嫌われるのが怖い

嫌われるのが怖いとは

嫌われるのが怖いから友達の誘いを断れない

人付き合いのストレスについて悩んでいる嫌われるのが怖い人は、嫌われるのが怖くて無理やり相手に合わせなければならないことからくるストレスがきわめて強いことがわかる。
しかも、そのようなストレスは中学生や高校生の頃から強く感じているという。

中学生や高校生の頃、放課後に教室でみんなでダラダラ無駄話をするのが日課で、いつも帰ってから「時間を無駄にした」と後悔するのに、つぎの日もまた同じことの繰り返し。
付き合いが悪いと思われたくないために帰れない自分に、帰宅してから自己嫌悪する。

友達からの誘いを断れないという人は非常に多い。
中学生や高校生の頃もそうだったが、大学生になった今も変わらないという。
むしろ、行動の自由度が高まった分、いろいろと誘われることが多く、不本意ながら誘いに乗ることが多いようだ。

疲れているから帰りたいと思っているのに、ご飯を食べに行こうと言われると一緒に繁華街に行って食事をし、「カラオケに行こうか」と誰かが言い出し、「行こう、行こう」と賛同する声が聞こえると、「今日はちょっと疲れてるから帰るね」と言い出せず、結局カラオケでテンションを上げてしまう。
そして、家に帰ってから、ドッと疲れが出てきて、やっぱり断わって家でゆっくりすればよかったと後悔する。

友達から映画に誘われ、興味のない映画を観て、予想通りあまり楽しめない映画で、お金と時間を無駄にしたと後悔する。
それなのに、今度は興味のないコンサートに誘われると、また付き合ってしまう。
そんな自分に嫌気がさす。

興味のないイベントに誘われ、不本意ながら一緒に行く約束をしてしまったときなど、その直後から「断ればよかった。行きたくないな」「なんで断らなかったんだろう」と後悔ばかりしており、行く前から疲れ切ってしまう。

反対に、断わられるのが怖くて友達を誘えないという声も多い。
断わられたら傷つくし、断わられたらどうしようといった不安が強いため、誘うことができない。
その結果、友達の誘いに乗り、友達に合わせるばかりになってしまう。

誘いを断れないだけでなく、頼み事も断れない。
友達から面倒なことを頼まれたり、嫌だなあと思うことを頼まれたりしたときも、嫌と言えずに引き受けてしまう。

たとえば、いつも授業中まったくノートを取らずにラインをしたりゲームをしたりしている友達から、いつも試験前になるとノートを貸してと言われる。

「なんでこんなサボってばかりの人にノートを貸さないといけないの。絶対に嫌だ」と心の中では思うものの、それを口に出して言うことができず、心ならずも「いいよ」と言って貸してしまう。

ものすごく後味が悪いのだが、どうしても頼み事を断わる勇気がない。

そんなふうに気を遣うばかりの友達付き合いのことを考えると、なんだか虚しくてたまらないのだが、やはり断れない自分を変えることができない。

賛同できないのに、頷いて聞いている

興味のない話題に仕方なくつきあい、笑えないバカ話に大声で笑うなど、無理してみんなにつきあった後などは、かなり疲労感があるものだ。

だが、もっと困るというか、自己嫌悪に陥るのは、相手の言う事が間違っていると思うのに、それを言わずに、あたかも賛同するかのように頷いて聞いているときだ。

友達がそこにいない別のグループの友達のことを悪く言っているのを聞いて、「それは違う。あの子はそんな子じゃない」と心の中でつぶやいているのに、それを口に出せない。
それどころか、反射的に頷いてしまっている。

そんなときは非常に気分が悪い。
そこにあるのは、悪口を言う友だちに対する憤りではなく、悪口に賛同できないのに頷いて聞いてしまう自分に対する憤りだ。

ときに関係性攻撃に巻き込まれることもある。

関係性攻撃というのは、人間関係を悪意で操作しようとすることで、悪い噂を流したり、情報をわざと歪めて流したりして、仲間外れにしたり不信感をもたせたりすることを指す。

SNSが発達し、多くの人がスマートフォンでSNSをしている現在、ネットによる関係性攻撃はそこらじゅうで行われていると言ってよいだろう。
だが、関係性攻撃が行なわれるのはネット上にかぎらない。

仮想敵をつくることで自分たちの結びつきを強化しようという戦略が、国家でも企業でもよく用いられている。
学校の部活などでも、強力なライバル校を意識させることで仲間内をまとめようとしたりする。

