日本人のひきこもり

ひきこもりは日本独特の現象だった

「ひきこもり」を生む日本の特質とは

日本でいう「ひきこもり」は、今では英語圏でもローマ字で「Hikikomori」と書くことで通じるようになっている。
アメリカにおいて「Hikikomori」でひきこもり現象が表現されるようになったということは、ひきこもりが日本独特の現象であることの例証ともいえる。

日本独特の現象と考えたとき、まず社会の側の要因と個人の側の要因、さらにその相互作用という三面から原因を追求しなくてはならない。
また、いつの時代にもひきこもりという現象自体はあったにちがいない。
しかし、なぜ今、それが八十万人とも百万人ともいわれる重大な現象になってしまったのか。
その背景にある、現代特有の要因を突き止めねばならないであろう。

まず、ひきこもりを引き起こしやすい社会構造があると考えられる。
日本の社会の現代化が進み、ことに高度経済成長によって社会そのものがきわめて複雑になり、競争社会が激化した。

経済が成長し、社会が豊かになれば、それだけ社会が複雑になっていくというのは、どこの国でも同様である。
しかし、この競争社会の序列化の厳しさは、日本独特のものといえる。

どこの国でも競争があるのは当然であるが、日本はその激しさが際立っている。
小学校、中学校の頃から、学力によって序列化され、それに基づいて、進める学校も決まる。
それが大学まで続き、さらに一流大学を卒業しなければ、一流企業へ就職できないという構造になっている。

子どもたちは、この固定化した競争社会の中で、幼い頃から偏差値という価値基準で輪切りにされ、学校に対して逃げ腰になっていく若者が増えるのは、ある意味当然であろう。
固定化、序列化された社会では、精神的に強く、学力競争に勝ち抜けるごく一部の人たちしか、自分の自由を獲得して生きていくことができない。
しかし、このような勝者が本当に勝者なのであろうか。
創造力の欠如した単なる完璧癖の人も多いのではないのかと思ってしまう。

また、個人の側面では、対人関係能力がきわめて低下してきている。
そのため社会に出ていくことに、ためらいを感じる人間が増えている。
この対人関係能力の低下は、少子化、競争社会の進展によって、個人個人がますます分断化されることで、より深刻なものになっている。

さらには、日本独特のいじめ現象が対人関係能力の弱い人をいっそう弱くさせ、彼らに集団に入ることを拒ませる要因になる。
これほど文明が発達し、近代化した日本において、封建的な村社会的な構造である、異質な者を排除するという「村八分」的な性質が逆に強くなってさえいるように思える。
それが、いまの「いじめ」の形にも影響しているといえる。

多くの若者に「画一化」を求め、周囲となじめないような人を弾こうとする社会となっているのだ。
ここで弾かれる人たちの何割かが、やがてひきこもりに向かうことになる。

つまり、社会が複雑化し、序列化され、厳しい競争社会という枠組みの中で、若者たちの一部はそれを乗り越えることができず立ちすくんでしまい、ひきこもりへの道を選ぶことになる。
また、対人関係能力の低下によって個人がますます集団の中で分断され、集団や学校組織、会社組織に怯えている。
彼らは自分の部屋にひきこもることによって、ようやく自分を守ることができるのだ。

しかし、ひきこもっていて本当に楽かといえばけっしてそうではない。
彼らは怯えて、自分の部屋に潜むのであって、「ひきこもり」と呼ばれること自体におどおどしながら劣等感をもって生きているのだ。
時に高い自尊心を示すケースもあるが、多くは空威張りすぎず、満たされることはないのである。

絶望しながらも自尊心が高い「ひきこもり」の苦しさ

「ひきこもりは日本特有である」ということに対して疑問を抱く人もいる。
しかし日本の精神科医で、長くアメリカで精神分析の実践を行ない、帰国して再び日本の患者を診断している精神科医・中久喜雅文氏は、不登校やひきこもり、出社拒否症などをあげ、「これらはアメリカには見られない。日本文化に特有のものであろう」と述べている。
実際、日米両国で長く治療実践をした精神科医の言葉だけに重みがある。

日本のひきこもりは不登校から生じていることが大部分で、その不登校もいじめから生じるケースが多い。
しかし昨今は、中学を卒業したけれどぶらぶらしている、高校へ行っても途中でやめてしまいぶらぶらしている、いわゆる無職少年や、また大学中退、会社を辞めた後、そのまま家にひきこもってしまう青年が多いことにも注意しなければならない。

