的確に把握していたわけだ。

「『とびぬけて優秀』という言葉が使われるときには、『だが』という言葉がすぐあとに続くか(たとえば、『とびぬけて優秀であることはすばらしい、だが・・・』といった具合に)、『とっぴな』『変わったところがある』『内向的』『変人』といった言葉がついてくる」とホワイトは説明する。

1950年代のある企業の重役が、部下の不遇な科学者たちについて「彼らは組織のなかで他人と接触する。そのときに相手にいい印象を与えれば、それが役に立つ」と言った。

要するに、科学者たちの仕事は研究することだけでなく、販売を助けることでもあり、相手に調子を合わせる態度が必要になってくるというのだ。

企業人の理想を具現化した企業であるIBMでは、販売担当者たちが毎朝集まって、社歌である『限りなき前進』を大声で歌い、ミュージカルの名曲『雨に歌えば』を替え歌にした『IBMを売ろう』を唱和した。

歌い終えると社員たちはセールスの電話をかけはじめ、ハーバードやエールの入試担当官が正しかったと証明する業務にとりかかるというわけだ。

毎日、こんなふうに朝をはじめたいと思う人間は、ある特定のタイプの人間だろう。

そういうタイプでない社員たちも、できるかぎり努力しなければならなかった。

医薬品の消費の歴史は、多くの人々がプレッシャーに苦しむようになったことを示している。

1955年、カーター・ウォレスという製薬会社が抗不安薬ミルタウンを発売し、不安が熾烈な競争社会において当然の産物であることを知らしめた。

社会歴史学者のアンドレア・トーンによれば、ミルタウンはアメリカの歴史上もっとも急速に販売を拡大した薬だ。

1956年までに、アメリカ人の20人にひとりがこの薬を試した。

1960年までには、全米の医師が書いたすべての処方箋の三分の一が、ミルタウンあるいはエクワニルという名前の同種の薬のためのものだった。

エクワニルの広告は「不安や緊張は現代社会にはつきものです」とした。

1960年代に販売された精神安定剤セレンティルはもっと単刀直入に、これを服めば社会的パフォーマンスが向上するとした。

「適応できないことから来る不安に」と広告は強調した。

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外向型を賞賛する歴史

もちろん、外向型人間を理想とする考えはまったくの新発明ではない。

外向性は私たちのDNAに刻まれている―一部の心理学者によれば、まさに文字通りそうなのだ。

この特質は、アジアやアフリカでは、世界中から移住してきた人々の子孫が大半であるアメリカやヨーロッパほど優勢ではない。

研究者によれば、移住者たちは定住者たちよりも外向性があるから新天地を求めたのであり、彼らが移住先でその特質を子孫に伝えたと考えれば当然の話だ。

心理学者のケネス・オールソンは「個人的な特質は遺伝し、移民の波が新大陸に押し寄せるたびに、本国にとどまる人々よりもずっと活動的な人々が多くなった」と記している。

さらに歴史を遡れば、外向性を賞賛する痕跡をもっと見ることができる。

ギリシア人にとって弁論術は高尚な技術であり、ローマ人にとって最悪の罰はさまざまな社交を楽しめる町から追放されることだった。

同じように、私たちが「建国の父」を崇拝するのは、彼らが声高に自由を求めて叫んだからだ。

「自由を、しからずんば死を!」と。

宗教の分野では、18世紀の第一次大覚醒、すなわち「キリスト教リバイバル」と呼ばれる信仰運動もまた、聴衆を惹きつける手腕を備えた聖職者たちによるもので、普段は遠慮がちな人々を泣いたり叫んだり礼儀正しさを失ったりするほど話に夢中にさせられれば、すばらしい聖職者だとみなされた。

「微動だにせず立っている牧師や、まるで月と地球との距離を測定している数学者のように冷ややかにとぼとぼ歩いている牧師の姿を目にするときほど、心が痛み、悲しくなることはない」と、1837年にある宗教的な新聞が嘆いた。