そうした戦略が、友達関係でも無意識のうちに用いられることがある。

悪者をつくることで結束を固めようとするのだ。
「Aさんがあなたの悪口を言ってたよ」と言われ、Aさんのことをよく知っている自分としては、「そんなはずはない。嘘を言ってる」と思っても、気まずくなりたくないので、あえて反論せずに聞き流してしまう。

それならまだよいのだが、
「BさんがCさんのことを悪く言ってたよ。ひどいと思わない?」
と言われ、「Bさんがほんとうにそんなことを言うかな。なんか怪しいな」と思いながらも、
「それ、ほんとにひどいね。Cさんがかわいそう」
と共感を示してしまう。それどころか、cさんに会うと、
「Bさんがあなたの悪口を言ってたよ」
と、一緒になってBさんのことを悪く言ってしまう。
告げ口をすることで仲良くなろうとする友達に同調する。

そんな自分に嫌気がさす。
でも、あえて反論して気まずくなりたくない。

関係性攻撃が身近によくみられ、悪口でつながるなんて見苦しいと思うのだが、それに乗らずに注意などしようものなら、今度は自分が標的にされて悪く言われそうだから、仕方なく同調しているという人もいる。
そして、夜中に一日の出来事を振り返って、強烈な自己嫌悪に襲われる。
そした自己嫌悪から自傷行為に走る場合もある。

「バカじゃないの」と言いながら「いいね」を押す

相手の言うことが間違っていてもあえて指摘せず、ちょっと違うなと思っても相手の話の腰を折るようなことをせずに頷いて聞く。
それは、相手の気持ちを傷つけないようにという配慮のあらわれでもあるのだが、行き過ぎると嫌らしい態度になってしまう。

対面状況と違って、SNSの場合はこちらの様子が相手に伝わらないため、友達の投稿を見て、「バカじゃないの」とつぶやきながら、「いいね」を押すということがよく行なわれている。

バカなことをしている本人の写真の投稿を見て、「ほんとうにバカだな」と呆れながらも「いいね」を押す。
高級なレストランで食事をしている自分の写真を自慢げに投稿しているのを見て、「なに自慢してるの。気取っちゃって」とイラつきながらも「いいね」を押す。

そこまで呆れる投稿でなくても、日常の食事の写真を投稿している友達や、自分が買った服の写真をいちいち投稿する友達、どこかに出かけると必ずそこの風景の写真を投稿する友達に対して、「なんで自分の食べてる食事をいちいち他人に知らせる必要があるんだよ」「あなたがどんな服を買ったかなんて、だれも興味ないんだよ」「どうして自分がどこにいるかをみんなにつかまれるような投稿をするんだよ」などと批判的な気持ちになりながらも、反射的に「いいね」を押している。

そんなことをしていて気持ちが良いわけがない。
欺瞞的な行動を取っている自分に嫌気がさすのがふつうだ。

でも、相手はそんなことはわからないので、「いいね」がたくさんつくと、承認欲求が満たされ、気分がいい。
ほんとうはその「いいね」のほとんどが欺瞞的なものであったとしても。

その逆もある。
自分の投稿に対して、みんなが「いいね」を押してくれたり、好意的なコメントを書き込んでくれると、とても気分が良いものだが、じつはその「いいね」のほとんどが欺瞞的なものだったりする。

このように考えると、SNSというのは相手の本音が非常に読みにくいコミュニケーションだなと改めて思う。

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嫌われるのが怖い心理

遠慮しすぎて仲良くなれない

相手に失礼にならないように、相手が気分を害さないようにと気を遣っているのに、それが裏目に出て、心理的距離が縮まらないということもある。

初対面の相手や目上の相手に対して、失礼にならないようにと敬語で丁寧に話すようにしているせいか、なかなか親しげな雰囲気になれない。
それに対して、そんな気遣いをまったくせずにいきなりタメ口でしゃべったり、ときにからかったりして、見ていてハラハラする人物の方が、なぜか受け入れられ、仲良くなっていく。

人付き合いに特に気を遣うタイプは、そうした経験をするたびに、「おかしいじゃないか。なぜあんなずうずうしくて失礼な奴の方が受け入れられるんだよ」と納得がいかない思いに駆られる。

人付き合いに人並み以上に気を遣うタイプは、子どもの頃からそうした経験をしている。
先生はずっと年上の人だから、いつもちゃんと敬語を使って礼儀正しく応対するようにしてきた。
それなのに、先生に対しても友達に対するときのようなタメ口で話す同級生の方が先生のお気に入りみたいになって、しょっちゅう先生とじゃれ合っている。
部活でも、先輩に失礼があってはいけないと思い、いつも敬語で礼を尽くしている。
ところが、先輩に対しても友達感覚で話す同級生の方が、なぜか先輩からかわいがられている。