ひきこもりといわれる人たちの中には、学校や会社を辞めてそのまま家にいるケースが、かなりの割合で見られる。
彼らの多くは親に経済的に依存している。
自分で努力して社会に出る意欲を失い、漫然と家にいる。
そして親は彼らをうつ病に近い状態と見ていることが多い。

親がどんなにせき立てても、彼らは動こうとはしない。
さらにせき立てられれば大変な家庭内暴力を起こすこともある。
母親も父親もお互い顔を合わせてうなだれているというケースが多い。

ひきこもっている青年たち自身もけっしてそれでよいと思っているわけではないのだが、「自分はもう駄目な人間」「一人前に働くこともできない人間」「一人前に勉強もできない人間」「人と接することができない人間」と、自分を規定してしまい、世界とのつながりを自ら断ち切ってしまうのである。

彼らの多くは断念し、絶望している。
その感情が強いために、誰からの働きかけも受け付けなくなってしまっているのだ。

しかし、自尊心は強い。
悩んでいるケースの中でも、自分に嘆きながらも、心の奥には深い自尊心を秘めていることがとても多い。

「こんなレベルで社会に出たって並ではないか。並の人間ぐらいなら駄目な方がまだましだ」

というオール・オア・ナッシング(すべてか無か)の考え方でひきこもっている人もよく見られる。

このような場合は、オール・オア・ナッシングの考え方の改善ができれば、そしてまた自尊心をもう少し柔軟なものにすることに成功すれば、社会に出て行けるのだが、実際はなかなか困難である。

しかし一つ救いになることは、このような若者が集う場所、自立援助組織では仲間同士の刺激で自ら社会に旅立っていく青年たちが多く見られることである。

親や教師がどんなに説教をしても、あるいは精神科医がわかったような言葉で治療するよりも、彼ら自身の同世代の刺激、同世代との会話、同世代との遊びが、ひきこもりを是正するのに大きな力になっている。

豊かな競争社会が生んだもの

ひきこもりの人たちの背景には、日本が豊かであるということが当然影響している。
豊かであるがゆえに、働かねばならないという圧力が昔よりも弱くなっているからである。
少子化社会、過保護社会が、この傾向をよりいっそう強めているといえる。

また、教育期間が長くなったことも大きな影響を与えている。
子どもたちは、社会に出る準備をしているだけで疲れてしまう。
「受験勉強によって疲れた」とひきこもる子どもたちが数多く見られる。
とくに、いわゆる偏差値の高い進学校を目指して勉強してきて、不合格になった人に多い。
あるいは進学校に合格したとしても、ひきこもりになってしまう人も少なからずいる。
入学までの疲れを癒すことができない人たちである。

疲労は遊ばなければ癒せないが、進学校であるがゆえに入学後も遊ぶこともできず、さらに勉強に駆り立てられて、疲労を取り除くこともできないというケースだ。

有名大学の医学部に入ったのに勉強意欲を失い、就職への意欲も失い、ただ漫然と日々魚釣りをしていた大学生がいた。
彼は大学一年の課程で四年間も留年し、さらに休学を重ね26歳になっていた。
さすがに親があわて、病院に連れて来たのだが、
「なぜそんなに長く大学に留年するのですか?」
と聞いても、
「さあ、何となくなんですよ。魚釣りがおもしろくて。オートバイに乗っていろんな海岸に行くんです。そして魚釣りをしていると、ついつい学校なんてどうでもよくなってしまうんです」

と淡々と話す。
たしかに都会人の彼には自然は楽しいのかもしれない。

私はこの彼の言葉にけっして異常さを感じるわけではない。
役に立つかわからない難しい受験勉強の果に、彼はひとり静かに魚を釣ることに安らぎを見出していたとするならば、彼を特別な人間として見ることはできないと思う。
むしろそこまで追い込む社会、そこまで追い込む受験体制という日本の実状に問題があると考えざるを得ない。

彼らは、それを乗り越える力を発揮すべきであるが、真の解決は難しい。
受験戦争の流れに乗るか、さもなければドロップアウトするしかないようにさえ思える。

ひきこもる子どもを生みやすい「過保護」

受験体制をめぐる日本の子どもたちの環境は非常に厳しい。
だが、それを違う角度からとらえると、子どもにとって日本ほどの過保護社会はないといえる。

一例をあげれば、日本人の子どもがアメリカにホームステイをした場合、「アメリカの家庭やアメリカの親は自分をあまり構ってくれない。冷たい」という感想を抱く子どもが多い。

