対人恐怖症や社交不安障害は善?

裕福で優しい両親のもとで生まれる人もいれば、

貧しくて底意地悪い両親のもとに生まれる人もいる。

もっと言ってしまえば、人種や国籍、民族の違いだって横たわっています。

しかし、何が与えられているかに執着しても現実は変わりません。

我々はは交換可能な機械ではありません。

我々に必要なのは交換ではなく更新なのです。

対人恐怖症、社交不安障害の人は自らの手で不幸であることを選んでいるのです。

昔の哲学者でソクラテスという人が唱えた言葉で、「誰一人として」悪を欲する人はいない」という言葉があります。

強盗や殺人など、行為としての悪は、山のように存在します。

しかし、どんな犯罪者であれ、純粋に悪事としての悪事を働こうと思って、犯行に手を染めるものなどいません。

すべての犯罪者には犯行に手を染めるだけの内的な「しかるべき理由」あってのことで、例えば金銭がらみの怨恨によって殺人を犯したとする。これだって本人にとってはしかるべき理由があって、言葉を変えるなら「善」の遂行なのである。

もちろん道徳という意味ではなく、自分のためになる善ですが。

善という言葉には道徳的な意味合いはなく、ただ、為になるという意味です。

一方悪というということばには為にならないという意味があります。

この世界には不正や犯罪などさまざまな悪行がはびこっています。しかし純粋な意味での悪=為にならないことを欲する者などひとりもいないのです。

対人恐怖症、社交不安障害の人はどこかの段階で対人恐怖症や社交不安障害が自身にとっての善だと判断した、ということなのです。