そうして経験を通して、遠慮せずに甘える方が親しくなりやすい、遠慮しすぎるとかえって心理的距離が縮まらないということがわかってくる。
それは頭ではわかっていても、どうしても気を遣い、遠慮してしまうのだ。

本音の交流ができなくて淋しい

さしさわりのない冗談を言って笑ったり、軽い情報交換をしたりするだけで、本音をぶつけ合える友達がいないので淋しいと悩んでいる人がいる。

相手に気を遣って合わせるばかりで、自分をあまり出さずに、相手がこちらに期待している反応を演じる。
わざと演じているつもりはないのだが、気まずくなりたくないし、変な奴と思われたくないので、自然に演じてしまう。

学生たちは、以前と比べて話さないわけではなく、賑やかにしゃべっているのだが、ほんとうに気になっていることを語り合うという雰囲気ではないことが多いようだ。

友達集団の会話がバラエティ番組化していて、ウケ狙いの発言がやたらと目立つ。

そんなのは虚しいということで、ほんとうに気になることを話したら、空気を乱したらしく、みんなが退いたから、もう本音は言えないと思ったという学生がいる。

そこで思い出すのは、精神科医の大平健が指摘したやさしさの変容だ。
大平は、若者の間でやさしさが変容していることを指摘し、それを「治療としてのやさしさ」から「予防としてのやさしさ」への変化というように特徴づけている。

お互いの心の傷を舐めあうやさしさよりも、お互いを傷つけない優しさの方が、滑らかな人間関係を維持するのにはよいということになったのだという。

かつては、相手の気持ちを察し、共感することで、お互いの関係を滑らかなものにするのがやさしさだった。
ところが今では、相手の気持ちに立ち入らないのがやさしさとみなされる。
相手の気持ちを詮索しないことが、滑らかな関係を保つのに欠かせなくなっている。

そのように説明する大平は、旧来のやさしさが相手の気持ちを察するのに対して、新しいやさしさは相手の気持ちに立ち入らないところに大きな違いがあるという。

このようにやさしさが変容しているとすれば、本音の交流がしにくいのも当然と言える。

「治療としてのやさしさ」が主流の時代なら、本音をぶつけることでうっかり傷つけてしまっても、なんとか修復できるだろうと信じることができる。

ところが、「予防としてのやさしさ」が主流の時代では、うっかり相手の気持ちを傷つけてしまったら、関係がぎくしゃくして修復不可能になりかねない。

それを防ぐコツは、お互いに相手の気持ちに立ち入らないことだ。

そうした変化の背景には、傷つくことや傷つけることを極度に恐れる心がある。
ウケ狙いの発言の応酬を楽しむ分には、本音のメッセージが刺さることもないので、傷つくのを防ぐことができる

ただし、それは無難ではあっても、本音の交流がないことの淋しさがつきまとう。

つながってはいても、なぜか物足りない

このように本音の交流がない淋しさや、つながりに絶えず縛られて気を遣うばかりの鬱陶しさを、だれもがどこかで感じている時代なのではないか。

形の上では繋がっているのに、どうも気持ちが繋がっていない。
みんなでワイワイするのが楽しいのも事実なのだけど、どこか無理していて疲れる。
何か物足りない。
もっと遠慮なくほんとうに気になることを話せるような相手がほしい。
そんな思いを抱えている人が多いはずだ。

学生たちは、
「友達はたくさんいるけど、やっぱり気をつかってるし、無理をしてる自分がいて、正直疲れる。
みんなと深く付き合うのは無理だけど、一人でも二人でもいいから気をつかわずに本音で付き合える友達がほしい」

「こんなふうに気を遣うのは本当の友達じゃないんじゃないかって思うんですけど、だからといって今の友達関係を捨てたら孤立しちゃうし、そんなことできないし、悩んじゃいます」
などといった意見が出て、多くの若者がそうした意見に賛同する。

上辺だけの繋がりは鬱陶しく感じるものの、「思ってることが違って、気まずくなるのも嫌だし・・・」
「本音を出して、変な奴と思われたらいけないし・・・」
「うっかり自分を出して退かれたら傷つくし・・・」といった思いも強い。
このように、お互いに「見捨てられ不安」に脅かされるため、なかなか率直な付き合いができない。

本音の気持ちの交流を求めながらも、一歩踏み出す勇気がない。
ただ群れることの虚しさと孤立する恐怖の板挟み状態にあるわけだ。

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嫌われるのが怖い原因

だれもが心の中に抱える「見下され不安」

友達からきついことを言われたり、嫌な態度を取られたりすれば、だれだって傷つく。

感じの悪い友達といると傷つけられることがあるため、できるだけかかわりたくないと思う。
それは当然のことだ。

だが、近頃の若者の友達付き合いを見ると、また若者と話しあったり、意識調査をしてみたりすると、友達に傷つけられる前からすでに傷つくことを過度に恐れている感じがある。