逆にアメリカ人の子どもが日本にホームステイをした場合は、「その家の親は自分をかまいすぎる。自由にして欲しい」と言う。

日米の家庭のあり方の違いが、垣間見える対照的な回答だ。
アメリカでなくても、ヨーロッパでも同じことがいえるであろう。

アメリカには過保護からくる境界性人格障害のケースはほとんど見られない。
しかし日本では、過保護からくる境界性人格障害が一番多いのだ

数字をあげれば、ある精神科で診た75人の境界性人格障害のうち、日本では62.7%が過保護であり、30.7%が放置、つまり育児の拒否であり、4%が暴力・虐待である。
アメリカでは虐待が80~90%に及び、そのうち40%に性的虐待が見られた。

この例からもわかるように、日本では過保護ということが、社会に出て行けないほどその子どもの自立心、独立心を奪っていると考えられる。
また、過保護のために、自己愛ばかりが過剰で、些細なことで傷つきやすい若者たちが増え、社会に出る勇気や技術を身につけることができない、「ひきこもり」を増加させている

子どもがいつまでも親に経済的に依存することを許すのも、親の方から子どもへ、「無理をしなくてもいいよ」という無意識の非言語的サインを送っているからであろう。

しばしば「過保護というのはペット化という虐待である」と言われている。
日本の親は過保護になることによって、自分の親としての責任を果たしていると思いたがっている。
しかし、それは親の思い込みにすぎず、実際は過保護によって子どもをスポイルし、子ども自身が生きようとする独立心を、親自身が奪ってしまっているのである。

アメリカでは、子どもが日本と同じように学校に行かなくなったり、会社を辞めた場合には、ひきこもるよりも、むしろ親の家から離れ、旅に出てしまう。
旅をしている間に就く仕事は、安定した職業ではないし、また認められた学校に行くというわけでもない彼らは、社会からのドロップアウトした存在ということになる。

しかし、そういう生活を彼らは自ら選び、また自分の力で生きていく。
彼らの多くは、自ら自由な生活を選び、アメリカ中、あるいは世界中を転々としていく。

こういう傾向は日本ではまったく見られない。
日本では親のもとにひきこもり、親の経済的保護の下で生きようとする。
ここにおいても日米の文化の違いが明瞭に表れているといわざるを得ない。

ひきこもるきっかけになりやすい「いじめ」

ひきこもりが日本的現象である大きな原因の一つに、いじめの問題が関係していることがある。
いじめの多さでは、日本は世界でも有数の国といえる。
また、いじめを止めようとしないのも、日本の特徴である。
アメリカのデータでは、いじめがあれば80%は仲間が止めるということであるが、日本の場合には逆に、わずか20%の人しか、いじめ問題の解決にかかわろうとしない。

いじめにかかわるべきではない、かかわらないで見て見ぬふりで過ごそう、というのが日本の子どもたちのごく普通の態度なのだ。
それは子どもだけではなく、大人も含めて、多くの日本人の普通の対応なのかもしれない。

ひきこもりの人たちの話を聞いていると、小学校、中学校あるいは高校で深刻ないじめを受け、不登校になり、そこからひきこもりになったという人が、約半数ぐらい見られる。

それが実際にどういういじめだったのか、あるいは本当にいじめだったのかどうかは、ひきこもった子どもの意見しか聞いていないので本当のところはわからない。
実際はたいしたことではないことを、本人が、いじめとして過敏にとらえたのか、本当にいじめがあってひきこもったのかは、判断の難しいところではある。

しかし、中には深刻ないじめがあり、それでひきこもったという人がまちがいなくいる。
そして、いじめがあったかどうかはともかく、被害妄想的、あるいは被害的な気持ちが強く、ちょっとしたことでも気になって、いじめと考えてひきこもってしまう人もかなりいると考えられる。

いずれにしても、集団の中でいじめがあっても、いじめを止めようとしないというのが問題である。
たとえ、多少被害妄想的に受け止める傾向が強い子どもであっても、周囲に自分の味方になってくれる友人がいたり、あるいは、何かいじめまがいの嫌がらせを受けるようなことがあっても、止めてくれるような人がいたら、それほど深刻にならずに済むことも多いのではないかと思われる。
その点では、日本の教師はいじめを止める力に乏しいのではないか。

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日本的な「対人過敏」とひきこもり

ひきこもっていくプロセスの中にも日本独特のものがある。
いったん不登校になったり、ひきこもったりすると、昼間、外へ出て行くことに彼らは怯えるのである。

「あの年になって学校や会社に行かないというのはどういうことなんだ。病気じゃないのか」などと噂されることに怯える。
噂に怯えるというところに、日本人独特の「恥の概念」「対人過敏」「対人恐怖」といった性質が大いに関係している。
「対人恐怖」も日本人独特で、アメリカの精神医学の教科書や診断基準にも、「社会恐怖」のところで、「日本ではこれは『Taijin Kyoufu』と呼ばれている」と記されている。