この記事に表れている軽蔑感が示すように、初期のアメリカ人は行動を尊び、彼らが捨ててきた無気力で停滞したヨーロッパの貴族社会を連想させる知識人たちには疑いの目を向けた。

1828年の大統領選挙は、ハーバード大学の教授もつとめたジョン・クインシー・アダムズと、力強い戦争の英雄アンドリュー・ジャクソンとが競った。

ジャクソンのスローガンは二人の違いを効果的に際立たせた。

「ジョン・クインシー・アダムズは書くことができる。そして、アンドリュー・ジャクソンは闘うことができる」と訴えたのだ。

勝者はどちらだったか?闘士が文士に勝利したと、文化歴史学者のニール・ガブラーは表現した(ちなみに、政治心理学者たちは、ジョン・クインシー・アダムズは歴史上数少ない内向型の大統領だったとしている)。

だが、性格の文化の登場はそうしたバイアスをいっそう強化して、宗教や政治の指導者だけでなく、一般人にまであてはめた。

そして、石鹸会社は新しい魅力やカリスマ性を強調することで利益を得たのだろうが、この展開を喜ぶ人ばかりではなかった。

「人間一人ひとりの個性を尊重する考えは最低点に達した」とある識者が1921年に指摘した。

そして、「わがアメリカほど熱心に個性について語る国はないというのは、まさに皮肉な話だ。

この国では、『自己表現』や『自己育成』に関する学派があるほどだというのに、実際に私たちが表現したり育成したりしているのは、やり手の不動産屋にふさわしい個性のように思える」と述べる人もいた。

独創性がないと嘆く批判者もいた。

アメリカ社会は楽しませてくれる人にお金を払うようになった。

「ステージやそれに属する事柄がいかにたくさん雑誌に載っているかは驚くほどだ」と彼はぼやいた。

ほんの20年前には―すなわち人格の文化の時代には―そんな話題ははしたないと考えられていた。

それが、「社会生活の大部分を占めるようになり、あらゆる階級の人々の話題になった」のだ。

1915年に発表されたT・S・エリオットの有名な詩『J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌』にも、「会う相手に合わせて顔を準備する」という一節があり、自己呈示の必要についての心からの叫びが感じられる。

前世紀の詩人たちが田園をよぎる雲となって孤独に趙遥したり(ワーズワース、1802年)、ウォールデン池のほとりで隠遁生活を送ったり(ソロー、1845年)したのに対し、エリオットの詩に登場するプルーフロックは「形式的な言葉のなかにあなたを閉じ込める目」で見つめられ、壁際に追い詰められて身動きできなくなるのをなによりも心配している。

どうして人格より性格重視に変わったのか

100年ほど早送りしてみれば、プルーフロックの苦悩を表現した詩は高校の指導要網に明記され、記憶するように義務づけられたが、その後、オンラインでもオフラインでも自分のペルソナを上手に形づくるようになった10代の若者たちは、授業が終わればたちまち忘れ去る。

学生たちが住む世界では、地位や収入や自尊心は、性格の文化の要求に応える能力に、これまでにないほど大きく左右されるようになった。

他人を楽しませ、自分自身を売り込み、不安を表面に出してはならないというプレッシャーがしだいに強くなっている。

自分が内気だと思っているアメリカ人は1970年代には40%だったが、90年代には50%に増えた。

おそらく、自己表現の標準がますます大胆になるなかで自分を評価するせいだろう。

いまやアメリカ人の5人にひとりが社交不安障害―要するに病的に内気―だとされる。

精神科医のバイブルである最新版の『精神障害の診断と統計の手引き』(DSM-Ⅳ)は、人前で話すことに対する恐れは、それが仕事の妨げになるほど強ければ異常だとしている―たんに困ったことや不都合ではなく、病気だということだ。

<イーストマン・コダック>のあるシニア・マネジャーは、「心の知能指数(EQ)」を提唱した作家のダニエル・ゴールマンに、「もしあなたが、上司に成果を報告するのが苦手ならば、パソコンの前に座って複雑な回帰分析に熱中するだけでは十分ではないのです」と語った(あきらかに、もし報告するのが得意なら、回帰分析がある程度苦手でもなんとかなる、ということだ)。