人からのアドバイスに対して、「あの上から目線にイラッと来る」といった感受性をもつ若者が増えていることに対して、そこに潜む心理を「見下され不安」という。

「見下され不安」とは、人から見下されるのではないか、バカにされるのではないか、軽く見られるのではないかといった不安のことだ。

それはだれもが心の中に抱えているものだが、「見下され不安」がとくに強いと、相手はけっして見下しているわけではなく親切で言ってくれた場合でも、そして実際に助かるアドバイスであっても、こちらに対して優位を誇示しているように感じてしまう。

アドバイスには「教えてあげる」「教えてもらう」といった構図があり、「教えてあげる」人物の方が「教えてもらう」人物よりも優位に立っていると言われれば、たしかにそうかもしれない。
でも「見下され不安」は、アドバイスに限らず、「手伝ってあげようか」といった言葉にも強く反応する。
親切で言ってくれたということは頭ではわかっても、「まだできないのか」「能率が悪いな」と言われているような嫌な感じがしてしまうのだ。

「見下され不安」の強い心の目には、親切な態度さえもが見下す態度に映る。
その結果、感謝するどころか、「上から目線にイラッと来る」ということになるわけだ。

専門機関による、大学生・専門学校生310人を対象に行なった意識調査では、「「上から目線」でものを言われてイラっとくることがある」が64%、「同い年の言葉に「上から目線」を感じることがある」も40%となっており、「上から目線」に過敏に反応する若者が非常に多いことがわかる。

また、「人から見下されたくないという思いが強い」が68%、「人から認められたいという思いが強い」が70%となっており、多くの若者が人からの評価に不安を抱いていることがわかる。

さらに、20代から50代の各年代175人ずつ、男女それぞれ350人ずつ、計700人を対象に実施した意識調査では、「人からバカにされたくないという思いが強い」が過半数に達しており、相関分析の結果、人の「上から目線」が気になる人ほど、つぎのような傾向があることがわかった。

  1. 他人に批判されると、それが当たっていてもいなくても無性に腹が立つ
  2. 人からバカにされたくないという思いが強い
  3. 何かにつけて不満に思うことがある
  4. 何をやってもうまくいかないと思うことがある
  5. 人と自分をすぐ比較してしまう
  6. 仕事(勉強)が嫌でたまらないことがある
  7. 人からどう思われているかがとても気になる

これをみても、現状への不満が強く、自信がなくて、「見下され不安」の強い人ほど、「上から目線」に過敏になっていることがわかる。

「見下され不安」が強いと、「上から目線」に過敏に反応するだけでなく、自分を実際以上に大きく見せようとして虚勢を張ることになりやすい。

つい話を誇張してしまう。

それをやりすぎてしまい、「あいつはいつも話を盛るからな」と見透かされたり、わざとらしさや必死さからかえって小人物にみられたりする。

相手のちょっとした言葉や態度に過剰に反応して、不機嫌になったり、挑発的な態度を取ったりするのも、「見下され不安」のせいでこっちのことをバカにしていると曲解してしまうからだ。

やっぱり嫌われるのが怖い

こんなふうに見てくると、そこまでして友達に気を遣い、自分を抑えて合わせるばかりというのは、どうにも滑稽に思えてくる。

夜、家で一人で振り返るとそう思うのだが、また友達と会うと気を遣い、自分を抑えて合わせるばかりの自分になってしまう。

なぜそうなってしまうのかと言えば、やっぱり人から嫌われるのが怖いからだ。
人から嫌われるのではという不安が、過度に気遣いを促し、嫌と言えない自分にさせる。

先程触れた大学生・専門学生を対象とした調査によれば、「人からどう思われているかがとても気になる」は79%、「人から嫌われたくないという思いが強い」は72%、「人から嫌われるのではと不安になることがある」は60%、「相手からどう思われるかが気になって、言いたいことを言えないことがよくある」は52%、「良い人を演じてしまうことがある」は60パーセントとなっている。

人からどう思われるかばかりを気にしていたら、気持ちが萎縮して伸び伸びとできないし、自分らしさが失われてしまう。

自分を出してみて、こっちを嫌うような相手なら、ほんとうの友達とは言えないし、嫌われたっていいじゃないか。
もともと合わない相手なのだから。
本を読んだり、新聞やネットの人生相談的なものを見ると、そんなことが書いてある。