はじめはいじめや先生が嫌い、あるいは勉強が嫌いだといって不登校になったとしても、不登校が続いた後で学校へ行くと、みんなから何かと騒がれる。
そのことに怯えて学校へ行くのが怖くなってしまう。

ある日、外来にやって来た小学校五年生の不登校のC君も、「今さら学校へ行っても、みんなから『来た、来た』といわれるだけだ。

そしてからかわれ、じろじろ見られ、さらし者になってしまう」と言う。
それならば、「はじめから学校を休まなければいいじゃないか」と言うと、「学校は行きたくない、面白くない、人がいることが嫌だ、人が怖い」などと繰り返すだけなのである。
「何か原因があったのかな?」と聞いても、「わかんない」「さぁ・・・」といった感じで、原因を追及することは難しい。
このC君のように、そもそもの不登校の原因を追及しても、ほとんどわからないというような例は多い。

彼らの話や行動で大体わかるものもあるが、それでも確かとはいえない。

何となく学校へ行きたくない、あるいは何となくひきこもる。
そこには、漠然と人が怖いという心理があるようである。

「ひきこもっていて、これでいいのかと思うけれど、これしかないと思う」という言葉が、しばしばひきこもりの人たちから聞かれる。

そして「この年でぶらっと外へ出るのも恥ずかしい」「見つからないようにずっと家の中にいたい」という言葉に、対人過敏、対人恐怖が恥の気持ちにまで結びついてしまっている様子が見て取れる。

いじめに過敏になってしまう人々

二十六歳の女性D子さんは、学校でいじめられ、小学校高学年から学校へ行くのをやめてしまい、家にひきこもり、母親に家庭内暴力を繰り返していた。

彼女によれば、「いじめは、髪が縮れ毛だから」と言う。
これはおそらく彼女の過剰な反応と思われる。
まず彼女自身が、縮れ毛は醜いと信じ込んでいる可能性がある。
つまり、身体醜形障害だった可能性が考えられた。

家庭内暴力があるので、担当医師は入院を勧めた。
入院させたのは、暴力を止めるというだけでなく、対人関係を学ばせ、ひきこもりから脱却させるためでもある。

彼女は入院すると、家庭内暴力とは無縁な、実にいい娘さんであった。
看護師への対応もきちんとしていて、他の患者への対応もいい。
ただ、担当医に対しては「病院に入れられた」ということで、いささか不機嫌な表情を見せていた。
一カ月半ほど入院し、改善の兆候が見られたので、退院の話になったとき、彼女は、「これからアパートを借りて一人で住みたい」と言い出した。
家族と治療者である医師もみな賛成し、退院することとなった。

十六歳の少年E君は小学生のときに仲間からのけものにされ、さらには非行グループにいじめられたために、怖くて学校に行けず、小学校高学年から不登校になってしまっていた。
それ以来、中学校にも、高校にも行っていなかった。
E君は自分の家から一人で出ることができない状態であった。
それは、昔、自分をいじめた子が現われるのではないか、という恐怖心からであった。

彼の話によれば、
「家の回りに、実際そのような男性がやってきて、大声で怒鳴ったりする」と言う。
しかし母親は、
「そんなことはないわよ。十年も昔のことで、そんなことが起こるわけないじゃない」と否定する。
この場合、はじめはいじめはたしかにあったと思われる。
ただその後十年ちかく、いじめが延々と続いたというのは、どうもありそうもない話である。
そこに、彼の被害妄想的なものが絡んでいるように思えた。
また、いじめを思い出すとパニックになり(フラッシュバック)、PTSD(外傷後ストレス障害)になっていた。

とはいえ、彼は被害妄想的であっても、統合失調症のような幻覚妄想があったわけではなく、対人過敏が行き過ぎて、被害妄想、あるいは関係妄想を抱くようになって、人に怯え、人との接触ができなくなったようであった。

いじめをきっかけにしたひきこもりというのは、実によく見られる。
はっきりとしたいじめにあってトラウマを受け、それによって学校へ行かなくなったという人が多い。
だが実際に話をよく聞いてみると、ほとんどがいじめられるという恐怖のあまりに外へ行けなくなってしまっている状態なのだ。
あるいは、わずかなことでもそれをいじめととらえてしまい、ひきこもってしまっている場合もある。