だが、21世紀における性格の文化の影響力を測る最良の方法は、自己啓発の分野に戻ることだろう。

デール・カーネギーがYMCAで弁論術の最初のワークショップを開いてから、ほぼ一世紀が過ぎた今日でも、彼の著作『こうすれば人は動く』は空港の書店に必ず置かれ、ビジネス書のベストセラーでありつづけている。

デール・カーネギー研究所は現在でも彼の弁論術の講座に最新の改良を加えて提供し、円滑なコミュニケーション能力をカリキュラムの主眼としている。

1924年に設立された非営利教育団体<トーストマスターズ>では、会員たちが毎週集まって弁論術の練習に励み、「話すことは売ることであり、売ることには話すことが欠かせない」という創立者の考えは、現在も世界113カ国にある1万2500以上もの支部で受け継がれている。

トーストマスターズのウェブサイトでは、こんな宣伝用ビデオが放映されている。

同じ会社で働くエドゥアルドとシーラが「第六回グローバルビジネス・カンファレンス」の会場に座って、演壇に立って言葉に詰まりながら話している男性のお粗末な発表を聴いている。

「僕はあんな目に遭わないで、本当によかったよ」エドゥアルドがささやいた。

「冗談のつもり?」シーラが得心したような笑みを浮かべた。

「先月、新規顧客の前でプレゼンテーションしたときのことを忘れたの?

今にも失神しそうに見えたわよ」

「ええっ、あいつほどひどくはなかっただろ?」

「あら、同じようなものだったわよ。もっとひどかったかも」

エドゥアルドは恥ずかしそうな表情になるが、シーラはかなり平然としている。

「だけど、直せるわ。

もっとうまくしゃべれるようになれる・・・トーストマスターズを知っている?」とシーラが言う。

若くて魅力的な黒髪のシーラは、エドゥアルドをトーストマスターズの集会へひっぱって行く。

そこで、彼女は「真実か嘘か」という練習課題をやってみせる。

15人の参加者の前で自分の人生について語り、その話を信じるかどうか参加者たちに判断させるのだ。

「きっとみんなを騙せるわ」シーラは小声でエドゥアルドに言ってから、演壇へのぼる。

そして、自分はオペラ歌手だったのだが、家族との時間を大切にするために泣く泣く辞めたという作り話をする。

話し終えると、その晩の当番司会者が参加者たちに、シーラの話を信じる人は手をあげてと指示する。

すると、全員が手をあげた。

司会者はシーラに向かって、話が真実かどうか訊く。

「じつは、歌なんか全然歌えないわ!」シーラは得意げに微笑んだ。

1920年代に性格を築く必要性を主張する記事や本を真剣に読んだ人々と同じく、シーラは会社で一歩抜きんでようとしていたのだ。

「職場では熾烈な競争があります。

だから、自分のスキルを磨いておくことはこれまでになく重要になるのです」と、シーラはカメラに向かって語る。

だが、「磨かれたスキル」とは、どんなものだろうか。

誰にも見破られずに嘘の自己紹介をやってのけることだろうか。

声や身振り手振りやボディランゲージを効果的に使って、どんな話でも信じさせる―どんな品物でも売りつける―方法を身につけなければならないのか。

デール・カーネギーが子どもだった時代から、それらは打算的な向上心であり、どれくらい成果(よい意味ではなく)をあげたかのしるしだった。

デールの両親は高い道徳基準を持っていた。

息子には宗教や教育の分野に進んでほしいと期待していた。

そのような彼らが「真実か嘘か」と呼ばれるスキルを高く評価するとは考えにくい。

その点からすれば、カーネギーがベストセラー本に書いた、他人の尊敬を得たり他人を思いのままに動かしたりするための助言についても同じことが言えるだろう。

『こうすれば人は動く』には、「こうすれば人は喜んであなたの望みどおりに動く」「一瞬で人に好かれるには」といった章が並んでいる。