それはたしかに正論なのだろう。
それでも、人からどう思われるかは気にせずにはいられない。

「人は人、自分は自分」と自分自身に言い聞かせようとしても、どうしても割り切れない。
やっぱり嫌われるのは怖い。

嫌われる勇気

そんな葛藤を抱えているとき、「自分らしく生きるためには嫌われるのを怖れていてはダメだ。
嫌われる勇気をもつことが必要だ」などと言われると、そんな気がしてくる。
嫌われてもいいと思えれば、どんなに楽だろう。
そんな思いになる。

  • 嫌と言えない自分が嫌だ。
  • 落ち込んでいるのにサービス精神ではしゃぐ自分が淋しい。
  • 自分の意見も言えず、いつも相手に合わせるだけの自分に自己嫌悪。
  • つながりが煩わしいのに、離れる勇気がない。
  • 仲間から浮くのが嫌で、流されてる自分が好きになれない。
  • 周りの反応を気にして、さしさわりのない話しかできないのが物足りない。
  • 嫌われるのが怖くて、距離を縮められない。
  • 反発を恐れて言いたいことも言えない自分が情けない。

そうした思いに苛まれる人にとって、「嫌われる勇気」という言葉は新鮮だ。
「こんなの虚しいし、鬱陶しい。でも嫌われたくない」といった葛藤を抱え、「こんな自分はもう嫌だ。変えられるものなら自分を変えたい」といった心の叫びをあげている人の心に、「嫌われる勇気」という言葉は、とても魅力的に響く。

何かに縛られ、自分の思うような生活になっていない。
「人からどう思われるか」ばかりを絶えず気にして、非常に不自由な生き方を強いられている。
そんな思いを抱える人にとって、「嫌われる勇気」という言葉は、ある種の救いになる。

「そうだ、そんなに人のことを気にしなくていいんだ」「嫌われたっていいって考えれば、もっと自分らしく生きられるじゃないか」と思えば、気持ちが楽になる。

ただし、変に開き直ると、せっかくうまくいっている人間関係を壊すことにもなりかねない。

周囲にうまく溶け込んでいた人物が、いきなりわがままになり、「いったい、どうしちゃったんだ」と周囲を驚かすことがある。
無理をして人に合わせることはない、人からよく見られようなどと人の意向を気にする必要はないと思うことで、逆に極端に自分勝手になり、相手に不快感や不信感を与える不適切な行動を取るようになってしまうわけだ。

カウンセリングの本には、「無理をしなくていい」「自分を抑えるから苦しいのだ」「もっとわがままになっていい」「無理していい人を演じるのはやめよう」「人からよく思われようと思うと自分らしく生きられない」などといった救いのメッセージが書いてあったりする。

それは、あまりに無理をして自分を抑えすぎて、窒息しそうになっている人に向けての救いのメッセージと言える。
そこまで無理をしすぎるから疲れてしまうんだよ。
もう少し楽に、自然体に構えたらどうだろう。
そんな意味で言っているわけだ。
あくまでも無理をし過ぎて苦しくてしようがないという人に向けてのメッセージなのである。

適度に気配りができている人が、人のことをそんなに気にすることない、もっとわがままに自分を出していいなどと思って、傍若無人に振る舞うようなことがあるが、それでは傍迷惑な存在になるだけだ。

嫌われる勇気を持とうと思うことで、過剰適応気味なのを多少和らげれればよいのだが、いつも自分を抑えすぎているため、適度に自分を出すという感覚がわからない。

相手の立場や気持ちと調和させながら自分を出すということがうまくできない。
そこでいきなり自分を出そうとすると、ついストレートに出し過ぎてしまう。

人のご機嫌を取るために生きているわけではない。
「嫌われたくない」とか「よく思われたい」などと人からの評価ばかりを気にする生き方なんてつまらない。
嫌われたっていいじゃないか。
もっと自分に正直になろう。
そんな気持ちにさせられる。

そう思って自分を抑える手綱を緩めても、きちんとした行動が取れるのは、元々よほどバランスのよい心をもつ人だ。
ともすると、「もう我慢することはない」と思うことで、非常にわがままな心が前面に出てきて、利己的な衝動が丸出しになってしまうことにもなりかねない。

ここに、「嫌われる勇気」という言葉にうっかり魅せられることの危うさがある。

「嫌われる勇気」という言葉は、窮屈な生き方をしている人にとって救いの言葉にもなり得るが、場合によってはこれまでうまくいっていた人間関係を破壊する悪魔のささやきにもなる。

そこのところをちゃんと踏まえておかないと、とんでもない目に遭うことになりかねないから注意が必要だ。

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