傷つきやすくなった日本人

はっきりといじめと判定できるかどうかは別にして、いじめに類した事態はしばしば起こる。
そうした話を聞いていると、日本ではなぜいじめ(またはそれに類する人間関係)がこれほど多いのかと考えさせられてしまう。
しかも、いじめを少なくしようとする努力が学校でもあまり見られず、親の方でも、対応が十分にできているとはいえない。

しかし、はっきりいじめとはいえないようなことをいじめと受け取り、ひきこもってしまうケースでは、本人に弱いところがあると言わざるを得ない。

たとえば、ある有名進学校の生徒F君のケース。
彼は友人から「おい、この数学わからないんだけど」と聞かれ、F君は「なんだ、そんな問題がわからないの」と答えてしまった。
そのために、友人はプライドを傷つけられ、その後みんなにF君のことを「あいつは生意気だから付き合うな」と言ったという。

そのため、F君はみんなから仲間外れにされてしまい、その事件の一カ月後にF君は不登校となり、まったく学校へ行かず、ひきこもるようになってしまった。

これはきわめてデリケートなケースである。
二十年前ならば、これがいじめとして問題になるとはとても思えない。
たしかにF君も弱いが、「そんなのがわからないの」と言われたぐらいで、プライドが傷ついた友人も弱い。
まさに心の弱い者同士、あるいは過保護を受けていた者同士のいじめである。

F君には、診察に来た時、「君は学校へ行かなくなったことが悔しくないのか?」と聞くと、「悔しい」と言う。
さらに「では、彼のいじめで自分の人生がめちゃくちゃになってもいいのか?」と聞くと、「それも悔しい」と言うので、「悔しかったら、きみ学校へ行けばいいじゃないか。
彼を無視して堂々と学校へ行くということが、彼のいじめに打ち克つことではないか。
そして自分の人生を元に戻すことではないか」と、けしかけてみた。

すると彼は「明日から行きます」と怒ったように大声で言い、実際その翌日から彼は学校へ行き始めたのだ。
医師がけしかけたことに対する彼の怒りがエネルギーとなって、彼は学校へ行くようになり、彼のひきこもりは十カ月で終わった。

このように臨床の現場では、きりがないほど若者のいじめという問題にぶつかる。
いじめることは悪いことだというモラルが育っていないのである。
そこは、家庭教育、学校教育で矯正していかなければならないことであろう。

ひきこもりを助長してしまう親の姿勢

G君はある有名私立中学の一年の秋頃から、四年近くもひきこもっていた。
自分の部屋に完全にひきこもり、両親を部屋の中に絶対に入れない。
医師が「なぜ、こんなことをしているの?」とG君に尋ねると、彼は、「中学には三番で入ったのに、一年の夏頃から成績が下がってきて、真ん中くらいの成績になってしまって、すごく傷ついたんです」と言う。
そしてさらに、「お母さんが何でもかんでも僕の進む道を決めて、僕の好きなようにはさせてくれない。こんな悪い母親はいません」とも言うのである。

医師はG君を入院させたほうがよいと判断し、両親と相談の上、彼を病院へ入院させた。
ところが、驚いたことに翌日、お母さんが病院に来て、彼を連れて帰ろうとするのだ。

お母さんは、「息子は他人である先生とよく話をするし、もう大丈夫です。それに、息子が精神病院に入院したなんてことが世間に知れたら、将来の就職や結婚に影響しますから」と言う。

医師は「お母さん、息子さんは大丈夫ではないですよ。このまま入院させたほうがいいですよ。それに失礼ながら、もう四年間もひきこもっています。
まず、息子さんのひきこもりをきちんと治療することが第一じゃないですか。
就職とか結婚などという問題は、とてもいま考えられないでしょ」

と言ったのだが、お母さんはG君を退院させて連れて帰ってしまった。
案の定、彼はその日からまたひきこもってしまい、両親がどうしたらよいものかと再度、同じ医師のところに相談にやってきた。
両親は病院には入院させたくないのだから、医師は、「アパートを借りて、息子さんをそこで一人で生活させてみるのもいいですね」とアドバイスした。

両親は医師のアドバイスに従ってアパートを借り、G君もそこに移った。
ところが彼は、一人で生活することができない。
彼は、コンビニでどう買い物してよいのかわからないというのである。
結局、彼は実家に戻ってしまった。

有名進学校に合格する力はあっても、自分で生活する能力がほとんど育っていなかったのである。
このお母さんのように、世間体や見栄にとらわれて、子どもを自分でつかまえて離さないという態度では、G君のひきこもりはなかなか治らないと思われた。